google-site-verification: google03647e12badb45de.html 寺ブログ by副住職 - 遍照院 へんじょういん  お護摩と占い鑑定【公式】

遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
お祈りごとも、お祓いも、
占いも、迷いごとの相談鑑定も、
丁寧な供養や鎮魂も
宗派が違っても、
檀家じゃなくても、頼りに出来るお寺
遍照院へようこそ。
2024-04-20 22:01:00

勇者よ!!

ネットでふと、目に入って来た言葉。

ありのままに見、あるがままに行動できる者を、勇者と呼ぶ」byチャールズ・エバレット

 

チャールズ・エバレット氏とはアメリカの哲学者だそうだが、これは仏教の根幹に通じる言葉だ。

yuusya_game.png

煩悩に覆われて、何事も歪めてしか見ることが出来ないのが、如何ともしがたい、人の常なる性。その罣礙を打ち破って、ありのままに見、ありのままに行動出来る「目覚めた人」を仏陀という、のはご存じの通り。

 

しかし「勇者」とはどういうことか?

 

ここに胎蔵大日の真言がある。a-vi-ra-hum-kham

 ※表記の仕方が分からないので四声は略します

 

梵字真言には数多の意義が含まれるとは既述だが、単純訳だとこの真言は「おお!勇者よ!」なる意味だという!釈尊が成道した時に神々が発した言葉に由来するとか云々。

buddha_satori_gedatsu_bodaiju.png

そして大仏頂陀羅尼で如来の筆頭に挙げられるのは

drdhasurasenapraharanarajaya tathagatayarhatesamyaksambuddhaya

 ※表記の仕方が分からないので四声は略します

 

学者によって訳し方は異なるが、「堅固勇猛にして軍を打ち破る如来の王よ」である。これが勇者=先の胎蔵大日「a-vi-ra-hum-kham」と通じるのは言うまでもない

 

原始仏典からも一寸だけ紹介。

心が煩悩に汚されず思いが乱れず、善も悪も捨て去って目覚めている人にとって【恐れるものは存在しない】」ダンマパタ

hotoke_kongousyo_tokkosyo.png

実は自らの煩悩で作り上げている、思い煩い惑い苦しみ生きている絶対と思っている世界、それを打ち破ろうとする・・いわば自身として構築済みの世界を破壊するという、我を持ち、思惟する人間にとっては最も躊躇する恐怖に挑み、それを成し遂げた者、それこそが真の勇者と呼ぶに値する、のだろう。

 

敵というと外部を考えてしまいがちだが、本当の敵は己=己を縛る想い、にある。それは多かれ少なかれ、人生の様々なシーンで私達も経験して、うっすらとは分かっている。それは頭では分かっても、実際には対峙困難極まりないものだ、とも。

 

明王という尊格は、教令輪身という「この世に於いて教えを実現する姿」として如来が変化した姿にして、武器を持し戦う=勇者の姿である。hotoke_fudou_myouou.png

が、明王の持つ刀は、日本刀のような「片刃」ではなく「両刃」と決まっている刃は己にも向けられているのだ。そこを意識して行動してこそ、明王の本領は発揮される。game_ken.png

不動尊は、インドにおいては修行者の守護仏というような尊格であったという。ただ守護神というでなく、「修行者の」守護神である。己に立ち向かう者を助ける、のだ。己にも刃を向けて鍛錬する者には、外部の敵は任せておけ、である。そして、己自身という敵に勝てる位なら、外部の敵など容易いもの、なのだと。

 

アニメやゲームの影響のせいか、勇者とは「我が身を省みずに戦う者」というイメージが大きいのではないか。だが、真の勇者とは「我が心を極限突破するまで省みて、自身という恐怖を打ち破った者」のことが正解のようだ。思惟を突き詰めた先には、洋の東西を問わずに。

 

その心意気と行動があれば、老若男女問わずに「勇者」へ歩んでいるのである。「そういうの目指してないから遠慮しとくわ~」も結構だが、その勇者を目指し励む者にこそ、勇者たる仏の加護も継続的に与えられる、とは覚えておかれると、人生にプラスが大きくなる、というものだろう。game_yuusya_woman.png

2024-04-09 18:19:00

何ぞ労し、何ぞ憂えん!

0409-2p.png

↑画像は年度始めの祈祷(太元堂)

心と精神は別物、と言い切ってしまった方が有意義なのかも、と思わされることが。

 

それは、作家の林真理子さんのコラム(週刊文春4/11号)。

 

ご存じのように女史は日大の理事長。そしてご存じの通り日大は大変な不祥事、卒業式の祝辞をどうするか。以下、引用。

 

人生の励ましとなるような言葉を。キレイごとではなく、後々に思い出してくれるような言葉が欲しい。(中略)しかしこの後が続かない。

 

そんな時、あの斎藤孝先生(明治大学教授)が対談でこうおっしゃっているではないか。

 

心と精神は違うものだと思っています。心とは喜怒哀楽があって、日々移り変わるものです。でも精神は安定感があるもの

 

雷に打たれたように感動した。何と素晴らしい言葉であろうか。さっそく使わせて頂くこととした。

 0409-4.png

この記事を読んで、私も雷に打たれたような感を受けた。心は掴みどころのないものだが、そういう単純明快な割り切り理解こそ、人を利益するのではないか。と言うのは、仏教の心の分析は煩雑に過ぎる所があるから;

 

この話を聞いて、坊さんなら即時に「心王、心数(心所)」を思われるだろう。早い話が、心王が心の主体、心数(心所)が心の従属作用。総体としての認識作用と個別の認知作用の別とでも言えばいいのかもだが、宗によって分類認識は異なる&細かい話には煩雑の極み、アビダルマの本領発揮かよ、で私には理解不能&その煩瑣は理解しようとも思わない(;'∀')

 

本体として動じない心王」と「表層に揺り動かされる心数(心所」の関係は、「海そのもの」と「波」という例えで仏典にはよく見られるが、「心の定義」が厳密な意味では、上述のように煩雑&未確定&精神の定義とかモヤモヤが多いので、仏教に立つ者としては、心と精神は別!とは言い切るまでの自信は持てなかったが・・さすが斉藤孝、と言うべきか。

 

教育学者/言語学者の肩書にもかかわらず、齋藤先生の著作は幅広い視野と噛み砕かれた言葉で読みやすいが、こういうサラッと出てくる言葉も単純明快で突き刺さる~。こういう言い方だと、微に入り細に入る仏論の「心の分析」よりも断然、活きた言葉になりますわ。

 0409.png

↑コレも齋藤教授の著作

以下、再び林コラムの引用。

この後、私なりにアレンジを入れ、強い精神を作り上げるために芸術は存在している、と言った(中略) そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしい・・。

卒業生の胸に私のスピーチがどこまで届いたか分からない。しかし、この『心と精神は違うもの』という言葉はそれから私の指標になっている。

 

ちゃんと卒業生の心に刺さる、また、芸術など非生産的と見られがちな分野に関わる人には一層、心強い祝辞になっている、と思う。さすが作家。

 

先に、心の在り様は「海と波」の関係によく例えられる、と言った。心所心王の一般的配当とは一寸異なるかもだが、理解しやすい弘法大師の言葉がある。

 

『蔵海は常住なれども 七波推転す』

 我らの深層意識の奥深い海(存在の根底となる阿頼耶識=行為の業が自動バックアップされる場所なので蔵識/蔵海という)は、深海のように動ぜず常に佇んでいるが、認識される前5識&意識&自我(という7つの認識の波)は、常に外の環境によって翻弄され変化し続けているに過ぎない・・

sea.png

 

波とは、よく考えれば風や低気圧など外の要因によって引き起こされる一時的なものであるように、心の波もその程度のモノ。私達の本質は波ではなく湛然たる海の方にある、と。齋藤教授の論に合わせるなら、精神を心王、心を心所とみてイイ。※この点が仏論では喧々諤々ですが; 

そして大師の曰く、

 

『爾許の無常、能く毀し能く損すれども、この本有に於いては何ぞ労し何ぞ憂えん』

 ・・因果の境地では壊れたり損なわれたりするが、本質の姿に於いては(壊れ損なわれるなど無い、)どうして苦しんだり憂えたりすることなどあろうか・・

 

波の起こる由縁を知って、一時的な波に揺さぶられ続けるでなく、大海そのものに意識を致すような心持ちで、と思ってもらったらいい。海印三昧という言葉があるが、されば自身に秘められた大海のような悟りの境地が現れてくる・・

 

仏教視点だとこういう話で、我が身にこの湛然なる大海あり、を全身で認識するための信仰であり修行である訳だが、通世間的な話にすれば、先の林コラムの

 

強い精神を作り上げるために芸術は存在している・・そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしいは、お見事である。

 0409-5.png

↑芸術と言えば、高野山で生ライブがあったそうです※高野山のインスタ引用

 

そして自身、整合性とか気にし過ぎる所があるが、多少の語弊など気にせず、簡単に言い切ってしまうことも大切、と思わされた。伝わんなきゃ意味ないもんね(^^;

 

ついでに、強い精神を作り上げる一つの術として、密教には真言がある。仏の密意が込められ、先述の阿頼耶識にまで届き、蔵識をも変性昇化させる言葉だ。真言に縁あり信仰される人は、常に誦じて己の鉾そして盾とも磨かれたい。

 

そして林真理子氏はこのコラムにこう記している。

心が擦り切れたとしても、それはそれで仕方ない。心は日用品なのだボロボロとなった心の向こうに、精神というものが毅然と立っていればそれでいいのではないか。いざという時にこの精神が私達を正しい方向に導いてくれるのではないか

 

それは、先に述べた大師の言葉に通じるものであろう。

そこばくの無常、よく毀しよく損すれども、この本有に於いては何ぞ労し、何ぞ憂えん」

 

目先の利益を得るに翻弄される生活はやむない事態であるが、「道」と呼ばれるカテゴリにも触れて世俗とは異なる感覚を研ぎ澄ますも、「強く」かつ「力まず」生きるには大切なこと、と思う。

hotoke_kongousyo_sankosyo.png

2024-03-31 21:49:00

明こそ得べし!

いまだに岩手出身とは到底信じ難い、世界の大谷選手。野球に関心の無い私でも、さすがにその動向は気になるところでありますが、移籍に結婚との目玉話題すら霞んでしまうような水原騒動・・その被害の桁外れっぷりもさすが大谷というべきかどうかですが、好事魔多し、とはよく言ったものです・・

 otn.png

それにつけても水原氏は英語の教科書に乗る予定だったとか。教科書会社の執筆見識などそんな程度だったともバレてしまいましたが、現状をちょっと加筆すれば倫理の教科書には使えるのかも(失笑)

 

さて、この水原騒動を聞いて「虎の威を借るキツネ」の言葉を髣髴した人は多いと思いますが、私もよく似た易経の言葉がとっさに頭をよぎりました。易に嗜みがある人なら、たぶん誰でもそうだと思います。実践ではその卦辞を得た場合、何も無く済むことは無い。良くて危ない思いは免れないし、悲惨な結末を見る事が多いもの。「やましい所がなければ良いのにね」までピッタシww

 

で、その易の辞には「その思考は明とするに値しない」とあるんですね。「明」とは、物事やモノの道理が見えていること。英語ペラペラでスーパースターの相棒として活躍し、5~7千万円とも推定される年棒を貰って教科書に採り上げられようとしていた超有名人にして、人生の『明』は全く欠いていた、ようで・・

 

では、明が失われた状態・・反対語は何でしょう?・・無明、まんまですね。そうです、仏教が苦しみの根源とする「根源的無知(無知とは知らないではなく正確には絶賛なる勘違い」を「無明」といいます。水原騒動で私達は図らずも「無明が人生の破滅を招く」実例を見せられているようなもの、かもしれません;

 

この「無明」を打ち破って「明」を得んとするのが仏教。その為に八正道、四念処、12因縁、六波羅蜜、四摂etcと様々な修行が説かれる訳です。が、その修行は容易に非ず、終いには成仏には劫(無限に等しい時間)が必要、というのが共通認識になってしまいました。

buddha_satori_gedatsu_bodaiju.png

 ※ちなみに、億劫(おっくう)の言葉はこの「やる気すら失うような永い時間」が語源とかw

 

でも、幾度も輪廻を繰り返す中で修行を重ねてようやく「明」が得られるとは・・そんなじゃ誰も救われないじゃん;しかし、釈尊には「真実語者」という尊称もある・・そして、

 

いかんが衆生は仏道を去ること甚だ近くして、自ら悟ること能わざると。故にこの因縁を以って如来、(中略)不思議法界を用いて、(中略)自在に加持して真言道を説き給う】(大日経疏)

 

真言道によって、仏道の「明」は一気に身近に開かれることになったのです。皆さんの目の前にも。すぐお気づきですね、そうです、不動明王の『明』です。そもそも「明王」とは何?・・これは真言のこと、真言の威力を強烈に体現する仏を明王と呼びます。
hotoke_fudou_myouou.png

 

真言の訳語の一つに「明呪」と言います。これはvidyaの訳語で、古代インドでは学術や知識技術や呪術は一体のものとされ、その集約の明呪とは、人間の智恵を明らめるもの、でありました

 

そして既述のように釈尊は「真実語者」とも呼ばれたように、仏の智慧も明呪として構成されます。その展開によって、掴みどころのなかった「仏の智慧」は修行者のみならず、一気に大衆まで救い得る力となった。それが仏道で「末世極悪の衆生を救えるのは陀羅尼門=真言道のみ」と説かれるワケです。

 

  ※と言いましても、真言門は仏道のアクロバット技みたいなもので、機根がない人には謂わば、小学生にウルトラC級技をさせるようなものでリスクが大きい、彼此共に。ですので密教は、古代インドでは大乗の諸仏教を修めて更に修行年数を重ね、その上で機根を認められた僧侶だけに許可された法門で、修行なき在家の人に易々と開かれたものではありませんでした。それを思うと今、真言を授かってお唱え出来ている、とはそれだけでも実には「会い難い」縁ですよ。

 

 ところで真言は、お祓いに祈願に供養にとご利益があるのは皆さん経験お有りでしょうけれども本質的には、申し上げた『明』、仏の智慧が込められた、悟りの理を明らめる呪であります。ご利益は副産物みたいなもので、仏果へ通達する為の威力こそメインの力。

 

古代インドのvidyaには学術知識など集約された意があると申しましたが同様に、明呪にも膨大な意義と力が込められています。正御影供に、真言の持つ大きな功力6つを紹介しましたが、総じて弘法大師は「一字に千里を含む」と申されました。ゆえに、本来的にはその真言を唱えつつ文字を観想する、のが行のスタイル。

 

唱えるだけでも験は得られますが、その梵字をイメージしながらお唱えされるなら仏智にも通じやすくなる。そしてそれは、難しいこと分からなくても、仏道という「明」を得る道でもあります。

 

如何に勉強したって全て頭に入るワケなどないですし、どんなに学んで分かった気になっても、偉そうなことを言っても、迷い、間違い、失敗を繰り返すのは自然なことです、人間だもの(^^; やることに全然ミスが無い人ってのも逆にコワいw
ilst4.png

ですが、無明に覆われたままでは、それは人生の苦しみで不幸であるという、釈尊の言葉もまた真実。無明では、名誉も栄華も、逆に己を追い詰めるファクターでしかなくなってしまう証明を世界的ニュースで今、見せられています。

 

知恵にも行動にもそんな賢明になれるわけじゃない私らですが、真言という明呪に出会っている、用いて祈っているという縁があるというだけで、皆さんには「無明」を無明のままにしておかない、意識せずともそれを打ち破り「明」へ向かう力を得ているのです。それだけでも幸運というもの。お参りされている皆さんには、少なくとも水原ばりに目は冥く倫理感まで崩壊する人はいないでしょう。それが信仰の有難みでもあります。

 

どうにもならない場面でも、冥みに突き進まぬように、明を得るように。当山では高野山式に則ってお葬式の棺にも真言を書きますが、明呪の力とは有り難いものです。皆さんにおかれましても、真言に霊験や救いを祈るのは結構ですが、それだけではなく、己の目を開くように、仏の智慧を頂けるようにとも観じてお唱えされてみてください。
sun_yellow1.png

仏道に近いのに迷いの闇に溺れるのはナゼ?、その壁を破るために説かれたのが真言道です。あなたの引き出しに隠れている日輪を引っ張り出し、覆う雲を吹き飛ばし、闇を消退させるもの、それが明呪

 

曰く、真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く (弘法大師)

 singyo.jpg

 

いつもお唱えされているご真言でしょうけれども、少しこういう視点も加えてみてください。されば一層のご加護に、日々の生活に更なる「明」も開けてくるに違いありません。そうして新たな知見視野を得られまして、心身ともにより充実した新年度にしていただきたく、願います。

 ※これは3月28日の法話のなんとなく思い出し書きです;

2024-03-12 22:01:00

真の延命はダイヤの如く

十二支の年毎に「守り本尊」が設定されている、のはご存じでしょうか。神仏に縁の薄い人は生年の守り本尊を信仰すると良いとされ、昔の人は盛んに言ったようです。が、今時は知る人も少ないようですから、一寸ご紹介。

 

 ・子年/千手観音 ・丑寅年/虚空蔵菩薩 ・卯年/文殊菩薩 ・辰巳年/普賢菩薩 ・午年/勢至菩薩 ・未申年/大日如来 ・酉年/不動明王 ・戍亥年/阿弥陀如来

hotoke_senju_kannon.png

 ところでこれは何が根拠なのか?調べても不明でしたが、宿曜道講習の最後に付随して習った占いに、これが根拠と知りました(私も忘れていましたが宿曜講習ノートを見直し中に、書いてたのを発見;) 江戸時代まで主流だったというこの占い、一応学んだものの煩雑に過ぎて私は用いていませんが、「十二支守り本尊」にはヤミクモではない一応の理があるようです。

 

 ところで、昨年末の新聞広告に不動明王座像。も、首から上が竜、尻尾もある奇怪な姿・・辰年に辰不動尊/護摩祈祷済/開運厄除に!の宣伝句を見て、仏も大衆もバカにした商売、不動尊には倶利伽羅という竜身もあるのに、辰年は普賢菩薩だろうに脈絡もない、と憤慨してブログに記して、ふと気づくことが。

 

 そういえば普賢菩薩、当山では大きくお祀りしてるよ・・(^^;でも祈祷などでPRした事なかったなぁ~と。太元堂の脇仏である普賢延命菩薩、それです。この仏は、普賢菩薩が延命の三昧に入った姿であり成仏した姿、であります。

24211a.jpg

 と言いましても普賢菩薩自体、釈迦仏の脇侍程度のイメージしかない・・ですが、実は仏教ではとても重要な役割を担っている仏様でして。辰年は語るに好い機会ですネ。

 

 全ての仏さまは「誓願」という、各々「悟りと救済の誓い」を持っています。そして、そのあらゆる仏の誓願とは、普賢菩薩の十大行願に集約される。つまり、仏の誓いとは普賢菩薩の誓いに他ならない。その誓いを身に体していくのが仏道修行。皆さん何気にお唱えされている仏前勤行次第の前半ラストの三昧耶戒真言は、他ならぬ普賢菩薩の真言なのであります。

 

 この菩薩の本領を発現した姿が普賢延命。釈迦涅槃のもう一つの物語には、降三世尊に踏殺された大自在天を蘇生し潅頂して曼荼羅に引き入れたのはこの尊であり、金剛界曼荼羅を一身に具現するのもこの仏。また、生老病死という釈迦が喝破した四苦を調伏して、不壊なる生命の境地=金剛寿命を得せしめんとするも、この尊の働きです。

hotoke_gouzanze_myouou.png

 世間的にはあまり知られない仏と思われますが、弘法大師がこの尊を重視されていたのは知れます。真言宗の最高厳儀・後七日御修法にはその真言を用いることが定められていますし、この尊の体現する金剛寿命=【不壊なる仏の生命で活動する境地】を、大師は「虚空尽き、涅槃尽き、衆生尽きなば、我が願いも尽きなん」と申して断食断水の肉体改造を行ない、人生の仕上げに入定という形で具現されました。

 

 余談ですが、以前にも記しましたが、愛知のお坊さんの著書の【大師の梵字<ユ字>は弥勒でなく、普賢延命の梵字と考える】説には全く同感です。

 

 悪趣に俗死した者を、新たな命に蘇らせて仏智に引摂し、普賢行願による自利と利他の菩薩行に向かわせる・・生者にも死者にも亘る弘法大師の入定の誓願は、まさに普賢延命の働きそのもの、と言えましょう。

nigaoe_kuukai.png

 日本仏教には各宗に祖師が居られます。しかしその誰もが、日本で自己解釈で宗派を立てて病気老衰で死んだのに対し、インド仏教の最高権威が到達した大乗仏教の頂点の系譜を直に引継ぎ、肉体滅びた後も普賢行願に活きなん誓願し、準備し、定に入ったのは、日本仏教に祖師多しと雖も弘法大師ただ一人であります。

 

 則ち、弘法大師を祈るのと他宗の祖師を祈るのとは、全く別物なのです。大師に祈るとは、その不壊不死なる誓願に、死者には金剛寿命の光明を、生者には普賢行願による同行二人の寄り添いお助けを得ること、です。

 

 仏道を歩みゆけば往くほどに、その志す先は「往生」なんて漠然とした願いではなく、仏の生命と同一化(顕現)した「不壊自在なる金剛寿命」という境地たるべき、と思うのです。金剛界曼荼羅は我らが仏へ昇華する過程も示していますが、普賢延命が金剛界を一身に表すとは正にそのことでしょう。与えられた命を漠然と安っぽさに預けるな、こういう高貴自在な境涯があるのだ、と。

 

 釈尊は成道して何と言ったか・・【不死が得られた】です。肉体的な延命はそれはそれで結構でしょうけれども、そんなこと以上にこの「ダイヤの如く不壊にして輝き、時空を貫く生命の境地の体解」それこそが悟りであり、真に生き永らえる延命であり、普賢延命尊のいざなう所。

 

 信仰とはそこに辿り着く、せめてそこに触れようとするものであってこそ、真の価値たると思ったりしますね。仏教に限らず古代インドの修行者たちは、誰しも延命することにも気を配っていたそうです。それは【命長らえて出来るだけ多く修行を積み重ね、生きているうちに境地の成就を、たとえ今生では無理でも、生まれ変わったら速やかに神位を成就する為に】であったのだとか。そういう視点があってこそ「延命」は意義を持ち、輝くのではないでしょうか。

 

 しかし金剛寿命の境地が容易なことではないのは、普賢延命尊の扱いを知るだけでも伺えます・・でも、そういう仏を知り得た、それだけでも彷徨いの壁は一つ破られたことになりましょう。でも、まだ遠い・・しかしその距離を縮める術があります、他ならぬ弘法大師その人です。

 

【ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ居わしますなる】と詠んだのは天台宗のトップ、天台座主慈鎭(慈円)僧正でした。普賢延命をその身に顕現して誓願し、千年以上も全国各地で宗旨に関係なく霊験を顕し続ける大師が居る。その差し伸べられた手に掴まろうとするならば、私達もご先祖達も安心立命は近くなる、というものでしょう。

ohenro.png

3月21日は大師が予告し入定した日にして、その恩に報い、誓願に祈りを託するに尊き日です。後世を救い摂りたいというお誓いは今に活きています。ご自身への同行二人、そして先祖・故人への同行二人の援けを祈るに如かず、です。

※この記事は寺報73号より転載加筆

2024-01-11 22:49:00

至誠動天

後七日の愛染王祈祷、一人黙々と修していて、ふと「そこ、違うだろう」と語りかけられ。

photo-aizen.png

 

びっくりしつつ、よく考えると、あ゛~確かにそれでは理に適わないわ!と気づき。

 

ソコを修正して行じると、何か通りが良くなったようなお護摩となりました。

 

密教の法は、インド由来の儀軌を編集した「お次第」と言う、修法のテキストに基づいて行ないます。このテキストは伝授によって教わるもので、授かった通りに行じ、授かった通りに弟子へ伝える、ということが厳しく定められています。

 

自分の都合や思惑で勝手にいじることが許されない、そういうもの。

 

 

ですが、人間だもの~(^^; 明らかに間違っているよね、という部分もあるのです。それも伝統だからと引き継がれる世界;

 

江戸時代の傑僧・浄厳律師はそういう在り方を是とせず、あらゆる次第を儀軌と梵字悉曇に照合して間違いを修正するという大事業をなしましたが、結局それは一つの流として扱われるだけ、でした。それほど「受け継がれたこと」自体を重視する伝統があるのです。

 

たしかに、感得などの口伝である場合もあるので、正規と違うから間違い、とは言えない部分も多々あります。そこが難しい所ですが原則、授かった通り。※私的には、明らかな間違い箇所は他流と照合して修正して行じてますけど

 

話が逸れましたが、上述の今日示された「違うだろう」とは、お次第に記されているある部分。一瞬、何のことか分からなかったのですが、よくよく考えると確かに記されている様では理が通らないわ、と気づかされたのです。

 

しかし、私が授かったいくつかの法流に於いても愛染王次第のこの部分は皆、共通している・・;

 

愛染法は難しい、と言われます。それは、煩悩即菩提が悟りの更に奥の深旨であることや、観想が難儀など思われますが、それだけじゃなかったね~

hotoke_aizen_myouou.png

それじゃ届かないよという部分が、伝統のお次第に、愛染の拝み方として記されてしまっている・・そりゃ難しいワケです。

 

愛染王から示されたのですから、私的には今後この部分は変えて拝むことにしました。

 

太元帥明王は私的には頻繁に修していて、折にいろいろお示しをくださる事があります。一方、愛染は密教の最奥の仏。拝んでいて難しいし、そうたやすくはない仏さんだよな、と思っておりましたが・・後七日愛染は、願主祈願も行ないつつの、7座の集中祈祷。

 

難しい仏であっても、丹誠を凝らして正しく祈る所には、必ず感応を現実に与えてくださるものです。

 

祈願の願主には「どうか本年の願い、成就を援けてくださるように」でありますが、私的には正月早々から大利益を頂いた気分です。

 

「至誠天地を動かさん」と我が母校の校歌の文言を思い出しました。至誠動天、は母校の1スローガンでもありました(^^;

 

ところで、あなたのその祈り/行ないは「丹祈」というに、ふさわしいものでしょうか?

真っ当なる祈りに於いて適っているならば必ず通じ、何かしあなたへの必要を援けてくれる働きがあるものです。

 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ...