遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

祈りのコラム

Welcome to "Henjouin temple"
お祈りごとも、お祓いも、
占いも、迷いごとの相談鑑定も、
丁寧な供養や鎮魂も
宗派が違っても、
檀家じゃなくても、頼りに出来るお寺
遍照院へようこそ。

《祈りのコラム》

祈りの霊験は如何にあるものなのか、祈りはどのように為すべきなのか・・

世間的にあまり知られていないそういうコト、信徒さんにお話ししたことや寺報/ブログに書いたことなど、気ままにUPしていきます。

 

《目次》

⑥JAXAも超えていけッ! ⑤NASAを超えていけッ! ④無双の星供! ③令和4年年頭言 ②お不動saaan! ①当病平癒と祈祷

 

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 祈りのコラム⑥ 22/9/1

☆JAXAも超えていけッ!

 

そういえば前回、塔婆の表の事だけで、裏面の事は書いていませんでしたね。

ということで今回は塔婆の「裏面の宇宙」のお話しです!

 

塔婆の裏側は・・

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こちらも梵字ですね。

ウニョ~ンと伸びた大きな文字。お気づきの人もおられるでしょう、この字、表の「ヴァ字/水大」に似ていると。

そうです。ヴァ字の変形の【ヴァン】字と言います。でもなぜ裏にまた水大?

 

いや、「水大」の意味じゃないんですね。ココは「識大」と読むのが正解。前回※1に書いた六大の一つ

 

では、識大とは何ぞや?大雑把にいえば【心とか生命をつかさどる働き】語弊を承知でいえば、魂とか仏性と思ってもいい。※①

 

とりあえず、ここまで知って頂いて。

 

ところで、仏教では悟りの宇宙を【塔】で表すというのは、前回のお話でお分かりいただけたかと思うのですが、この【塔】を生成する根源には2つの由来があります。

 

一つには【五大所成】、前回お話ししたのがソレですね。

二つには【一字所成】、一字というのは梵字【ヴァン】、そこから生成される。

そう、ヴァン字は五大に等しく、一文字に宇宙を構成する要素が含まれているともする、奥深い字でもあります。※②

 

またちょっと話が飛びますが。

 

五大は【存在を構成する要素】存在を存在たらしめる、「存在」にもとから備わっているもの

ヴァン字は【識大】存在を「命あるモノ」と為さしめるもの。生あるものに存在し、継承発展される【生存する智慧】。

乃ち、五大は先天的要素の【本有】であり、ヴァンは後天的要素の強い【修生】※③

 

そしてこの【生存の智慧】は生あるもの全てに内在し、遍満し、進化しゆく宇宙的叡智であるので、これを人格化して「金剛界大日如来」と呼びます。※④

 

様々な角度をもちますので説明がバラけてしまいましたが、※①②③を統合しましょう(^^;

つまりこの「ヴァン字」は、魂/仏性の標示であり、遍満する叡智の姿でもあり、一字で宇宙(塔)を生み出すものである。

 

乃ち、塔婆の裏にコレを記するとは表の面とあわせて、物と心/本有と修生/存在の道理と智慧、という物事のもつ両面を具足する、完全なる境地を意味します。ゆえに【悟りの宇宙】そのもの。

 

深奥なる境地は「姿かたち」を超越したものではあるけれど、「姿かたち」を通すことでこそ、我らはそれを悟ることができるのだ】弘法大師の言葉です。

 

心があればとか気持ちだけじゃダメなんです。救われるには形も必要なのです。だから仏教では、功徳の強大なるは「起塔/建塔」しての供養だ、と言い慣わしてきたのですね。

 

 

裏面にはその他、塔婆の地を浄土とするなど祈願や回向の添加句が書かれます(用いる法や宗派によって若干異あり)。

 

悟りの宇宙に名を記すとは、故人そのものを浄土とすること。そして修行せねば知り得ぬ、私達の存在構成を知ることで執着を分解し、大智慧を獲得し、無碍自在なる法界へ飛び込む道しるべ。それが卒塔婆であります。要らないとか作らないなど、故人からしたら、期待しながら「あれ?コレだけ?」で終わられるようなもの。

 

ですから、供養の際には小さくても卒塔婆を求めてくださいね、ご先祖もご自身も功徳に利されますように。

 

※④卒塔婆の裏、意味不明な記号だけ書かれているが、と思われる方、少なくないはずです。よくご覧いただくと、それは既述の【ヴァン】字です。雑書きだと判りにくいでしょうけれども(^^; 一部独創宗派を除き、仏教は密教で教える根源【大日如来】によって担保されている、そのコトでもあります。

 

※お墓において、五輪塔が最上とされるのはこういう訳です。お坊さんのお墓はだいたい「五輪塔」か、丸みを帯びた「卵塔」ですが、卵塔は既述の「ヴァン(ヴァ)」字の円形に由来する「一字所成の塔」ということ。墓石の形には、然るべき意味が込められているンですね。

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 祈りのコラム⑤ 22/8/8※21/8月ブログの加筆

☆NASAを超えていけッ!

 

お墓と宇宙は繋がっているの話⁉

万物を構成する要素として【地大、水大、火大、風大、空大】これを仏教では五大という。文字だけ見ると「つち」「みず」に見えるが【物質の意にあらず】。※これに識大を立てて六大ともいう。

 

そのものに代表される「性質」と思ってもらうと分かりやすい。【地】なら堅固性、不変性、依処性、生産性、還元性etc・・。つまり物質の枠ではないので【大】をつけて【地大】と呼ぶ。他も同様。

 

ここには日本語で記した=翻訳であって、本来の古代インド表記では五大は【ア・ヴァ・ラ・カ・キャ】となる。

この五大各々には、象徴する形がある。地大は四角、水大は丸、火大は三角、風大は半月、空大は宝珠形。

 

さて、五大の梵字の表記とこれらを並べてみますと~

見た事ありますでしょう、そう、五輪塔です!五輪塔というのは、万物=世界=宇宙の標示なのです(◎o◎;)

 

宇宙=万徳を具足する標示ですから、これを建てる功徳は限りないものである、と。

実際に建造物にしたのが、高野山の根本大塔とかいわゆる五重塔。なぜ五重か?お察しがつきますね(^^

 

しかし、限りなき功徳と言われても、そんな建塔など庶民には到底不可能な話。ならば、せめて木で五輪塔を作ろうじゃないか!となりまして、

 

そこから登場したのが・・卒塔婆です!

 

よく見てください。横のギザギザは、ちゃんと先述の五大の形になっていますでしょ(◎▽◎;)

 

つまり、供養の場に用いられる卒塔婆は、小さな木板でも【悟りの宇宙】なのです。亡き人が【人】という小さな枠を脱して、悟りの宇宙の功徳に浴する渡し舟なのです。【供養に必須】とされるのはそういうワケ。

 

でも、卒塔婆が五輪塔になるには条件があるんです。そう【五大の梵字を入れて、法界塔婆とする開眼を行なって】初めて、木板は宇宙になる。じゃなきゃ、ただの木板。

 

そこが分かっているか、為されているか。最近はそもそも塔婆を作らない所も多いようですが;

卒塔婆一本とっても、「供養はどこの寺も同じじゃない!」とはそういうこと。

 

亡き人へ出来ることなど在家では限りがあります。お盆などの機会には、普段できぬ故人への報恩や追福に【卒塔婆を建立して】故人と共にご自身も大功徳に与れるよう、お祈りされて欲しいですね。

 

※ちなみに当山の盆供養は、ご依頼一霊ごとに3尺の卒塔婆をお作りしています(^^

 

 

 

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祈りのコラム④ 22/1/29

無双の星供!

※今年の厄除けをやっていなかった~人でも、節分以後は不動(または愛染)護摩+星供御守りにて随時、厄除け祈祷はお受けしております。

 厄除け開運星祭のお知らせ!

厄除けと開運を祈る密教の星供星祭。実はこの祈祷、普通に仏神を祈るのとは【向き】が違う特殊な祈祷であります。ところがこの時期、星供と言って祈願を承っている寺院様方の大方は、その違いも分からずにただ常のように祈祷しているだけ、のようなのです。

 

当山は占いも行なう寺として、占いを根底にする星供の真意のもと、祈祷を修しております。稀なる相伝であるという正規の星供護摩を7座行じ、願主各別に加持を重ねて、祈願者に真の厄除け開運の守護を祈祷する。真言密教の正統と、長年祈り込んで構築した独自の加持をもってする、無双と自負する星供です。

  

ここで長くなりますが、拙寺の星供についてお話させてください。副住職記

 

相伝の稀なる秘法 

当山で星供に修している北斗護摩は、後に高野山の座主管長にもなられた某大僧正から、副住職が個人的に伝授を賜った法であります。  

星供自体は修行道場(高野山専修学院)で伝授されました。ただ、節分星供の実際は、多くでお護摩が行なわれている。しかし一方で「星供の護摩」は流布していない・・数人の已達に尋ねましたが誰もが「ゴメン、授かっていないから分からない」。

 そこでまだ高野山に居りました時、思い切って某大僧正を尋ねてお願いしました。するとご快諾、即伝授を頂けることに。我が師僧も「えッ?あの御方がH君の為にやってくれるの!?」と驚かれた、奇跡のような伝授。

  

大僧正曰く【北斗の護摩なんてまともにやってる所、ほとんど無いと思うわ/この通り行法も手間も大変やし、祈願料の割に全然合わんよな笑/大体、伝授されとる人少ないやろな】

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 ※上の写真は銀銭という供物。コレで2座分。作るの大変ですが全部焼いてしまう。

  星供といっても、実際は不動護摩や観音護摩など、普通に本尊さんでお護摩を焚いて星供と称しているのが大半、とのこと。実際そのように見聞きしてますし、酷くは名もある某寺では常のお勤めをやって星供祈祷したと札を出している、とも聞き。

 

 出会い難き法。お授けを受けて、自坊に戻り修法を重ねました。しかし問題が。星供の意味する所と行法がしっくりこない。占いも行じる者としては、行とセットになっている宿曜術が、どうにも雑というか兼ね合いに納得できない所が。

 恐れ多くも大僧正様は「分からんことがあったらいつでも気軽に尋ねてくださいよ」と仰せられましたが雲の上のお立場、更には高野山管長になられては、私如きがお尋ね出来る訳もなく。

 止む無く行法しながら書籍を探るなどするうちに、他3法流の星供の受法、比較構築。そして宿曜道の伝授に恵まれ。そこで疑問の種がなんと一気に解消。納得のいく星供が出来るようになったのでした。

 

 それからは祈願の現場としてただ法を行じるだけでなく、願主に霊験が実際に顕現される為にはどういう形が最善か、願主に変化を聞き、占断し、試行錯誤を重ねること数年、一昨年~去年に自他共に完成と思える星供のスタイルがやっと仕上がったのです。

 

 祈祷法だけでは祈祷にならない法

 ここに至るまで北斗護摩の受法から20有余年。伝授そのもの自体からして遇い難き法であり、更に宿曜術という占いを根底とするものですので、その占いの意味する所ばかりでなくその真意まで理解しないと、法と行が兼ね合わない。ただ伝授で授かったお次第通りに行じたところで、やった形だけにしかならないのです。

 準備手間も特殊で本当に大変ですし、真言も長く難しいのが多種。しかしそればかりではない、極めて深く難しく重い法です。 

 

なぜか。それは人の生まれもった【宿業】に対抗し、或いは乗じる、ものだからです。【厄】とは宿業によってもたらされる。だから【生まれ年で廻ってくる】のです。法会としては簡略な当年星のみ用いますが、厳密には個々別々(拙寺では特別祈祷でこれに対応)。

 

だから「普通の祈祷」じゃダメなのです。それを【厄を言う】寺も神社も分かっていない。祈祷に対して不真面目としか思えません。そもそも【厄払いは神社で】という世間の認識自体が、本当はあっちを向いているのです。

※一般仏尊の護摩でも諸宿曜等に加杓して簡易に星を祈る方法はあります、一応。

星と宿業については更に長くなるので略します。

 

 遍照院星供の凄み

先述のように当山の星供は、相伝が密教内でも稀である正統な北斗護摩を重ねて祈祷するものです。外儀法要を伴う結願は略となりますが、それ以外は1座90120分に及びます。が、そればかりではありません。

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祈願者一々の願意を各別に祈願し、御札を毎座加持してお護摩にかけます。特別祈祷者は各別に数種の印言にて、時間もかかりますが個々に御加持します。特別祈祷者の大半は、厄に関わらず毎年のリピーターであられるのが、その験のしるしでしょう。

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 また、助法(読経)には大仏項等の大陀羅尼数種に加えて星供諸真言、更に七曜九曜十二宮二十八宿を全て個別呪にて誦しております。結願以外は非公開ですが、本当は前6座こそ見ていただきたいレベル(参拝が入ると余計な雑事が増えるので非公開ですが)。

 

私が今まで見聞きした他寺様の星供で知る限り、ここまで念入りな祈願を行じているお寺は一件もありません。大寺では御札作って拝む前に梱包してしまうのが普通です。拙寺は田舎の小寺ですが、法に於いては歴史ある大寺をも凌ぐ真言密教の正統修法と御加持の自負をもって行じております。

また、今年は星供中にふと天啓のようにひらめいた加持作法があり、去年よりも更に加持を込めてしております。

 

本年は五黄の寅、吉にも凶にも激しく出る年の氣回りであります(詳しくは年頭言参照)。皆様におかれましては、宿業によってもたらされる凶運も吉運も暴走せぬように、その波を上手く乗りこなす転ばぬ先の杖に、遍照院の星供をぜひご検討ください。21日までお申し込み承ります。

 

※このような自慢じみたことを記すのは性に合いませんし、恥ずべきことと思ってきましたが、己の強みやこだわりはアピールすべき/せねば生き残れない時代のようですので、思い立って記しました。星供締め切り間近の今更ですが;

 

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祈りのコラム③ 22/1/20

 令和4年年頭言

【三時を超えたる如来の日

 加持の故に身語意平等句の法門なり】

 「大毘盧遮那成仏神変加持経」より

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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

今年は1210干の干支でいうと壬寅の歳です。壬(みずのえ)は女偏をつけると「妊」、これが分かりやすい。新たな生命が宿るとか、芽吹くといった意。寅(とら)は草木が伸びる様子、弦を引っ張る、勢いがつくなどを意味するそうです。これらから本年の氣の流れは・・【耐え抜いた所から芽が出る年】でしょう。

 

去年の干支は辛丑は「切り替えて耐えるしかない」でした。世界に変革を強要するコロナ発生から2年、まさに旧態は崩壊し、切り替えた所で産みの苦しみに耐えねばならない。収入安定が保証されている人間以外にとっては、本当に痛みの多い年であったことでしょう。そんな【苦の2年】。しかし超えた今年は【芽吹きや成長】の暗示、幾分でも【希望】が見える年となりそうな、期待の向きであります。

 

【芽】というのは基本、古きが滅んで新しい種から芽生えるものです。去年おととしの内に【自身の在り方/やり方の見直し】を行ない、【切り替え/新しいチャレンジ】というご自身への種まきが出来た人には、芽吹くのに追い風、大きなステップに期待。挑戦には難儀な事態も年の氣を得て、回り出しそう。よく計算し直して諦めずに取り組むと、先が見えるかも。

 

また、芽は本体が良ければ【脇】からも生えるので、【副業】に挑んだ人は大いに好機でしょう。慎重かつ大胆なやり方で展開に乗れる時流。寅は原義が「演」で、そこから目立つ/目立たせる/売り出す、のも功を得る為のキーワード。確かに【能ある鷹は爪を隠す】などとっくに君子向けの言葉と化し、目立てぬ者は才を活かせない時代になってしまいましたね。

 

易経に曰く【大人(優れた人)、虎の如くに変ず、その文(模様)あきらか也】と。大変革とは、虎の模様が秋に面目を一新するかのように、目にも鮮やかに行なうべきである、と。正に寅年には、新たにかつ、あでやかに攻めに出る、そんな姿勢が功を奏しそうです。

 

即ち【壬寅】は、攻めに出ろ/変われ/引っ込むな、そう行動するのが年の【氣】を物にする術と言えましょう。ただし、今年は気学でいう「五黄中宮」最も氣の激しい後天定位の年。何かにつけて【積極策は勢いがつき過ぎて】暴走しがちなど、難しい年とみます。動土については全面的に要注意ですので、タイミングと年齢をよく計ってくださいね。

 

そこに勢いの寅。「五黄の寅」と言いまして、良きに悪しきに、非常に激しい事態になりやすい年まわりのようです。干支は日本に限らず地球全体の流れですので、世界を巻き込んで。前回の36年前そして72年前は【※事例はここでは割愛】と、世の中の一変に繋がる事態が起きています。コロナを抱え、隣国は厄介な覇権主義ばかり。激しめの自然災害、国としても油断ならぬ状況。まったく、個人でも勢い任せは暴走危険の、疑いなしではあるのです。ですから、気学をやる大方の占者は【八方ふさがりの年、動いてはダメ】と言うでしょうね。

 

しかしこの厄介な五黄にも使い方があります。気学占者はほとんど知らないでしょう。それは******です。*******で五黄の勢いは使えるのです。もちろん、人によって可否はありますが。即ち今年は、希望は見えるけれども【勢いと危険と紙一重】をどうするか、が実際の所です。

 

しかし、恐れて委縮しては伸びる氣が活かせないし、得るモノもなし。コロナ以降苦しいだけの年になってしまうでしょう。一方で、年齢の廻りやタイミングも甘く見ては大火傷をしかねません。時流に囚われすぎるのも囚われないのも問題であります。そんな年ですので、大日経の言葉を紹介しましょう。

 

大日経とはわが真言宗の根本経典の一つで、お大師さんが国内経典を読みつくして納得せず、奈良の大仏様に『真実の経を』と願掛けをして『久米寺に行け』とお告げを受けて発見したお経です。【※お大師さんが当時の国内経典を読み尽くした話は、後に唐から持ち帰った経典がほぼ新来であることからリアルで、大言壮語でないことが知れています】

 

【三時を超えたる如来の日 加持の故に身語意平等句の法門なり】

三時とはおやつの時間じゃなくて【現在過去未来】のこと。大日経が説かれたのは特定の日時じゃなく「時間を超越した日」であると言うのですね。私達が生きる時間とは、惑星で規定され、地球の公転・自転・地磁気・地殻・天候から隣人に至るまでに影響左右される落ち着きない日にちです。しかし、そういう不安定に影響されない「三時を越えたる如来の日=永遠の一日」たる時間も、実は持っている。

 

そこに至るには【仏の加持によって身と言葉と心を仏に合致させるのだ】。私達の全身を以って、仏の加持を受ける。御仏は衆生を加持して狭き囚われを破り開発せしめん願いがあるので、加持感応を願う祈りと姿勢があれば、ゆるぎない永遠なる時間に参入することは出来るのである、と。激動な時流であっても嘆いている場合ではない。「永遠なる時間」に参入して動ぜぬ主体性を得て、そして動くのだ、と。

 

かの一休さんこと一休禅師は、ドクロの付いた杖をついて【門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくも無し】と詠いながら正月の京の町を歩いたとか。京都の人達が正3日外に出ないとなったのは、コレの影響とか。「門松」は、「は/や/正月は/正月や」など色々あるようです。杖も竿など。ここでは検索して出て来た禅寺様の文を使用しました。

 

いや、確かに年を迎えるというのは寿命に近づく事ではありますし、釈尊が2月に涅槃に入る訳を【新しい春が来て浮かれる時にこそ、諸法は滅することを示し置くのだ】と申されたのともダブります。ですが、ただでさえ生きるとは苦しいコトですのに、正月からコレはやり過ぎ()

 

【五黄の寅】という激しい時氣に恐れ委縮するも、翻弄されるも、一休さんのように諦観消耗するも人生です。が、激動は用い方によってチャンスでも勝機でもある。以前の五黄の寅を見ればお気付きでしょう。ならば、動ぜぬ永遠の時間に片足を入れ、その智慧と救いで今の世に勝機を見出し、掴み行く、それが生きる事だと思うのです。もちろん【可否やタイミングなどを計ることは重要】ですよ。

 

【三時を超えたる如来の日】は、皆さんのすぐ側にあるのです。漠然と祈るのでない。どうか積極的に、仏の加持に触れて感応する心を向けて、時流に翻弄されない軸足を手に、逆に時流の勢いに乗って一歩でも踏み出す年にしていただきたく、願うものです。

 

かの松下幸之助の言葉にこうあります。【人と比較して劣っていると言っても、決して恥じることでは無い。けれども去年の自分と今年の自分を比較して、もし今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべき事である】

 

それぞれに与えられ生きている環境も才も異なります。オマケにコロナです。世の中苦しい人が大半でしょう。こんな政治のこんな時代、それでもこの時代に生きねばなりません。それでもお参り頂いている皆さま、吉凶善悪の指針となる占いと【仏加持】という、ゆるぎない時間軸の手にする近くに居られる。

 

どうかその「ご縁」と「利」を活かされてお不動さまの加護のもと委縮するだけでない、去年よりも一歩でも二歩でも進んだ!/年なんて関係ない、新しい自身に出会えた!という、実りある年になりますよう、お祈り申し上げます。

 

この文章は、令和4年の新年大祭の法話を加筆修正したものです。

 加筆修正と書きましたが、行き当たりの話でしたので思い出し記述につき一部異なってるかもしれません(^^;

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祈りのコラム② 22/2/9

 お不動saaan!

不動明王。弘法大師がご請来されてから、日本では猛烈に信仰されて現在に至っている仏さま。神として扱う神社も少なくなく、インド出身が忘れられるほどに、日本人の生活に馴染んでいますね。

ですがその原点は、純粋な真言密教の仏さまです。【動ぜざる守護者】の名から、ヒマラヤ山脈の有り様とエネルギーがその本質に見据えられている、とも目されるようです。

悟りそのものである【大日如来】が教えを実現する姿。【世界の頂点エベレストを戴く世界の尾根】がその体質に同一視されるとは、仏教世界において真に相応しい頼もしい位置づけの御仏でしょう。

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※写真は百八体不動尊の一体(遍照院蔵) ※写真は未加工です

しかし、そのお姿は【怒りの表情】に【青黒い姿】に【岩を座】とし、【身を包む火炎】に【剣と縄を持し】ている。普通の感覚で見たなら、忌々しい極まりないとでもいうべき姿。 

当山の本尊さんは、ご覧のように他ではなかなかお目にかかれないメチャクチャカッコいい造形美を誇りますが、一般的にお不動さんは【醜悪】とされる姿で表されるのがほとんどです。。 

仏というとお釈迦さん以下、アミダさん地蔵さん観音さんetc、崇高な姿が普通であるのに・・なぜでしょう?

 

そこには【高みから手を差し伸べる、ンじゃないよ】、キレイごとで済まされない【醜悪な世界】に生きる【我々】の【側】に寄り添って導いたるわ!とのご誓願が御姿に現わされているのです。 

 

仏説聖不動経に曰く【大悲の徳の故に青黒の形を現じ、大定の徳の故に金剛石に座し、大智慧の故に大火炎を現じ給う】

 ・青黒は怒りの極致=身勝手な小瞋を超えた衆生を憐れむ故の大瞋=大悲。 

 ・微動だにすること無き瞑想の極致=岩にみせるが実は金剛石=ダイヤモンドに座す=悟りの極致を得ている。 

 ・不祥煩悩を焼き尽くすと共に光明となる智慧の表示である大火炎、内外の魔障を切り裂く剣、難調を縛りそして引き上げる縄。

 

即ち、我ら各々にベストの道を歩ませるためには咎を指摘し、過ちを改めさせ、不正を正すが故に、憎み嫌われることも厭わないというのが、あえて醜悪の姿を為す理由なのです。

 

仏の具える大定/大智/大悲、それらの人間界に向けられる極限の姿が【お不動さんの姿】なのです。ゆえに【一時秘密呪 生々而加護との誓願、いまだこの事を余尊に聞かず】不動尊を超える大慈悲の仏はいない、という。 

だからご利益も早い。明王部は概して霊験が早いとされますが、それはこのお不動さんと似通った御姿=お誓いを持っている、ことからも頷けます。

 

そしてお不動さんは【弁事の尊】でもあります。他の仏さんを拝んでいる場合もお助けくださる。私ら真言行者は行中に困った事が起きたら、とりあえずお不動さんの印言を用いたら助けてもらえる。

ですから、真言宗の檀家さんは仏壇で慈救呪唱えるのは普通ですが、他宗の皆様もお仏壇で不動真言はお唱えされたら宜しいでしょう。ご先祖への助力だけじゃない。他宗の仏前勤行では叶わない****【※初不動参拝者にはお話】が通るようになりますから。

 

我が真言宗ではお葬式本尊も初七日本尊もお不動さん。生きても死んでも皆さんの導きとなってくださるのであります。殊にウチのお不動さんはカッコいいので、嫌悪感なく皆さんの心にも留めやすいはず。

お不動さんはもともと【修行者の守護者】という性格ですから、目標も努力もない人を嫌われます。逆に、何かしの目標に向かって努力する人には、大いに力をくださいます。

 

今日という勝縁にお参りされた皆様には、どうぞ御姿をしっかり脳裏に焼き付けて、日々の祈りと救いの一手にされてください。心中に御姿を感じて真言をお唱えされますなら、ウチのお不動さんはすぐに皆様のもとに駆け付けてくださるはずです。

 

(令和4年当山初不動の法話を記した副住職ブログから転載加筆)

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祈りのコラム① 20/4/26

当病平癒と祈祷

 

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 病気が早く癒えますように、体が早く回復するように、と祈るのが当病平癒の祈祷。でも「病を治すのは医者と薬じゃないか、祈願なんて気休めじゃないか」と今時の人々は思われるかもしれない。しかし「気休め」と思っているなら、病からの回復において大きな損をしている患者は多いに違いありません。なぜなら、病気は「肉体」だけの問題ではないことが多分にありますから。

 

「病気を分類すると数多の種類になるが、その病原の根っこを大別すると【四大と鬼と業】の六つである」と弘法大師は述べています。

 四大とは、早い話が「肉体」。筋力や臓器の虚弱や体力免疫力や老化、外傷や摂取物などによる肉体的問題。鬼とは、目に見え難い死霊生霊鬼神などの障り。業とは、行ないの報い・不摂生や天罰、とするのが常の解釈。

 大師は「肉体の病根には医師と薬を頼んで療治すべきである」そして「鬼業の祟りには呪悔(真言による祈祷と懺悔)を行なって退治すべきである」と。なぜなら「薬は鬼業の障りには対処できないが、真言と懺悔の験力は病全般に治癒力を与えることが出来る」と。

 

 この文は真言密教の病平癒祈祷の根拠でもありますが、「しょせん宗教の言う話、気休め」と思われる人もいるかもしれない。信徒の中にすら「大手術で入院ですが拝んだ方がいいのでしょうか?」という、祈祷の加持力を疑う言質をする人もいますから(多分に祈祷料を出したくない裏返しでしょうネ(笑)。ただ、祈りが病気の治癒に於いてフラシーボでないのは統計研究で明らかになってます。その件はいずれの機会に。

 

 閑話休題。真言宗の食時作法の偈文にこうあります。「我身中有八万戸、一々各有九億蟲」・・なんと、人の体は数多の細胞とその中の生体で出来ている、と古の仏教僧は気付いていました。

 

 また、鬼業は先述が常の解釈と述べましたが・・鬼とは実には「微細にして視えがたい生体」の意でもあります。現代的に言えば「ウイルス」もこの範疇。また、業とは「過去世の因果で今の家系に誕生」ですから「遺伝的要因の強い疾患」はこの範疇。それはDNAという見難い生体に刻まれている・・つまり大師は、人の体や病とは「見え難い生命体で溢れている」ことを知っていたのです・・顕微鏡の無い時代に。

 ※疫病が鬼の仕業とは古典の常識ですが、大師の著述からはそういう俗の「妖怪認識」とは異なる「微細生体」が認められるのでここを「ウイルス」とも知る、のは拙僧の解釈です。他見は未だ知りません。

 

 さて、病気治療には大きく4つの観点が考えられます。マイナスをゼロにする「炎症の鎮め、施術投薬のミス回避、不測事態の予防」。ゼロをプラスにする「体の組織免疫や体力の活性化」。プラスを乗数にする「良き医師、薬、施術との出会い」。プラスをマイナスにする「病原の破壊と除去」。

 

 また、真言密教の祈祷も大きく4種に分かれます。災いを鎮める息災、力を増す増益、引き立て吉縁を獲る敬愛、悪事を破壊する調伏・・すでにお気づきと思いますが、病気治療の4観点は、密教の4種祈祷と相応しているのです。そして閑話休題で述べたように、大師は「体も病原も【微細な生体の集合】」であることを知っていました。

 

 施術や薬という「大なる」ものだけではどうにもならぬ病がある・・医療の進んだ現在でもそうです。しかし、人も病原も【生体】という観点では【如来の不思議力】には感応しえる。【真言の持つ波動】に感応するなら【鎮めるも活性化も馴染ませるも弱らせるも可能】。仏力ですから因果論的病原にも同じことが言える。物理的処方と共に、生体である視点に【仏の加持力】でアプローチすべし、と大師は言うのです。

 

 ウイルスや遺伝的疾患は大師の平安時代と違って「医薬で退ける」ことも不可能ではなくなりました。しかし最先端医療でもそれは「一部」に過ぎません。一方で、当病平癒の祈祷で、医者が奇跡とか不可解という回復も多々あるのは、経験上言える事実です。

 

 そしてここまでは大師の説が「形而上論」とみなされぬよう、あえて鬼業に「霊的存在」を省いた解説です。大師の病の見地には、今で言うウイルスや遺伝的疾患をも見据えていたことが知れる、と。しかし、霊的意味でいう「鬼」【いわゆる死霊生霊や障りが病の原因】になっている場合も、実際に有ります。そういうのはお祓いや供養で治ったり改善しますから・・話すと長いのでまたの機会に。大師の文言には霊や魂という言葉が多見できますから「鬼」がそういう存在への言及であるのも当然です。そうして「呪功=真言の力は全ての病に通じて治力を施す」と。病というものを大局的に見透かしていた大師のセリフです。祈祷は侮れません。

 

 ついでながら、質量保存の法則とか相対性理論や素粒子物理学における二重スリッド実験など最先端科学の成果は、真言密教が説いてきた存在の理論を裏付けするようにしか思えないものでもあります。1200年も前にそういう世界を了知していた男が【鬼業には呪悔で療治を為せ】というのです。気分の問題であるはずが無い。人は「骨と肉と血と電気信号による思考のみで形成された物質」ではない。だからこそ「感応出来る」仏の不思議力で祈れ、であります。

 

 肉体には物質として限度があります。いくら手術をしても投薬しても変化したものは元には戻せませんし、老い行き最後は失われる定めを止めることは出来ません。祈祷とてそこは同じです。それでもお釈迦さまが喝破した人生の三大苦「老・病・死」の現場には、これまた【仏が哀愍して示された】当病平癒や息災延命の祈祷があるのです。釈尊が示された人生のもう一つの大きな苦である「生」を、より安楽にそして全うできるように、と。(※1) 医療の物理的処方が届かぬ所でも、真言の呪悔力という望みは用意されています。病苦と闘う現場に、気力そして仏の加持力でその苦を和らげるために・・祈りをもっと活かされませんか。【呪功は通じて一切の病を治す】というのですから。

 

 そして新型コロナウイルスの蔓延。考えられる予防策をしても不安感が拭い難い昨今です。あと出来る事は・・祈ること。真言や懴悔文を授かっている方は日頃にお唱えされて、除病の祈りと安心にお役立ていただきたいと願うものです。

 

※1「四苦」の「生」は「生まれること」に限る解釈もありますが、生まれた人生が「思うようにならぬ苦」ですからここでは「生きること」と解釈します。