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カルチャースクール感覚で?
お坊さんになりたいのですが、得度や四度加行はしていただけるのでしょうか?との電話。
S県の50歳女性という。何故にはるばる岩手の拙寺に?
申し訳ないですが、ウチではお受けしておりません、と返すだけだが、一言添えた。
「得度して修行したいとのことですが、『坊さんになりたいので、成らせてください』と言って、マトモなお寺でハイどうぞ~と言う所など、どこにも無いと思いますよ。
得度とは、そのお寺坊さんの弟子になるということ。
その前提には、そのお寺の信者であることが最低の必須条件です。
通い詰めた上でその熱意がホンモノと、その住職に認められればこそ叶うというもの。
坊さんになりたいという程ならば、熱心に信仰しているお寺があるはずですよね?ソコに頼み込むというのが筋というものです。
そして加行がしたいとのことですが、本山に準じる規模の大きなお寺じゃなきゃ、加行の受け入れなどほぼ無いと思います。修行道場に入るのがスタンダートでしょう。
でもそこに入る為には、何かあった時に貴方の責任を負う「保証人」となる道場の僧侶も必要です。そして修行には膨大な費用もかかります。
信用も人脈もコネも金も時間も要ることです。
なりたいと言って簡単になれるものではありません。そう思われたご自身の信仰の原点に戻って、お考えされたらどうですか」
と申し上げた。
*******
この程度で切りあげたが、本音は「貴方にはムリでしょうよ」。カルチャースクールとはワケが違う、お客様扱いじゃない世界であるのを理解していないようで。
ちょろっとだけ書くと、加行に入る前には受戒をしなければならない。そこでは3日間で三千回の五体投地礼をクリアしければならない。
また、加行前に仏頂尊勝・宝筐印・無量寿の三陀羅尼を暗誦できなければならない。※現に私の同期に暗記できずに退学した人がいた
行は一日3座、十八道が終わるまでは毎座百八回の五体投地礼をしてからの行法。
1座2~3時間の行中にトイレに立った場合は、水行をしてから戻らねばならない。
加行中(高野山の場合は百日間)、一日でも休んだら行は全リセット、始めからやり直し。
コレに加えて、朝夕勤行施餓鬼と壇の片付け&準備と掃除等作務は常の如し。
と、加行部分だけでもこうであるから、だいたい男50歳/女40歳以上など受け入れないのは普通。アスリート上がりなどならこなせるかもしれないが( ̄▽ ̄;) 
まあ、昨今は少子化&人口減少&厳しい=パワハラ扱いの時代の波に抗えず、道場や行の在り方もだいぶ崩して来ているらしいが~
本山や道場がユルユルならばともかく、四度加行と一口に言っても気持ちだけで乗り越えられるようなもんじゃないぞ、と。
在家にありながらも信者以上に行者として信仰を高めたいという人は、本山絡みでの正規の得度じゃなくても、篤信寺院での半僧半俗的な修験得度などで仏門に入り、正規の修行じゃなくても身の丈に合った行で信仰を磨いていくというのでも十分すぎるのではないか、と思ったりするが。 
そもそも、見ず知らずの寺にいきなり電話で「坊さんになりたいんだけど」な地点で「坊さんの器じゃない」のは、知れた様なものだが・・最低限の礼儀は仏門以前の問題(◎_◎;)
言葉という鉾盾鉤
社長に必要な勉強は国語と算数、
との藤田晋氏(サイバーエージェント社長)のコラム(週間文春R7.10.9日号)を目にして、近頃やたらと引っ掛かる言葉の違和感に溜飲が下がった思いをした。
氏は「将来は社長になりたい」と言うお子さんに教えてあげたいのは「とりあえず国語と算数だけはやっておけ」が頭に浮かんだ、と。以下、部分引用。
<話を聞いた時、話がおかしいことに気付けるかどうかは国語力にかかっていると思う/
騙そうとする人ばかりでなく、よかれと思って言ってくる人も意外と無責任だ/
途中で論理が破綻しているような話も、それぞれの事情や思い込みから強引に提案してくる/
高学歴の社員ばかり採用しているのに、なぜ主語と述語が途中からズレているような話をするのか不思議に思う事がある/
論理的思考は先ず言葉の知識があって、主語述語の関係を理解し、接続詞でおかしな方向に論理展開されても惑わされず、筋道を理解する力が社長には必要。それには国語は最低限勉強しておかなければならない> 
ネットのポータルサイトに表示されていたりすると、その記事は信憑性があるかのように思ってしまうが、読むとコタツ記事にウンザリはもう慣れたとして、内容よりもその文面にモヤモヤすることが多い・・
藤田氏が指摘しているように、主語述語や文脈が繋がらないとか欠けている、言葉の使い方を間違っているなど、まあよくもこんな文章が記事としてポータルサイトに上がってくるとはww、とおそらく多くの方も同感失笑されているのではないか。
ネット上なんて誰でもさも記者っぽく書いて発信できる有象無象だから、壊れた日本語が溢れているのも不思議じゃないが、「通信社や出版社」の配信記事にも往々にそういうモノが見受けられるのは、マズいんじゃないか。 
テキト~なアルバイトにでも書かせているのか、藤田氏の言うように「高学歴社員」でも今時はそんな程度なのか。通信社や出版社など「言葉のプロ中のプロ」だろうにねぇ~
思考とは【言葉で構築するもの】、言葉のプロからしてこんな有り様では、国民の言語力=思考力など衰退してしまうのも無理ないか・・
また、話す言葉だけでなく言葉の受け取り方や、受け答えの基本もちゃんと出来ていないんじゃない?は、LINEやメールで顧客対応をしてきて、思いがけず露骨に見えるところでもある。
今回、LINE占を不特定多数向けから希望者限定版へと切り替えしたが、それに伴って感じたのが【既述した条件を読んでない人】が多いこと。
保険の約款とかアプリの使用許諾書みたいに「全部読めるワケなど無い!」記載ではない。LINEメッセージの中に段区切りでカッコまでつけた僅か数行。肝心な部分をスッ飛ばして連絡されるので、1度で用が済まない。
メールのやり取りでの「最低限のマナー」についても、これまでにブログなどで苦言を呈してきた。が、それでも改善しない人が少なからずいる。
手紙ほどの形式は不要でも、言葉の使い方、尋ね方ってあるだろう?返事をもらって無視か?一往復半は当たり前のマナーじゃないの?この人、こんなで会社でちゃんと勤まっているの?と案じたりもする。
そもそも【言われた内容を理解できない人】ならどうしようもないが、目にしながら読まない/聞かないなら、きっと普段の損失も少なくないだろう。 
もっとも、他人の話など聞いているようで8~9割は聴いていない=覚えていないのが人間という生き物だ、と聞いた事がある。
人に教える/聴かせるというのは、どれほど難儀な事であるか、とガッカリしたが(~_~;)
逆を言えば、話でヘマしたと引きずる人など、誰もほどんど覚えてないから何も気にすることなど無い(^^;
ともあれ、話の8~9割を右から左へスルーが普通ならば、文章ったって似たようなモノなのかも。仕方ないか~でも、強調された肝心部分すら見落としてるようじゃ、ね・・
ただ、自分が発するにせよ、受け取るにせよ、言葉の扱いってのは自分自身の扱い方そして他からの扱われ方に直結するものと思う。言葉は己を育む食であり、世間で戦っていく鉾であり盾であり、前進を引き寄せる鉤であろう。 
「己をよく調御し得たなら、またとない主人を得たのである」と申された釈尊が、もっとも気を配っていたのは「言葉の扱い」であったとは、近年の研究で明らかになっているようだ。その釈迦は真実語者と呼ばれていた。
なればこの「調御」とは上述の、言葉による>自分自身の扱い方そして他からの扱われ方、とも読めるのではないだろうか。
エラそうに他人事のように言えた分際じゃないが(;'∀') 向けられた言葉/発する言葉の扱いを今までより意識してみるだけでも、日常に得る/変わる所はきっと大きいはず。
ついでに、藤田氏は<社長には「曖昧さを受け入れる力」が意外なほどに重要だ>とも述べている。これは社長に留まらず、今の全ての日本人、いや世界中の人々に求められるべき極めて重要な指摘だと思うのは私だけではないだろう。
&そういう事もあって寺ブログ、寺サイト格納という内向き&その程度の理解率か;外部へとアピールするべきか、で外部ブログを作って同時並行にします!
※画像は先月のご縁日法会
喜びの効用
驚きで、不思議が、圧倒され、身体が軽く、スッキリと等々、風呂敷護摩に参列された方々からお声を頂戴しました>▽< 
にしても今回は、昨日までの病状が解消した/軽くなった、とのお声を数名様から頂いておりまして、不思議であると共に、仏さまの加持力を改めて見せつけられた思いです。
こういうスマートな喜びのお声は、嬉しくも励みになりますね♡有り難い限りです。
仏教には「随喜」という教えがあります。これは一般的には「他者の善き行いや福徳を心から喜ぶこと」。 
でありますが、厳密には、
【仏菩薩の教えと善行と功徳を、また、悟りへ向けて行なわれる精進努力や邁進する修行者を、心から喜び讃嘆し、人に伝え、自らもそうあらんと願い、行なうこと】。
その功徳は、「善を行じた当人にも勝る/周りの者まで徳を積む」等、お経に説かれます。そう、功徳を積むに大きな手段、でもあります。
***********
何故にそこまでの功徳が説かれるのか?・・おそらくこれは、人は相対≒比較≒優劣を見てしまうことを免れ難い生き物で、そこに多少なれども怨憎を感じ易い、それが他のみならず実には自己否定へと暗示をかけている・・そのことを教えるモノではないか、と思うのです。
※参考までに
>比較して自分が優位でありたい思い
≒相手が劣位である願い
≒自身に等同する者の否定
≒自身の否定
と裏返すと、恐ろしい暗示を自分にかけている、ことだったりするワケ((((;゚Д゚)))
(我欲の絡んだ憎しみを含む)怒りは、積み重ねた福徳の山を一時に焼き尽くすというのも、人を呪えば穴二つの事実も、このシステムが人の心底にあるから、といえば分かりやすいですね。
そしてこの上述した構図は、思いの向きが逆であっても、また然り。
無心に他を喜ぶことは、その根底では己を喜ぶに等しい、のです(◎o◎)! 
ちなみに、真言宗の「三平等」の強調も、戒の本質も、「この構図」にあろうかと・・またいずれ。
*******
ちなみに、他寺の法会に出仕することも専門的には「随喜する」と言います。<悟りへ向けて行なわれる精進努力>=法会、ですので。仏事はお仕事として呼ばれても、世間のお仕事に向かうのとは全然別なスタンス。
とお読み頂くと、お気づきですね⁉
何気に法会に参拝すること、も「随喜」になっている、のです!
ただ願いを叶えるためだけ、とか 法事だから仕方なく、では随喜にならんでしょうけれどもネ。
万障繰り合わせて参列するところには、それだけ得られる福徳が確かにある、のです。 
いわんや、自らも仏道行の実践に参加するなど【随喜】の至り、と言えましょう。
***********
随喜といいますと、真言宗の常用の回向文「五悔/ごかい」の五段目がパッと出てきます。「さんがいずいき~」と普段お参りの方は聴き馴染みのアレです。 
その冒頭、こうあります。
「懴悔随喜勧請福 願我不失菩提心」 懺悔して随喜して勧請したてまつる福をもって、願わくは我、菩提心を失うことなく・・
>懺悔は、無量の過去世に積み重ねた知ると知らざるとの罪過を、仏菩薩がなされたように自身も懺悔する、
>随喜は、先述の如し、
>勧請は、迷いの闇を破り全てを照らす諸佛をお招きし、我らが衆生の為に法輪を転じ給えと願うこと、
>この3種の福行の功徳を以って、以下~。
そうです、懺悔/随喜/勧請は「福なる行」である、というのです。 
素直に喜べる、というのは如何に難しいことか。
他人を素直に喜べる、とは、修行が進んだみたいなものか。
仏道に参座して心底喜べるとは、機縁までも整ってのことで選ばれたようなもの、なのかも。
素直に喜ばれ言葉にもする、更には身を以って実践も、とそういう方々は、仰られるようなおかげを頂くも然りだよな、と書きながら思う今日でした。
**********
関わるなら、どちらの人が好いですか?
で、好ましいと選んだ人の方を、ご自身は他人への態度として出来ていますか?
スタンプという、言葉を考えずともワンクリックで返事を返せる今にもかかわらず、それすらもやらないなど、相手を慮れない/人との距離感を弁えられない、それでいて自分は人からどうしてそんな扱いをされるのか分からない、そんな人が少なくない気がします。 メールやLINEが主流となって、思いがけずその人の社会性が露わになりやすくなったのは時代の功名か。
距離だけはやたら近いのに心は遠い、そんな今に、素直な喜悦のもたらす他者そして自身への効用は小さくない、はず。お盆に参列された方は、なぜ地蔵なのかの話も思い出されると、より得心されるところもありましょう。
先日の風呂敷プレゼント当選発表へのイイね!3件は、ご自身が当選したわけではないお三方でした。
素直なお気持ちでこう出来るような人を、御仏は微笑んで見ているに違いありません( •͈ᴗ•͈)
※追記 先の護摩のお声からなんとなく書きましたが、彼岸施餓鬼の施主には大いに気づきになる文かもです⁉
風呂敷の秘儀!
正五九の太元堂祈祷は、修験秘儀・風呂敷護摩です!
紙天蓋の下、風呂敷の上で護摩を焚くという、行者にとっては試練でしかない祈祷(◎_◎;)
前行で4座行じたとはいえ、風呂敷の上&大量護摩木はぶっつけ本番。
毎日お護摩を行じている副住職でも、挑むに極限まで全集中。
今年は、桧葉が敷いたら想定外に少ないっ;これはマズいかも;と冷や汗モノも~
我ながら今日は上出来!と思える善き祈祷に仕上がりました!
終わって、今度は護摩を包んでこれまた真剣勝負。炎がデカかったが・・風呂敷は焼けてない><q
参拝者の全身をお加持!からの内陣の内拝も。
最後の人まで護摩熱があって、終わって護摩壇に戻した後まで火が残っていた~こちらも今年はgood job!
どうにか今年も無事にお勤めさせて頂きました、太元帥さんお不動さんお大師さん、ありがとう~
そして、お参り頂きました/お供えいただきました皆さまも、有り難うございます。
法力の煙り燻しに浴された功徳で(^^;除災と健勝を増長されますように!
また、この祈り込めた紙天蓋で御守りを作りました!
明日のお護摩でお加持して、お参りされた各位と不参拝お供えを頂いた各位に郵送します。ご笑納ください。
動画は→インスタでご覧になれます!
重陽と天蓋護摩始め!
陽が重なる年内最後の節句、重陽。温度的にはまさに重陽、なのか(;'∀')
3/3、5/5、7/7と違って9/9は忘れ去られてしまっていますが、古来は「邪気を払い延寿を祈る」べき日であったそう。
ということは・・正五九ですし、こういう日こそ祈りを求めるにはベストですのにね~
本日お参りされた方には、除災と運気に追い風が吹きますように!
と、図ったわけではないのですが、週末の風呂敷護摩に向けて習礼も兼ねて天蓋護摩を今日から修行。
法会では護摩木も大量に用いて、風呂敷の上で焚くという、練習のしようがないぶっつけ本番・・
ですが、紙天蓋の下で護摩を焚く感覚だけでも掴んでおかないと。
このお護摩、常の行法とは向きが全く違うのです、常のお護摩が瞑想の延長で行なっているのに対して、この護摩はもう念力勝負みたいな(◎_◎;)
作法はまるで簡単なのですが、最初から最後まで緩みを許さない全集中、半端ない緊密度。
今日も修法時間は20分くらいなものの、白衣が水被ったような汗だく;私自身が試される修行でもあるかな、と思っています・・
百回も天蓋を焼けば自信がつく、と言われたものの、良いのか悪いのか今まで一度も焼いたことがないので、余計に神経をすり減らす一因かも;
ともあれ、全力投球で挑みます修験秘儀、未聞不共のお加持に浴されますよう、皆様のお参りお待ちします!
※参拝予定の方は12日までにお知らせください。連絡事項がございます。
また、この紙天蓋で作った御守り、昨年好評でしたので今年もご祈祷後に作ります!
仏力に気合と念力⁈を集約することになる天蓋御守、法会の参拝者と、不参拝でも参拝料をお供えされた各位に授与します!

















