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メガ大師⁉

※以下は3月21日正御影供に話した法話の要約です。
「子孫に迷惑をかけないように、安くて追加費用のかからない永代の樹木葬を」「直葬出来ます」なんて、「親の弔いは子孫の迷惑」と寺自らが公言してPRしている時代になっているようです・・「心があれば充分、仏教は形じゃない」ってか?そんな風潮の加速を感じるこの頃・・
※もっとも、真言宗の葬式は伝法潅頂に擬するものですから、戒名も位牌も不要などありえませんけどネ
ですが、これまでも何度も話しておりますように弘法大師は【悟りは表現不能だが、形にしなければ凡夫には窺い知れない】と強調し、また、次のようにも述べています。
【顕・形・表等の色あり 内外の依正に具す (中略) 能く迷い、能く悟る】・・我々が認識する存在には、色や形や動作の性質があり、それは生きとし生けるものと、取り巻く環境世界に備わっている。それらは凡夫には迷いの本だが、智者には悟りへの妙薬となるのだ・・】
『その形を現すあらゆる存在も本来、悟りと根底は通じているから、仏智慧を通せばその「物体」は悟りへの道標となるのだ』と。即ち【形式というものを軽視してはいけない】と教えるのです。
仏教は理論遊びじゃない、その身で触れるのだ。我らの身口意の三業は、仏の加持によって如来の三密になる。お供えや仏具や位牌という物や、塔婆や供養や真言という形を通して【仏加持】を蒙れ、されば己もその物も本有の輝かしさを発するであろう・・
また曰く【一心の利刀をもてあそぶは顕教(一般仏教)也、三密の金剛を揮うは密藏(密教)なり】
後世を生きる者達に仏の【加持】を与え続けたい、それが大師が入定にて誓われた同行二人の行です。
アレも欲しいコレも欲しいすぐamazonポチッとするよ課金しま~す子供の課金も払いま~す、と物欲は歯止めなく盛んに加速させながら、仏事となると途端に「心で充分、お金がかかる」という暗愚極まりないな世情、それは昨年寺報に書きました【ついに※※が外れたか?】とも無関係ではありますまい。
仏事に用いられる形式は悟りへの指標、更にそれは現世の人に於いては除災招福となるものですのに。与えぬ者は与えてもらえぬという道理、欲が深いと己の業や後生まで含んで見失うようです。
ついでに戒名も位牌も葬式も要らんと言う輩、それこそがゆくゆく子孫の迷惑になる、とは思いも至らんかねぇ・・考えてみ。
大師を祈り行動する人には、そのご誓願により必ず導きがありましょう。この世を厭離するでなく、私そして貴方という存在を輝かせるための同行二人なのです。回向された精霊も施主も祈願者も、大師の加持に浴されて進むべき道が開かれますように>▽</
追記 画像は先ほどネットニュースのコピペ。なんと日本最大のお大師さんは宮崎延岡に居ませるそうで・・画像で見ただけでもデカさが分かります(^^;
お大師さんさん!

3月21日は真言宗にとても大切な日、弘法大師の正御影供です。
それは単純に祖師だから、というでなく、永遠の普賢行願に生きなんと誓願して入定された日だから。
大師の同行二人を仰ぐ人には、万障繰り合わせて報恩と祈りを捧ぐべき日であります。
当山では大師像を結縁仕様にして、法会。
お申し込み頂きました諸霊は、17日彼岸の入りから回向を重ねて。
御本地護摩で、回向精霊には大師の導きを、祈願者には大師の寄り添いを、生死を超えて同行二人の加護を蒙るよう、祈祷致しました。
年度末平日という多忙極まりないこの日に参拝された皆さま、お出でになれずとも供養/祈願をお申し込み頂きました皆さまには、厚く御礼申し上げます。現当二世に大師の加持力に浴されますよう、切にお祈り致します。
当日法話は後日掲載予定。
なお、当法会に供養/祈願/お供え頂いた施主限定で、法会動画を非公開配信します。希望者はご連絡ください。27日終了。
311未だ・・

もう14回目になる、311。
当山では先日、盛岡別院の月例愛染護摩に合わせて、大震災の慰霊回向を行ないました。
当慰霊はお申し込み頂いた賛助1口毎にミニ塔婆を作成し、無念に斃れた有縁無縁の精霊等の安らかならんことを、皆様と祈りました。
県警は今日も沿岸域を捜索をしているとニュース。この年月ではもはや失われ尽くしたと思えますが、微々たる可能性にかけるのか、あの時の記憶を身を以って語り継ごうとするのか、頭が下がります・・
震災殉霊には直接無関係にもかかわらず、生活が苦しくなる一方のこんな世情に賛助くださった心ある信徒さん方が多く居られたこと、寺として有り難く、誇りに思います。施主各位に重ねて御礼申し上げます。
今日、慰霊賛助の施主限定で配信する先の法会動画を編集中、突如PCがフリーズ;電源長押しでの強制終了すら出来ないってどういうこと⁉ 仕方ないので40分くらい放っておいたらどうにか復活(◎_◎;) その後も挙動不安定なPCと戦いながらアップ―ロードが済むと以降、何ごとも無かったかのように平穏に動いてます・・
そういえば今朝、拝んでてガクガクといきなり寒くなって来たった、と住職。まぁ、震災塔婆書いて拝んでたから・・
ついでに今朝、東北本線が停電した影響で電車の中で2時間待たされた、との話(*_*) しかし今日という日にねぇ・・
おまけにさっき、蛍光灯がいきなり白から電球色にそして常夜灯へと変化・・スイッチも何もいじっていないのに(@_@;)
やはりと言うか、未だと言うか、311という日の忌みは終わっていないようです・・
なお、お寄せいただいた震災慰霊賛助金55口は、当山寄付分と合算して例年のように、
・あしなが育英会の東日本大震災遺児支援に10000円、能登半島地震教育支援に8000円
・未来の福島こども基金に10000円
・ピースウインズジャパン空飛ぶ捜索医療団/大船渡山火事緊急支援に5000円
として全額を寄付したことを報告します。
大師御影供・供養祈願のご案内

弘法大師正御影供 供養と祈願法会
来たる3月21日は弘法大師さまが、加持力を以て後世の私達を救わんと、高野山に座禅入定された日です。その大誓願に祈る正御影供を厳修します。
この尊い日に厳修されます弘法大師法お護摩で、ご先祖・恩人・水子・ペットなどご縁ある精霊の供養をお勧めします。亡者の執着が現世の我らにいかに影響しているか、体験された方々にはお分かりでしょう。
追善供養は精霊の執着の闇に光を与えるものです。智光の最たるはお護摩であります。亡き人への報恩に、自身の積善に、宗派を問わずご供養お申込みをお待ち申し上げます。合掌
・供養の早期お申し込み分は、卒塔婆を建立して17日の彼岸入りからご廻向します。
※本年は彼岸の中日ではございません
※21日の法会にお参り出来ない施主には、ご廻向後におしるしなど授与品を郵送します。
****************
大震災慰霊回向 賛助勧募
東日本大震災から14年。当山では恒例の大震災慰霊にあわせて、当慰霊に回向のご協賛を勧募します。有縁無縁の隔てなく、心ある皆様には当回向に賛助をお願いします。
※震災慰霊は終了しました。多くのご賛助ありがとうございます。ご報告はこちら
※回向賛助金は、例年通り全額を震災遺児支援と能登地震支援に寄付します。
涅槃会&年頭言~

お釈迦さま涅槃の15日。
涅槃図に関わるお話は、毎年の方にはお馴染みな部分が多い・・そっか、舎利の話をすればいいか、とふと思ったのが涅槃図片付けながらの今日(^^;
ならここに書くか、と思いましたが、さすがにもう文章書くのは一寸休ませて~~のこの頃;
来年の涅槃会に、ではなく気力が戻ったら書くか~
にしても、釈迦涅槃に付される様々な事象を葬式に取り入れて死者を釈迦になぞらえ、俗人にもかかわらず死者を「ホトケ」と呼んで、取り急ぎ死者に「仏の体裁」をあたえて、行なわれるべき修行は「追善供養」として後から整えていく、という死者=つまりは人間に対する尊厳を、この国を担ってきた古人達は大切にしてきましたが、それがコロナ禍もあったここ数年で、一気に蔑ろ化が進んでしまったようですね・・面倒だから、金がかかるから、って。
釈尊は「我が遺骨は塔にして祀れ、さればそれを見た人は【如来が居ました証】を知り、浄心を起こすことになる」と申されたそうですが、人一人が生きて来たという尊厳すら省みずに「活きボトケの方が大事だ」と自分の欲ばかり、という風潮は、後世に浄心を起こさせるどころか、ひいては己の尊厳すら踏みにじらせる事になるという、巡り廻っての因果にすら思いが至らぬのか・・と釈迦入滅とはまた異質の哀しみも涅槃図を紐解きながら感じたシーズンでした・・
それと遅くなりましたが、今年の正月にお話しした年頭言をようやくUPしております!