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転禍為福の術、
【転禍為福の術、この尊を崇むるにあり、】
真言行者なら必ずとなえた経験があり、不動信者さんにはお馴染みのこの文言は、不動明王の表白に出てきます。
禍(わざわい)を転じて福となす、この言葉を嫌いな人はいないでしょう。
ですが現実は、そうするように行動できる人というのは、そう多くない気がします。
災いがあっても、そのまんま。
出くわした災いは放っておけない、何かしの手を打たねばッ!と考えないのか、考えても行動まではしないのか・・
楽しく思うがままに生きたいとは誰しも願うところですが、人の生き様の現実は思うようにならないばかりか、望まずとも不穏な目には遭う。痛い、辛い、苦しい、悲しい思いをする。そこは誰一人、例外なしに。
お釈迦さまが喝破した、生きるということは苦=不如意で溢れている、とはある意味、苦に苛まれるのが生きるのと不可分な常識=それは人間にとって普通なこと、なのでしょうね。
でも、その苦しみ災いを、ステップアップの糧/レベルアップの起爆剤へと変える事が出来るのも、人です。いや、災いがあるからこそ生物は進化を遂げてきた、のはご存じの通り。
あの困難があったから今がある、あの地獄を乗り越えたから飛躍した、と思える経験は、誰にでもお有りのはず。失敗は成功の父、なんても言いますね。辛酸を舐めずに新たな人生のステージを得た人など、いないはず。
苦しみもがくのは普通のこと。それを如何に転換するか、そこが肝心。
災いはそのままにしたら、ただの苦しみで終わり。人生の辛かった記憶で終わってしまいます。何の価値も無い。
でも、そこに留まらずに何らかの形に展開して、少しでもプラスを得ることが出来たなら、それは正に「災いを福の種にできた」ことになる。
そこには、思考の割きりの良さと行動力が要りますね。勇気がいることでもありますが、転換をやった人だけが「福の種を得る/新展開へのチケットを得る」。
そして自己努力ではどうにもならない点は、お不動さんに頼んだらいい。
【禍を転じて福となすの術、この尊を崇むるにあり】と古来、言い伝えているのですから。
それはまた、不動明王を信仰する人は【禍を転じて福となす】の気概を持たねばならないこと。
不動尊信者は義務として、何としても【災いは転じて昇華しなければならない】、災いを災いで終わらせてはならない、と思うのです。そこは少しでもプラスに出来たならいい、成功。
【 艱難、汝を玉にす】とは、その気概があってこそ、のもの!黙っていて、そうなるもんじゃない。それどころか、災いが次の災いを引き寄せることだって往々にある。
不動尊は「行者の守護神」というのがもともとの性格です。泣いてメソメソして終わりの愚などに用は無い。
弘法大師曰く、もろもろの事は【愚に於いては毒となり、智においては薬となる】。
この苦しみ、何としても福に変えたる!と努め励む者には背中を押してくださる、それが「この尊を崇むるにあり」です。
今年も早、残り2か月となってしまいました。時間が過ぎるのはあっという間。「このままでは終わらない!終わらせない!」気概で、限られている時間を自身にプラス転換しましょう>o<ノ
※図ったわけではないのですが、先月はやたらとこの話をさせてもらう事案の方々が多かったので、ここにも述べておきますね。
ネットに書くぞ!→どうぞww
ブログにかと思いましたが、お知らせに!
お参りはちょっと時間が取れない、と申し上げた夫婦。アポなし急に来て、ホトケにお花を上げてくれ、と。
それを受け取り、お参りされる気持ちがお有りなら、盆やお彼岸にご供養されてはいかがですか、とお話しした。
「供養は三年前にしてもらってます!」と返って来た。それは承知している。この人は以前「供養など一回やればいいって(誰かに)言われた」発言があったので、「では、供養の意味をご存じですか」と聞いた。
知りません!と言う。そこで「供養とは養いのもとを与えること、盆彼岸なら一万円で供養できますから、ホトケさんへのお気持ちがあるならただお参りだけじゃなく、一年に一度、そういう丁寧なお参りの仕方もいいと思いますよ」と話した。
すると「金もって来なきゃダメってか!、ネットに書くぞ!」とダンナ発言。
金持って来いなんて言ってませんでしょ?お参りする気持ちがおありなら、供養を考えられてもどうですか、と提案しただけでしょ?
ネットに書くぞ!→どうぞ、と返す。すると「人を馬鹿にした態度をとりやがって!」と。
ご供養の提案に、供養は一度やれば完了というモノではない、コトをお伝えしたく、では供養とはどういう意味で言ってるのか、尋ねただけでしょう。
「供養はする気はありません!」という。それでしたら結構です、で終わり。
も、「お参りだけなのに時間がとれないって!」に「用事が立て込んでいるから仕方ない」と伝え、
「お寺を運営しなきゃないから、タダのお参りの方よりも寺の収入になる方の方を優先させていただくことになる、先の参拝予約をとってもそういう予約が入れば、お参りだけの方は遠慮してもらうことになるので、足をお運び頂いてもご迷惑をおかけすることになるから」とお話ししたが。
きっと歪曲されて書かれると知りながらあえてこんな言い方をしたわけは、 賢明な信徒さんにはお察し頂けるでしょう。
「金持って来いってことか!」「バカにされて傷ついた!」「謝る気もねえのか!謝れ!」
あとは何を言ってもこの繰り返し・・住職が出てきて話すも、私(副住職)を指さして「この人を何とかしてください!」だと。
「マウントな態度で傷ついたのに、謝る気もねえのか!エライ仕事やってんなら人を傷つけて謝るのは常識だとわかってんだろ!」に「何も傷つけるような話をしてないでしょ」と返すと、「こっちが不快な思いをしたんだから傷つけたことだ!」なんだと。
夫婦そろってどんなに怒鳴り散らしても、私が平然としている事に怒り心頭だったのでしょう。
忙しい時にもう埒が明かないので、「それは失礼しました、申し訳ないですね」と返した。
まだグチグチあったが、ドアを叩きつけるようにバタン!と閉めてお帰りになった。
これが「ネットに書くぞ!」の顛末の実際。玄関先は常時録画してますから。
カスハラが社会問題になって久しいですが、こういう言いがかりの難点を思い知りましたね。
「供養という方法もいいのでは」としか言ってないのに「金持ってこないとダメだと言った」とか、
「お供えある人優先だがら、お参りだけの方はキャンセルお願いして迷惑をおかけすることがある」を「金もってこないのは来るなってことか」と、
言ってもいない事を、自分有利の嘘に替えて主張する。寺だから金の事ばかりと言えば、ダメージでかいだろ、ってイメージ作戦がミエミエ。
「供養はしてもらった」から十分、との考えに、供養とは一度やれば終わりというモノではない、コトをお伝えしようと話をしただけなのに、「バカにしやがった、マウント取りやがって、エラそうな態度はなんだ!」と、言葉尻だけをとらえて自分は可哀そう、傷ついた;と勝手にブチ切れる。舌打ちしたのって、こんなのに付き合わされたら誰でもそうなるわ。
以前に「口コミなんか信用しない、する人間がバカ」と記しましたが、文句を書き込む人など自分のことは棚に上げ、事実を捻じ曲げて書く。
現場では己がどれ程の悪態をつき、言いがかりをつけたか、など無かったかのように、ひたすら自分は被害者だと。鬼のような形相は他ならぬアナタ方であったろうに。門前払い?アポなしで来て騒いで「じゃあ、上がってください」と当方が言ったのを「もう結構です!」と拒否したどの口が言ってるの?
ついでに、これも昔から話しているが「私は傷ついた!」と声高に言う人間など、信用しない。
こういう人は往々に、自分が人を傷つけることには平気だから。
忙しい時に、玄関先で夫婦そろって何分も暴言を怒鳴り散らし、喋ってない発言を捏造しあげつらい「ネットに書くぞ!」「謝れ!」挙句に口コミ投稿。
まさしく、>こういう人は往々に、自分が人を傷つけることには平気、でしょ?
「アルソックの通報ボタン押したらいいのかと思った~」との住職言が、この一部始終の全てです。
ついでに、「ネットに書くぞ!」「謝れ!」と言われましたがこの言いは、今問題になってる典型的な脅迫カスハラ発言ですよね?
対応した時間もこれ書くのも、忙しい時にムダ時間だが、口コミにも上述を返信したし記事ネタになったと思えばよし、か。
それはそうと、医師団によるgoogleの口コミ集団訴訟、勝って欲しいですわ。本名を名乗らずに悪意歪曲を書き散らかせるなど不公平の極みですから。
追記 かの口コミへすぐ返信するも反映されず、googleに問い合わせても「待ってみてください」と。嘘偽りはすぐ掲載しても反論はコレ。googleポリシーって何なんでしょうね(# ゚Д゚)
衣替え・・(;'∀')
の時節ですが・・コレだよ(◎_◎;)
さすがに冬衣では危い予感しかない・・と、もう気にせず今日の月始祈祷は夏衣のまま!
花巻では肌着を取り替えただけでよかったですが、盛岡は更に気温高い感;
これはぶっ倒れそうだ;と内衣なしで肌に直白衣で行じたもののもう汗だく;;10月だよね~⁉
花巻も盛岡も、祈祷は善い仕上がりとなりましたので一安心と共に、長日祈願の方々もしっかり祈り&行動してくださいね。
と、「衣替えの日」にとらわれるの止めて、気温と体調に合わせて何ら問題ないじゃん?と割り切れて、ふと、前日述べた中道ってこのコトじゃん!とも思ったり(^^; 言うほど大それたコトじゃないですけどww
自分にプラスになるシフトってこと、簡単なようでムズイですが、こういう日々の些細な事からでも変えてみれば、案外イケるかも?
でもでも、会社や学校で衣体が指定されてる場合はどうしようもない~~知恵をしぼって、いくら何でももうそろそろなハズの残暑を元気に乗り越えましょう><ノ
※2日追記 宮崎空港で爆発事故・・信徒さんの中にはハッと嫌な感を思われた方も多分おられるのでは・・オマケにそれだけじゃなく気がかりとしか言いようのないニュースが続けて目に入るという~・・信徒さんは既知の通り、このタイミングってのは嫌ですね・・ブログで書きます↓
風呂敷と紙で⁉
彼岸の中日、盛岡別院で修験道の秘儀・風呂敷護摩を行じました。
これは、修法そのものもお加持も一言で言えば危険と隣り合わせの緊密度・・あらゆる面に一時も気を抜くことが許されない行です。
お護摩を修すること毎日ながら、それでもこの風呂敷護摩だけは別モノでして・・毎年、行者として試される思いで臨んでいます(^^;
お護摩も、参拝者全員への独特なお加持も、おかげさまで今年も無事お勤めすることが出来ました。ありがとうございます。
モクモクたる煙の中、声を張り上げて一緒に真言をお唱えされて、稀なるお加持を受けられた参列の皆様にはお彼岸のプチ修行、善き仏道行になったと存じます。
※本年の風呂敷護摩の動画です!→
参拝の皆さまの、息災健勝と心願成就へ冥護の大なることをお祈りします>▽</
中道って真ん中じゃない!?
お彼岸。
秋分の日は昼と夜の長さが等しくなる、という事から、コレは仏教の中道の教えにふさわしい!
というのと、
太陽が真西に沈む時・・日本で流行った西方浄土=極楽信仰と結びついたところから、
秋分の日を中心に前後3日間を加えて、仏道にふさわしい神聖なるシーズン!と相成った、とか(^^
彼岸=生死流転の川を渡った向こう岸の悟りの地。
ところでなぜ7日間?・・3、7、21などの区切りに用いられる数字には様々な意味合いが考察されていますがそれは省くとして、秋分の日だけ、にならなかったのは・・?
ローマは一日にして成らず、まして修行だよね?とは尤もですが・・7日間というには六波羅蜜という、仏道修行には絶対に欠かせない階梯がなぞらえられているんですね。6波羅蜜に先祖供養をプラス1=7日ってこと。
盆を終わったばかりの秋彼岸、そこにまた先祖供養ってのは~と思うかもしれません。じゃあ、盆と彼岸と何が違うのよ?といいますと・・
・盆は専ら、亡霊のもてなし、という側面が大きい。
・彼岸は上述のように、修行という観点が大きい。
彼岸の先祖供養というのは、単純に一方的に供養というよりは、拝まれる霊も施主と一緒に仏道修行に励ましめる、という感じかな、と思っております。
さて、六波羅蜜については何度も話をしておりますのでスルーとして、ここでは彼岸のキーワードになります「中道」について一言。
ちょうど真ん中から秋分そして中道解釈から彼岸へと展開したわけで、ここに中道は「左右にぶれない真ん中/バランスの良い地点」との理解が見えます。
必然、仏教の中道もそういう解釈がほとんどのよう。
確かにそれも間違いではないのですが、釈尊の説いた中道は、厳密にはそういうことじゃない、んです。
【その人その人にとって、悟りへ向かうのに適切な在り方】を中道という、のだと。
ご存じのように、仏教には「正しい在り方」とは盛んに説かれていても、何が正しいのかは明言されていません。八正道などその最たるものですね。
キリスト教やイスラム教に見られるような【神が指示した正解】など、存在しない。
それはなぜか。答えは、釈尊の説法の在り方にあります。
釈迦のソレは、ひたすらに対機説法でした。相手によって相手に応じてその都度、変幻自在に適切な対処を繰り出していく。
確かに、人は思考も生き様も抱えているモノも千差万別ですから、全ての人に共通して適切なる【絶対正解などありえない】。
その人にとっての「適切な導き」それこそが「その人には正解」。
絶対的な「こうでなきゃ、」なんて無い。
その人を覚りへと導く、その人に見合った適切な向上修練の在り様を「中道」という、のだと。
「中道」と漢字で書かれると「平均」みたいな意味に取ってしまいますが、近年進んでいるインド原典の研究からは、上述のように理解するのが正解らしい。
もっとも、釈迦説法が経によって矛盾を来す内容であったりするのも、この視点に立てば何ら矛盾ではなく、仏典が8万4千の法門と言われるほどに多種多様に展開したのも、人の数だけ適切は異なるのが自然なこと、というスタンスが根底にあったから、でしょう。
※ちなみにこの中道思想は、理論として最終的に大日経の三句法門の「方便を以って究竟とす」に結実した、と私的には思ってます。
【怠けるのでない、ムリを超えてやるのでもない、己にとって程よく、かつ確実に己を磨き上げていく在り方・生き様を心得よ】
お釈迦さまが申された肝心な歩み/中道とは、決して世間の価値の中間なんかじゃない。貴方が覚りへと向上するに程よき努力の道、のことに他ならない。
自由と言いながら、ネットや誰かの意図で構築された絶対正義や疑義すら許さぬような権利義務福祉の名の下の横暴や体裁で、息苦しい空気が漂うこの国。釈迦が教える心得るべきは、そんな世情の中間を言うのではありません。貴方自身がダラケず、ヘタレず、潰れず、己を見失わず、心地よく闘い行ける在り様こそ、心すべき、と言うのです。
当山では彼岸に施餓鬼同行で仏道修練に参加される方々もおられ、それはまことに殊勝な心掛けでしょう。今年は盛岡別院での風呂敷護摩修行もあり、彼岸に見合うような仏道経験も提供できそうです。
一方、仏道修練が叶わないとか関心がない人も多分でしょう。ですがこういう機会ですので、上述の中道の教えに照らして、己の有り様/生き様を自省し改善へシフトするだけでも、彼岸という時期は有意義になる、のでは。
長年そういうモノだ、として暦の中に培われて来た時節には、それなりの氣の流れがあるものです。そういう時流を取り込むのも、コトをスマートに進め、そして成長する一手ですよ。
**************
追記① こういう視点からすると、未だに日本仏教で信奉されてるらしい五時八教論争など、ほんと見当違いというか・・(※お経は全て釈迦滅後に長い時間をかけて編纂された史実は判明しているので、それだけでも論争の前提自体が間違っていた、という話なのに;)
その論争に乗ることなく「如来の説法に欠けてるトコなんかあるわけない/人の資質に応じて深くも浅くも言うも言わないもあるだけ/教えの受け手の問題でしかない」と一人言い切っていた弘法大師だけが、真実を見抜いていた・・ようです(◎o◎;)
追記② かくも近年の仏典の原典研究からは、自宗だけが釈迦の真実だのこの経以外では救われないだの自宗以外は悪魔だのと主張してきた自称仏教教団ってのは、釈尊の意に全く添わぬ噴飯モノだった、とバレてしまってますww