google-site-verification: google03647e12badb45de.html 寺ブログ by副住職 - 遍照院 へんじょういん  お護摩と占い鑑定【公式】

遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
お祈りごとも、お祓いも、
占いも、迷いごとの相談鑑定も、
丁寧な供養や鎮魂も
宗派が違っても、
檀家じゃなくても、頼りに出来る、
かかりつけのお寺さん
遍照院へようこそ。
2025-09-26 20:47:00

易々?ww身体張ってます!

祓いや供養など私らの業界には「かぶる/うける」という言葉があります。要するに、願主や故人の障礙を被ってしまう事態

 

相手の状況に入れ込んでしまったり、神仏頼みで任せきるべき所を行者が力み過ぎたりと、祈祷にかかる主体を行者自身にしてしまうとそうなる、とは古来言われるところ。 omoi_man_omori.png

ですので、祈祷に関わる者の基本としてその点はよくよく心得ているつもりですが、それでも時として、被ってしまったか( ;∀;)の事態は起こる。

 

戦後、「加持を行じること」を力説布教された高野山の三井英光師は「全てを仏さんに預けてしまう、されば行者が障礙を受ける道理はない」と申されていてそれはご尤もですが、本山職員であられた師が向き合われた数は遥かに超えるであろう案件に対処してきた現実としては、そうキレイにスルーならないことも往々。
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なぜか・・私が未だ未熟なせいもありましょうけれども、【他人の業に触れる】とは【無関係ではいられない】ということなのでしょう、と思うのです。

 

善くないコトに関わってからロクな事がない人、死人に関わってからオカシクなった人等々、それはご相談に来られた数多のお客さま方の話や鑑定からも、夙に思わされてきた事実
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ですから<全ては関わる【縁次第】だ、縁は選ばねばならない>と、信徒さんには繰り返し強調して来たわけですが。

 

と言いながら自らは、他人の業に触れるのが仕事、という(^^;

 

*******

釈尊は「来世の苦しみは自業自得だ、己の業は修行して生前に片を付けろ、他人の業に構っている人生の時間など無いはずだ」と話されました。

 

でもそれって自分オンリーじゃ・・修行できないその他大勢も救われる道こそが釈迦の本意、ホンモノだよね!と登場したのが大乗仏教。

 

すなわち【他人の業に触れる】ことに転換した大乗・・しかしそれは如何なる事態を生むか。

 

これ、衆生と共に病むという【菩薩の衆病】なんて言葉も生まれるわけです( ̄▽ ̄;)それは 無関係では済まない証明

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更に密教では、表面に触れて教える程度を超えて、個々の差異にまで踏み込むレベルまで用いる・・医者に例えるなら、他大乗が市販薬で終わりならば密教は手術もする、という感じかと。

 

ゆえに効きが早いわけです。一方で、行者は【他人の業に触れる】度合いも大きくなる。加えて当山など【鑑定】という、まんま【他人の業に触れる】業務もやっていますから(;'∀') 一般の人には分かんない/気づきもしないかもですが、祈祷/鑑定とはリスクに身をさらし続ける勤めなんです・・行者あるあるww virus_kansen_sessyoku.png

いくら上述の基本心得ていようと、ただでさえリスクは大きい・・更に気を付けるべきは「情けをかけすぎない」ことでしょうね。

 

そんなのお寺として非情だとか文句垂れる輩とか居そうですが、先に述べました、「行者は入れ込んではならぬ」が祈祷の禁忌だと。

 

コレを犯して先日、危い目に遭いました。

 

お盆中の拙僧の運気にゾクっとする得卦・・交通事故必至の卦。自身には長らく得たことがなかったのに、今なぜ?

 

ともあれ、普段以上に気を遣って運転していましたが、その危機はイキナリ。

 

あと1秒アクションが遅かったらテレビニュースに登場疑いなしの、あ、終わったかも、レベル・・間一髪で無事回避はホント、護られたとしか言いようがなかった・・ bikkuri_me_tobideru_man.png

いつも以上に拝んでもきて、盆中にとは何がどうしたのか⁈思いを巡らせました。そして←自体がヤバかったか、と。

 

ご承知の通り、今年の盆廻向は8月1日から始めました。それは、既述の通りの事情と、終戦八十年という節目に鑑みて。

 

しかしコレはやり過ぎだった・・盆法会の回向として承った分でしかないのに、実質半月以上に及ぶ廻向・・仏を恃むのに相応の布施が要る、が、祈りの多さに布施は全く足りないレベル

 

拝みと授与品に照らせば盆供養料とて不足気味なのに、ホトケと施主方が一層報われるようにとの思いが余計過ぎた、か。

 

それは拙僧らの力でどうこうするものではない、仏様に預けてしまうべき案件message_yoroshiku.png

それを一方的に祈り過ぎて、担い手たる仏様へ託すに布施が足らぬレベルになった、布施応分を超過した分は祈った行者が何らかの形で負うことになる・・情けで身を亡ぼすのも、行者や占い師によくある話。 

 

もっとも、布施として寺=本尊がお受けされて、それに見合う祈りのレベルと利益を計らいくださるのに、従業員に過ぎない坊さんが、ヘタな情けで本尊任せ以上のことをやってやろうなど、おこがましいにも程がある、と書きながら気付きました・・

 

盆過ぎも8月末まで気力体力すぐれず・・この夏の護摩三昧、熱中症気味を何度も経験したせいか、善かれで出しゃばってしまった影響もあったかと。

 

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布施は基本的にはその人個々の状況に応じてとされますが、易々と出せる位では施にならず、ちょっとキツい位が宜しい、とも申します。その人の気概をも見られるということでしょう。願掛けしながら願解き/御礼参りしない人は通らない、のも同様。祈りが通りにくいと感じる人は、こういう面もお考えされては。

 

痛い目と危い思いをしましたが、ある意味、「お前は布施応分に祈るだけで良い、願主に要らぬ気を遣ったり、情けをかけたりするな、その者に見合ったレベルの救いと加護はワシが決めて与えることだ、お前は坦々と向き合えばそれで良い」とお不動さんに教えられたような(;'∀') 何気にこの文、スラスラ書かさったなww 何かいろいろフッ切れたわ。 自受法楽⁉

 

どれ程のことをしているのか、行者ではない一般の人に察して欲しい自体が無茶な話ではありますが、祈祷や祓いや供養や鑑定とは身を削るリスクに身体をはりながらの勤めであり、一般葬式法事のような軽々ではない、だから効くのだ、ということ。この機に知って頂ければ嬉しいですね。

 

事例を知りたい?強烈なのを一件、次回にでも紹介しますか。鑑定が占いが如何に【リスクと隣り合わせで行なっているものであるか】を(((;゚Д゚))

 

そして重ねて、善くない人/コト/モノには出来るだけ関わらないように。何度も言います、【縁】は選ばねばなりません。縁が貴方を将来を創るのだ、とは仏の教え。占いは縁を知る為にあります。活かさないのは愚でしょう。

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2025-09-09 20:00:00

好かれる人♡

嬉しいご報告を立て続けに頂いています、有り難い限りです。

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何気に鑑みますにそういう方々に共通しているのは「素直である」ことかな、と。

 

占筮というのは「神意/仏智」です。それを素直に受け止めて、自身を合わせていく/変えていく人は、結果が良い。至極当然。

 

祈りとは、自身の分際を超えたどうにもし難い所に、仏神の援けを求めるもの。素直にその冥護を信じて祈りを形とし、やれるだけの努力をする人は、奇跡としか言えない様な結果までも手にされたりする。己を虚しくして仏と感応なれば、それも特別なことじゃない。

 

そしてふと気づきましたのは、素直じゃない≒物事が通りにくいには、ソレが仏の戒める根本煩悩そのままじゃないか⁉と。

 

ご存じのように根本煩悩は「貪瞋痴=強欲・怒り・愚かさ」の3つが有名ですが、これをもう少し広げた「六大煩悩」というくくりがあります。

 

これは先の三煩悩に「慢」「疑」「見/邪見」の3煩悩をプラスしたもの。

 

専門的解釈はひとまず置くとして、コレを我らの日常に即して単純に考えますなら

 

・慢ウヌボレ、思い上がり、見下し、ナメた思考、身の程しらず、馴れ馴れしさ、憶測だけの見当違いな一方的物言い、非を認めない、譲らない、不遜な態度、それと意外な感ですが卑下も慢の一種と

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・疑=頼みながら信じていない、己の思考や期待を最優先視する、真や道理を見極められない、良薬は口に苦しと受け止められない、被害妄想

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・見/邪見=更に5つに分けられますが、要は「因果の道理を信じない」「ハナから決めつける」「体裁さえやっときゃ」自分の考えに執着する意固地、ひね曲がり、劣った見識

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こうしてみますとこれらは「素直じゃない」の一言に尽くされる、そんな気がしませんか。

 

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「自身にはハードルの高いこと」だから乞い尋ね、手に負いきれない様な事だから祈るのです・・よね?

 

そういう場においても、尋ねながらも信じない/示唆されたことをやろうともしない/自分が変わるでなく、執拗に都合のイイ回答待ち/一度祈ればそれっきり/お礼やおかげさまなど頭になく、当たり前や偶々だと片付ける/手順などすっ飛ばして結果だけ求める/都合の良い部分だけつまみ食い&膨張させ/鑑定してもらえばいいのでしょうか、拝めばいいのでしょうかと踏み出す一歩すら人任せ/何様な態度/自分は特別扱いされている・されて然りと妄想/グチだけは執拗・・この辺にしておきますかww 

 

仏前とは「本性が剥き出しになる場だ」って昔から何度も言ってますのにね。

 

占筮は住職や私が応えますので、軽く考える人もおありなのでしょう。ですが、私共が述べるのは「貴方に示された神意」を代弁するだけです。私個人の感想じゃないですよ。

 

祈祷は住職や私が行ないますので、たかが坊主と軽んじる人もおありでしょう。ですが、私共は仏神への仲介であって、皆さんが向き合っているのは「不動明王や愛染明王という、厳しさの権化のような仏様」なのですよ。

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そこに大煩悩をむき出しにした態度で接しようなど、バチが当たらないだけイイとしなきゃない、のでは。

 

上述した煩悩の逆・・良いからと自惚れず、悪いからと卑屈にならず、他人とは適度な距離感を保ち、時と場によって軽さと真摯さを過たずに動静し、原因があって結果がある道理を弁えてやるべきを為し、将来を考える・・そのように在れたなら、仏神からは勿論、人からも好かれまくり間違いなし!でしょうネ。

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でも、この六大煩悩は本能に根差すものですから、どんな場でも純粋に素直に立ち回れる人、なんて、この極悪末世邪道の中を必死に生きねばならぬ我ら凡夫には、どだいムリな話~

 

それでも、上述の慢・疑・邪見を意識して改善してみようと明日から正してみるだけでも、仏神の加護はもとより、人付き合いの場に於いても己が知らぬ間の損失は大いに少なくなる物事スムーズに運びやすくなるに違いありません!

 

江戸時代の傑僧、浄厳律師の言葉にこうあります【疑いあるが故に、一切成ぜず(仏へ通じない、物事が通らないのだ】と。

 

「素直であれ」は、仏前に必須な心得かも、と思えてきました(◎o◎;)

 

2025-09-08 23:21:00

ハンドメイド三昧!

風呂敷護摩は、この紙天蓋が独特&難儀・・手間のかかりが常の幣束の比じゃない。

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切るからして一苦労、裁断上がるまでにカッターの刃欠けること3回交換。恐るべし、奉書紙よ(((;゚Д゚))

 

おまけに和紙は引っかかりやすいので、力入れてゆっくりを重ねて切らないと破れちゃう(;'∀')

 

切り終わったら折り方・・重なっている幣を一枚ずつバラシて折り畳み~

 

出来上がり→道場にセッティング。も、これまた脚立をそっちこっちに動かしつ上り下り、破れぬように慎重にも慎重に( ̄▽ ̄;) で完成!

 

しかし、これで一日がかりとは・・明日から習礼かたがた天蓋護摩修行、やっておきます!

 

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先日修理した護摩杓。

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焼けるので折に自前修理していますが、ホームセンターで手に入る木じゃ耐火に適したのって無い・・いつもは檜で作ってます。

 

かと言って仏具屋の修理だとウン万円;

 

燃えにくい工作用木材、で検索してもなかなかヒットしない~

 

も、執念深く探して「槐」が燃えにくいようだと知り、通販してる材木店発見!で、取り寄せて加工。堅いね~

 

真鍮部分が欠けてるのでアルミテープで補強して出来!長持ちしてくれるといいな~

 

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左側のトイレの「流すボタン」から水漏れ;character_water.png

バキュームブレーカーが壊れたよう、メーカーに聞くと「もう部品がないので、ボックス本体ごとお取替えを」・・だよね、もう20~30年使ってきたし。

 

と思うと、右側トイレリフォームが成るのを待っていてくれたかのよう;

 

とりあえず応急処置するも数日でダメに、もはや替えるしかない・・も安くないわ;水道屋に頼んだらいくらになるやら( ;∀;)

 

水道は今までも自前交換何度も経験済みなので、ネットで買って自分で取付ける!

 

と順調にきた所で、以前の取り付け金具&ペーパーホルダーとの兼ね合いで、場所が無理⁉

 

も~しゃあない、でホルダー支え材を壊し一部壁紙を剥がして新たに貼って、取り付け完了!

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壁紙工事までやる羽目になるとは、業者頼んでたら請求いくら来たやら(;゚Д゚) 自分を信じてよかったwwkabegami_haru.png

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電気部材の割れ・・経年劣化だそうで;

イッチョやりますか、と思うも、配線電気系は素人じゃ危なすぎる~と断念。ただ新しい部品に繋ぐだけ、なんだけどもね。

 

 

配管とか電気工事とかの資格、勉強して取るべきかと思いを巡らすまだ終わらぬ夏~

2025-07-20 21:29:00

ホトケの許されざるって⁉

お墓に建てる塔婆や合同法要での塔婆は真言宗の定型で作りますが、個別供養の塔婆には、そのホトケに適切な偈文や陀羅尼ほかを占筮して用いています。

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先日の供養にもそのように占筮したのですが、「それは可」という占を全く得ない・・不可ばっかり。

 

「適」という卦をなかなか得ず、塔婆書き前に占筮で疲れてしまうホトケは偶にありますが・・三十分占っても否定オンリーはちょっと無い。

 

もう定型でいいや~と諦めかけて、それじゃ鎮まんないかァ;と、祈祷方面でも占ってみると、遂に「最適解でしょ!」と易神(^▽^;)

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方向を変えても占じても「これで行け!」良かった~

 

この「正解」は〇〇〇の法に付随して授けられた△△△の法。密教と言うより修験の法で私的には常用ですが、供養には使った事がなく。

 

しかし何故これが⁉ですが、このホトケさんの事情を鑑みるに、ある意味納得。

 

難儀な死に方や悪鬼と化したような大変なホトケも、今までもさんざん供養して鎮めて来たので、ちょっとやそっとじゃ驚きません。が、このホトケは今頃になって【ソレは許されないわ;】事が発覚、死去から数十年経った今、傍系なのに偶然目の当たりにした施主さんが筋違いで苦しむ羽目に・・

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このホトケが【供養に与ることを許されない】状況であって、ゆえに常の供養では届かない・・このホトケの【許されざる】を何とかすることが先、だとしたら△△△の法が「正解」、というのは筋が通ります。

 

そんなこんなで構えて臨みましたが、供養はとても善く仕上がり、施主さんも安堵された旨、良かった(^^;

 

それにつけても今回思い知りましたのは【仏とて、許さぬ罪がある】あるいは【供養を受け取ることを許さない罪がある】ということ。hotoke_fudou_myouou.png

阿弥陀仏が【五逆罪を犯した者は救わない】と言ってるのは有名ですが、その弥陀も救わない悪趣をも破るという陀羅尼ですら「そういうことじゃない!」とは・・死してなお許されぬ罪、仏がソッポを向いたのか、と思うしかないというか。

 

供養が口に入る前に燃えてしまう、とは餓鬼道の姿ですから、【供養を受け取ることを許さない罪】は餓鬼ともいえるかもですが・・それにしても、△△△の法を用いねばならぬとは、私が今までの供養で知る餓鬼道というレベルではない気がします。

 

 

死してなお、許されざる罪がある。今回は供養を志した施主さんが縁者に居られかつ、当山にご縁があったので供養が成ったものの、そうでなければ体裁供養で成仏したとされる一方で、いつまでも餓鬼浮遊霊悪鬼として障り続けるだけ、であったでしょう。gaki.png

そして思いますのは、やはり「懴悔」とは大切だな、と。己が為している身口意の是非、折々に省みてちょこちょこ修正していくのは、本当に大切なことだな、と。

 

今件はあまりに特異な事例でしたが、人は死んで終わりだと思ったら大間違い。法的とか倫理的とかいう問題じゃなく、【あ゛~ソレは神仏は許さんでしょうね】なマネだけはしないように、感情の赴くままで取り返しのつかぬ事をヤラかさないように、気を付けたいものです(;'∀')

  

 ※7月の太元堂月例法話の部分です。

2025-07-09 22:17:00

心水

祈祷と言うと「お願いして助けてもらう」の発想が多分になると思いますが、真言宗では一寸違うんです。

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密教では「加持」と申しますが、コレがキーワード。

梵語のadhisthanaの訳ですが、弘法大師はこのように解説しています。

 

加持とは、如来の大悲衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく

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以下、もう少し分かりやすく。

**********

 

加持と言うのは、仏の大慈悲と、我ら衆生の信心の受け止め力の、双方向で成り立つものです。

 

サンサンと煌めく太陽の姿は、澄んだ水面にはクッキリ映し出されますね。

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それと同様に、煌めく仏の光形は、澄みきった我らの心の水面には、ありありと映し出されるのです。それを「加」と言います。

 

そしてまた、我らが努めて心の水面を澄ませて、仏の光形をありありと我がことに映しとる、それを「持」というのです。

************

 

イメージしてもらったら、ご理解は容易でしょう。

 

則ち、仏の光明を受け取るには、自身の「心水」の状態がどうであるか、コレが肝心です。

 

 

自分ばかり都合よくなればいい、という我欲で「濁ってゴミが浮いている」そんな心の池水に、円明なる仏日は、欠けなく映り得るでしょうか?osen_kawa.png

憎しみや怒りで「波立って鎮まらない」そんな心の池水に、仏日の姿は、形を成して映り得るでしょうか?

 

因果や向上を考えもせず感情の赴くままの「浄化のないヘドロ状態」そんな心の池水に、仏日の形は、全うに映り得るでしょうか?

 

 

だから仏教は「懴悔」を第一に言うのです。「信心」を入門の筆頭に挙げるのです。

 

祈祷とは「仏と貴方を感応させる」もの。一方的に頼んどきゃイイ、のではありません。これを忘れては、ご利益も半減でしょう。

 

物事は因果で成り立っています。そこに絡んでいる「縁」を動かす、のが祈祷です。

 

その前提にはまず、自身の有り様であり心水である「因」を、浄めていく努力がいる。心のドブさらいをしていく必要がある。自身の基礎固めをしていく必要がある。

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だから大師は「衆生」の心水としていたのを、「持」では「行者の」心水に替えています

 

仏が照らすのは「全て」ですが、それを受け取るには「努力が要る」=傍観者じゃなく当事者である「行者」にならなきゃダメなのです。

 

 

ですが「祈るは一時、結果だけはガッツリ期待」そんな方は少なくありませんね・・

 

「手順をすっ飛ばして結果だけ得ようとする」のは、AI化の加速する時代の趨勢もあるかもですが・・

 

ただ、時代がどうあろうと、仏に祈るということは「加持感応すること」に変わりはありません

 

 

自身という土台は仏を映し出すにふさわしい、努めて澄ませている水面となっているか?

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切に成就を祈るのでしたら明鏡止水、必ず心されたい所です。

 

※何度も話しているので、いつもの信徒さんには蛇足でございますが(;'∀')

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