寺ブログ by副住職
供養物!その④
以下の記事は、副住職の個人ブログの記事(5年ほど前)の転載です。
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六波羅蜜(連続6回目)
先に、六波羅蜜のことを述べておいた方がいいかも。
ということで、仏教には欠かせない修行があります。それは六波羅蜜といいます。成道に至るには必ず必要とされる行。
では、その六波羅蜜とは何か。極めて簡単に言っちゃいますと
・執着の切り離し&功徳を積む →見返りを求めず与える修行・・布施
・感情や欲に流されぬように →ヒートアップする心を冷ます修行・・持戒
・全てをぶち壊しにしないように →怒りを切り離す修行・・忍辱
・ダラケて折れそうな心を乗り越えるように →困難を打ち破る修行・・精進
・心を煩いから解き放つように →散らかる心を集中する修行・・禅定
・無畏安楽の不可思議境地を得るように →人知を超えた智慧を体得する修行・・智慧
この六種の行は、持戒(この中にも入っていますが)と合わせて「悟りを得るに必須の修行」とされるもの、です。※戒など不要と言っちゃってる教えは、大丈夫なんですかね?
でもって、コレらは坊さんだけに向けた行じゃない。仏教信者だったら誰もが行なうべきとされる「徳目」でもあります。
普段は難しくても、せめてこの時は意識してみよう、というのが実は「お彼岸」。
日の長さが昼夜ちょうど半分になるバランスの良さを、仏教の「中道」になぞらえて、前後三日間ずつの6日を「六波羅蜜修行」にあてたとか云々(中日は先祖供養に)。お彼岸は「修行週間」であったのですね~
ですので先の6日間。「無償で働いたよ~」「寄付したよ~」「冷静を保った~」「我慢したヨ~」「一生懸命やったよォ~」「瞑想したァ~」「仏教勉強したで~」という皆様は、直接的に何かを得たということは無くても、仏教的には功徳を積んでいた、ということ。喜んでOK(^o^)/
そして今月は今年最後の「正五九」。先祖供養したとか仏壇キレイにしたとかは、功徳倍増しに違いない。
滅入りがちばかりの世情ですが、次元を切り替えてみたら、知らずに得ているモノは十分にある。信仰は先祖を拝むだけのものではありませんヨ。
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と、転載して記事を改めて読むと、六種供物との関連を書いてないじゃん(◎_◎;)
連続と言いながら尻切れになってた・・あえて書かなかったのか、ウッカリか、疲れてメンドクサかったのか・・五年前の私よ(@_@?
という訳で補足しておきます。
端的に言えば、述べて来た6種の供物は、この六波羅蜜の行とも関連しているんです!
・閼伽=水は命を育み潤いを与える働きがありますから、施しの徳ともなる。
・塗香は清涼の働きがありますから、悪事を避けて戒めによる清々しさの徳ともなる。
・華鬘は怒りを鎮める働きもありますから、忍耐という徳ともなる。
・焼香は熱量をもって燃えながら薫香を発しますから、道に励み陶冶の芳香を醸し出す精進の徳ともなる。
・飲食=ご飯は心身を落ち着かせて安らかにしますので、禅定の徳ともなる。
・燈明は暗闇を照らす力がありますがら、世を照らし人を照らす智恵の光明になぞらえて、般若の徳ともなる。
単に物そのものとして扱うならば、水は水、花は花という域を出ません。ですが、その働きを意識してソコに仏加持が巡らさるなら、それは仏道行の功徳を生むモノへと変わるのです。而してその功徳はお供え先の先祖へ、そして供えた自身へと向けられる。
六波羅蜜を身を以って行おうとするなら、それは半端じゃない修行になります。然し乍ら、これらを欠いては成仏など不可能である、という。
これは難儀な話でありますが一方で、日々の布施≒供物を通じてそれらの徳を積ましめようとする、この仏加持の法門もあるのです。
弘法大師曰く「もし如来威神の力を離れぬれば、則ち十地の菩薩といえども尚その境界にあらず、いわんや余の生死の人をや」。
そもそも仏の加持から離れてしまっているような環境下では何を供えようと無駄とも言えますが、然るべきが為されている仏前では、仏はソコに難行の功徳までも発生させることもある、のです。
継続は力なり、「行」では尚更です。この彼岸という一週間、多忙な時期ではありますが合間を縫って、仏道に意識を向けて先祖供養ともども頑張ってみた!という方には、如来威神の力で何かし功徳が積まさったことでしょう。それはどこかで先祖を救い、己を救う力となるに違いありません>▽<q
供養物!その3
この記事は、副住職の個人ブログ(五年ほど前の記事)からの転載です。
仕上げは・・(連続5回目)
必須供物5コ目は
☆飯食・・つまりが「ご飯」です。
ご飯は体を養うものですが「腹が減っては戦が出来ぬ」と言いますように、気力をも養うもの。楽しいご飯は嬉しい気持ちになりますね。身体を育んで心を穏やかにさせるのが、ご飯の功徳。
お釈迦さまはお腹と背中がくっつくまでの断食修行をされて、餓死寸前にスジャータ嬢が差し出した乳粥で命を取り留めました。そして心身を回復して瞑想で成道。悟りを支えた一因が「ご飯」。
仙人は霞を食べて生きるといいますが、適度な量のご飯があってこそ人は生き、健全な活動が可能です。即ち「命を養う」もと。お供えしなきゃならないワケです。
ちなみに、パンとかフレークじゃダメなのか?・・釈尊のお父さまは「浄飯王」と漢訳されているので、お米に縁が深いンだろうとは思うのですが・・後で書きますがご飯じゃないとダメな位置づけがあります。パン食の人もご飯は供えたいところ。
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必須供物最後の6コめは
☆灯明・・明かりです。
暗闇を照らす明かりによって、人は恐怖を乗り越え、自然を克服して文明を発展させてきました。明かりとは「智慧」のもと。
さらに、明かり=光は、命のもとでもある。植物は光が無いと育ちませんし、恐竜絶滅は隕石粉塵で太陽光が遮られたことが原因と見られているそうで。人だって日に当たらないと健康を害しますね。
つまり、明かりは「智恵」ひいては「命そのもの」の象徴。仏様に供えるのは、仏の威光を以って私達のもつ暗闇を照らし給え、命を輝かせたまえ、と祈ること。仏壇にはプラス「先祖の闇をも照らしたまえ」ということ。
高野山奥の院や比叡山には「消えずの灯明」があり、お寺には「常夜灯」という基本消さない明かりがあります。それは、仏の光が絶えることなく、闇夜も私達を照らし続けるという希望。ですので「貧女の一灯」話など、灯明を献じる功徳はとてつもなく大きいとされますね。
出張などで伺いますと、仏壇の明かりを消している家庭が多いですね。火を使うローソクは目を離すと危険ですから消さねばなりませんが、昔と違って明かりにはLEDという安全便利なものが出ています。この類を使って仏壇の明かりは基本、つけておきたいものです。
それは「仏の光」でありますから。真っ暗闇な仏壇ではご先祖も意気消沈ですよ。
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簡単ですがお彼岸の機に、欠いてはならぬ「必須供物」をご紹介しました。
供養には必ず「事物」が必要ということ。覚えておいてほしいです。
そしてこの6種供物は、ただ「供え物」というだけの意味ではありません。そのことは次回にでも。
彼岸おわり。なんか文章が疲れてしまってるなぁ~;
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ブログをコピペしながら、書くと言った手前書かなにゃらんけど疲れたもう無理~、で書いてたのが如実に分かる文面で(/ω\)
ですが、とりあえず「仏前には何が必須なのか」参考にはなろうかと(;'∀')
供養物!その2
【お知らせ】春彼岸の施主限定で配信中の理趣経ですが、動画が視聴できない場合は、ご利用のプラウザ名を記してご連絡ください。
※以下の記事は、副住職の個人ブログ(5年ほど前の記事)の転載です。
美し可憐(連続3回目)
「お花」ですね。仏教×お花と言うと「生花」をイメージされますが、これは日本での話。インド方面では違うらしい。
花と言わずに「花鬘」と言うのはそこ。どうやら「ハワイのレイ」をイメージしてもらうと正解みたい。
花飾りの輪、ですね。ですが・・お坊さんに「ハワイのレイ」的な用い方は見たことないww
どうやって使うのかと言いますと、部屋に飾って目の保養、のようです。日本では花を飾り輪にする文化がなかったせいか(あったらゴメンナサイ)、花種の違いゆえか、生花でございますが・・意味は同じ。 で、華鬘が仏具になるとコレ↓
では、何故に「花」が必須なのか・・
花は「瞋りを除くから」です。
花を見ると朗らかな気持ちになりますでしょ?瞋りは煩悩の中でも特に忌避すべきとされる悪。と言うのは、どれほど功徳を山のように積んでも「一度の瞋りでそれが無に帰す」とされるハイパワーの毒ですから。
悟りに至り、悟りを深めるに「功徳力」の集積に勤しむ仏陀修行者にとって、怒りは大敵です。その怒りを払拭する助けになるのが「花」というわけです。
この花は生花(なまばな)が原則ですが、造花を用いるのでしたら金や極彩色の「人造かつ高価とわかる」ものを。本物らしく見えるプラ花は使わないこと。高野山の某大阿闍梨が仰っていました「最近出回っているプラ製の花や果物を供えるなど、仏を欺き、信者を欺き、己を欺く愚行である」と。
一輪でも、自然の花の持てる功にプラは敵いません。
弘法大師曰く【春の華、秋の菊、笑って我に向えり 暁の月、朝の風、情塵を洗う】
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ショージョーリキ!(連続4回目)
必須供物の4つ目は「焼香」
ここで言う焼香は、皆さんがお寺参りや法事に参列された時に行なう【細かく刻んだ香木を焼く】こと。これが本義ですが、一般には「お線香」とお考えいただいても差し支えないでしょう。
香を焚く意義は多々説かれておりまして、
・諸天神を招く清浄剤 (天人からすると人界は肥溜めの如き臭いらしいのでww)
・諸天の乗りもの
・食べ物 (死後の中有は香を食するともいう、49日間は香を絶やしてはならぬのはコレ)
・場の浄め、すがすがしさを与える
・功徳を遍満させる
などなど
また、あんな小さい欠片から膨大な薫香を発生して、燃え尽きるまで熱を保持することから「奮闘精進たゆみなく」の功徳が付せられています。
そんなこんなで仏前には欠かせません。ただ、使用される香木はピンキリで、それによって香りも全く違ってきます。修法によっては用いる香料を指定する場合もありますので、香りの種別が諸仏諸天の働きを左右する可能性もあるのかも。
そういう意味でも、用いる御香は「安くていい」ことは絶対ありません。お求めになる時は最低ランクはやめましょう。人工香料使用などはもってのほか、鼻や目を傷める原因にもなります。いつもスーパー売りのモノ、っていうのもね;
たまには奮発して上質香をネットでなど取り寄せてみてはいかが?。ご先祖さまだけではなく、共に香りをいただくアナタご自身も、非日常の空気の体感&香の奥深さを見ること、請け合いですよ。
【香は能く穢悪を除き、煙気は雲生に像(かたど)る】 弘法大師
供養物!
春分秋分を真ん中に挟んだ一週間は、お彼岸。「昼夜の長さが等しくなる」のと、仏教の「中道」を重ねて、仏道修行に適ったシーズン、という訳です。
と言いましても今や、在家の人には仏道行といっても何のことやら、でしょう。挙句に「心があればそれで充分!」なんて杜撰が罷り通っているのが昨今のよう。
いや、ちょっと待て、と言いたい。逆に問う、気持ちだけあれば、アンタは飯を食わずとも学ばずとも稼がなくても不足なく満たされるのか?と。
自身に引き寄せたらすぐ分かるはずの「形を欠くことが如何に至らぬものであるか」・・しかし先祖には平気で「心で十分だろ、合掌してんだから沢山」と扱う・・仏事に関してはこの杜撰ぶりは加速する現状;
そこで彼岸という時期でもありますので、その【供物】に見い出され込められている意義を、簡単にご紹介します。これを知って意識するなら同じお供えでも、先祖ご自身ともに頂く功徳は違ってくると思いますよ。
※以下の記事は、副住職の個人ブログ(5年ほど前の記事)からの転載です。6回分を3回に分けて記します。
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欠くべからず!(連続1回目)
「貧しい人でも欠くことなかれ」と弘法大師が説かれた、仏を供養するのに必須な6種の供物があります。
これは儀軌にも書かれているので大師の創作ではなく、通仏教の常識。これを欠いては功徳を得ず、とまで言う。
しかし、合掌だの気持ちだのと、お金はおろか手間すらかけずに「供養」と言ってのける、愚の骨頂が罷り通っている現在。
そこで、彼岸でもありますので、その供養に欠いてはならぬモノが何かを6回に分けてご紹介。そしてそれらは「供養する」に留まらぬ行力にもなるもの。この件は最後にでも。
☆【閼伽】 ※あか、と読みます
要するに「水」。水は天地に循環して行き渡らない所無く、あらゆるものを濯ぎ、潤し、命を養う源です。渇きを潤して安らぎを与える働きは水の功徳。ですから、供養物として「水」は欠かしてはならないもの。
仏前に「お茶をあげてます」という人もおりますし、勤行式によっては「水あるいは茶湯」としているものもあります。ですが茶では厳密には違う。何故か。
そう、水には「濯ぐ」という重要な意味もありますから。お墓に行って先ず水をかけるのはこの意。濯いで次いで潤す。仏壇では水をかけることはしませんが(^^; その両義をもって供える、とお考えされたら良いでしょう。
ついでに、同じ水分でも墓に酒をかけるのは論外デス。
仏の供養に必須な第一は「水」。たまには、お金をかけてミネラルウオーターをお供えされてもイイんじゃない?
※もっと深い意もありますが表立ってはこの程度でとどめておきます、残り5物も同じ。
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スッキリ~♪(連続2回目)
必須な供物2つ目は
☆「塗香」
ウチでは位牌造立や仏壇開眼には施主様にさし上げていますし、お参りの信徒さんにはおなじみですが、そうでない方には珍しいかも。聞いたことないかも知れませんね。「ずこう」と読みます。
読んで字の如く「体に塗る御香」です。
(今はどうなのか分かりませんが) 古代のインド地域では、種々の香薬を擦り練り合わせたものを体に塗る習慣があったそうです。日本人には解り難いですが・・想像してみれば灼熱と雨の地域ですから、身体の防御かな?とは窺えますね。
そう、体に香薬を塗るとは、①解熱 ②防臭 ③防虫 ④殺菌などの効果があるようです。つまり、心身の清涼を得るのが塗香の効用。
チョットした異臭でも気になりますし、虫刺され一つでも「かゆいカユイ」となりますでしょう?座しっぱなしで瞑想に集中する行者にとっては、熱も臭いも虫刺されも大敵。しかも希少な香木類が原料なので高価;
だからこそ、心身清涼を要とされる仏に修行者に供えるべき、功徳になる供物、であります。ま、現在は「熱冷まし虫よけ」の実効ではなく、その清浄力を大切にするわけですが。
常には「自身の手」に塗って用いるのが普通です。それじゃあ供えたことにならぬ、と思われるでしょうか?祈りの場では私達の祈りが【供え物】でもありますから、祈る者が用いることでも充分です。我が身を浄めることも供物の一部ということ。
必須と言うのに大方用いられていない供物。仏具店あるいはネットでも手に入ります。最低ランクのモノは避けて、上質のものをお求めされて、ぜひ仏前にはお使いください。祈りが変わるはずです。
舎利礼文
※この記事は寺報77号からの転載です。
舎利礼文という短いお経があります。当山でも常用ですし、葬儀法事には宗派を問わずに用いられていますので、皆様も聞き覚えがお在りでしょう。
一心頂礼(いっしんちょうらい 万徳円満(まんとくえんまん 釈迦如来(しゃかにょらい
真身舎利(しんじんしゃり 本地法身(ほんじほっしん 法界塔婆(ほうかいとうば
我等礼敬(がとうらいきょう 為我現身(いがげんしん 入我我入(にゅうががにゅう
仏加持故(ぶつかじこ 我証菩提(がしょうぼだい 以仏神力(いぶつじんりき
利益衆生(りやくしゅじょう 発菩提心(ほつぼだいしん 修菩薩行(しゅぼさつぎょう
同入円寂(どうにゅうえんじゃく 平等大智(びょうどうだいち 今将頂礼(こんじょうちょうらい
舎利とは釈尊の遺骨の事で、その礼拝功徳を説くお経です。以下現代語訳。
【一身に礼拝致します。万徳を円満に備えた釈迦如来と、その御身の舎利と、悟りの真実体である法身と、その真実体が形と現る塔婆を、等しく敬礼します。仏は我が為にその身を現じ、仏は我に入り、我は仏に入るのです。
この仏の加持の故に、我は悟りを証し、仏の神力を以って衆生を利益し、菩提心を起こさしめ、菩薩への行を修し修せしめ、完全にして清らかな境地に皆同じく入ることを得るのです。かくなる平等にして我らを導く仏の大智を、今まさに礼拝します】
ちなみにお米を舎利と呼ぶのは、その釈迦の遺骨は悉く細粒となり、形状が似ている&価値甚大との意味等々、と云々。
釈尊はその入滅に際して、遺骨は塔にして祀れ、その塔を見た者は「如来が現世に居ました証」と知り、浄心を起こす契機となろう、と指示したと言います。それに従って荼毘に付され、残ったその舎利は【塔】にして祀られました。
塔は、インドでは土饅頭のような形だったのが中国では石造りの高層物へ、日本では木造建築の精華を尽くした多宝塔や五重塔という、度肝を抜く建造物として出現します。そう、塔の本義は【舎利を祀る為の仏閣】。
※ちなみに「塔」という漢字は古代中国には無く、舎利を祀るstupaの音から作られた漢字らしいです。stupa≒卒塔婆、なんとなくお分かりかと(^^;
写真は京都東寺の五重塔(H22年撮
なお、仏像とは、釈迦入滅後しばらく経って、ガンダーラで造形美術が発展を遂げて登場したもので、それ以前は仏陀の姿を描くなど畏れ多いことで、法輪や仏足石(太元堂にあり)などの象徴物で表しました。つまり、仏陀の舎利を祀った塔自体も、仏像の登場以前には仏そのもの、であったのです。ただの目立つ建物じゃない、んですね。
仏陀の悟りの境地は塔の姿で表される・・則ちこれが【法界塔婆】です。曼荼羅に大日の三昧耶形は「塔」で描かれるのはそのこと。それは釈迦自らが、
【続きの本文は、自分で書きながら自身が気付かされた(;'∀')一寸深めの読み解きとなりますので、ネットでは以下略。全文は遍照院寺報77号に掲載しております。】