寺ブログ by副住職
我(が)に覆弊せらる典型
節分星祭に焼け残った護摩木。あれほどの火炎の中にあって願主名はハッキリ読み取れる状態。その願主には気を付けて、と連絡をして、次の日のお護摩で焚き上げ。
も半分焼けているのに、バチバチと凄まじい音を出してすんなり燃えない・・その願主さんに再連絡すると、へこみましたがクヨクヨせずに気を付けます、との先の返信から転じて、実は気がかりがあるので伺います、とお出でになられた。
その話を聞いて驚くというか呆れるというか、、仕事帰りに何かついてくる音が続いていた、から、元日に菩提寺の御札がお墓でうっかり燃えてしまった、それは塩をかけてゴミに捨てた、当山の御歳神を画鋲で貼っていた(←コレだけでもアウト)が知らずに落ちていた云々・・どおりで、過日はこの人だけ鳴り釜が止まったワケだ。
あからさまに不審な出来事がそれ程続いている、それをどうして何かがオカシイ危ないかも、と感じられないのだろう?御札が焼けただけでも警戒事態なのに、尋ねもせずをゴミに捨てるとは、どういう感覚なのだろう?不思議でならない。
住職によると先代の時代に、この方のお祖母さんはとても信仰心の厚い方で、当山に頻繁にお参りされていたという。だが、このお祖母さんの供養を当山でお受けした記憶はない。
何年なります?に、昨年33回忌をされたとのお話・・年忌が終わったばかりにこんな不祥が相次ぐとは、異常だと思いませんか、と話した。
お寺で年忌は拝んで来ました、それは結構である。が、信仰というのは生死を貫くものであるから、信心の厚かった人ほど、供養も生前に信仰を寄せた所でかつ手厚いものとしなければ届き難い。当山での祈祷供養にお参りをされていた人なら、ナムナム程度の一寸読経しただけの供養などに納得できないのは自明だろう。
ホトケを喜ばす年忌という宴の後にこんなだとは、お祖母さんの意を汲んでないこともあるかもね、である。
後日、別案件でご相談になられたが、あからさまに相手は貴方をハメようとしてるよね?だった。こんなに不祥が多発しているのに、ウマい話などあるわけがない、そんな典型。
霊的にそんなメチャクチャ状態、それでも当山に参拝に来たからお不動さんは鳴り護摩で警鐘し、星供で再度警鐘した。自省すべき事があろう、危いぞ、と。「へこみましたがクヨクヨせずに気を付けます」、そんなもんでは済まされない状況だろう、と。
もっとも、祈祷供養には布施が要ることだから、やるやらぬは当人任せ。ご依頼されない以上は出来ることは無い。
それにつけても、何かしの予兆とか不審がせっかく示されていてもソレを軽んじて何もせず、トラブった後に「実は・・」という人の未だに多いことよ。
信徒さんには、仏事で不明があったら分かる範囲でお教えするから聞いてくれ、と言ってるのに、尋ねもせずに非礼失態をやらかしていたり・・何かオカシイとか思ったらご相談ください、早いほど解決も軽くなるのですからと言っているのに、深刻な事態になってから「実は以前から、」と慌てふためいたり・・
お参りされながらそういう人もあるってのは、何度も話してるのに通じてないな~と哀しい。聞いても読んでも、自分の事として考えられないなら、いくら話そうと書こうと私の独りよがりか~LINEにUPしてる占いも、作るのバカくさくなるわヽ(*´□`)ノ
孤独死したご兄弟の葬式はしたが「これは遍照院で拝んでもらわないとダメだ」とご依頼の方、こちらも都合があるから待ってくれ、とそのうちにやってもらうことを伝えて、お待たせしたが供養。何度か相談にお出でになられあまりに顔色が悪い状態続きだったが、供養日には別人みたいに顔色も良く、法会自体もしばらく無い位の善き供養となった。伝えた対処は皆された後で、タイミングも適切だった。
かねてより、この方は「拝んでもらった方がいいのでしょうか」などと祈る選択を問うようなゲスな真似はされない。お不動さんに助けてもらわなきゃ、それだけ。状況を聞くに容易にいかぬ供養と身構えたが、始めから純真に仏頼みの施主さんには、仏さんもホトケさんも障りなくお受け止めくださったようだ。
何かの予兆とか不審感など、程度差はあれ人の本能としても備わっているようだし、信仰されている人には神仏が教えることもある。どう受け止めるかは勝手だが、折角のソレを身勝手な我欲で図って扱うなら、純真に受け止めて対処した人とは、障りも損益も結果も違うのは当たり前だ。
まず息災あってこその増益で敬愛でしょ?とも言ってきたが・・変調や不吉が起きているのにヤバいと感じられないとか、認めたくない疑いたくないのなら、どうしようもないが・・弘法大師曰く「昇墜は他の意に非ず、衰栄は我が是非なり」。
当山にご信仰されている方には、幾度となく話している「転ばぬ先の杖」まで含んでの加護であられたいが・・素直とは簡単なようで難儀ですな。
信は荘厳から!
先日、万博イベント後に急逝されたという和歌山県知事。朝日新聞の記事になっているその通夜の写真におお~ッと衝撃。
※遺影と棺の画像部分は削除
両部曼荼羅を掲げての葬儀など、坊さん以外では見た事ありません・・それにしても近年稀に見るこの葬送道場の凄みよ(◎o◎)!有名人などデカい花祭壇は珍しくも無いですが、これほど本尊が威厳を見せる葬儀など滅多にない・・
真言宗(古義系)ではお葬式本尊はお不動さんだよ、とは常に申し上げている通りですが、葬儀の場に曼荼羅を飾るのは基本坊さんのみ。宗教的事情はともかく、坊さんなら自坊の曼荼羅を使えますが、本堂の曼荼羅を在家者の葬儀の為に貸し出すことは考えられませんし、在家の葬儀の為の両部曼荼羅を準備しておける寺なんて余程裕福じゃないとねぇ~、で、お不動さん一軸か十三仏(不動尊も入ってますんで)軸を祀るのが一般的。
しかも画像で見ると、お寺の本堂に祀るレベルの大きさ。この知事さんの菩提寺が葬儀の在り方にこだわりをもっておられるのか、生前にお寺に相当尽くされたなどの恩に報いてなのか、または、寺に曼荼羅を納めるので自身の葬儀時には使ってほしい、と寄付をされていたのか・・ご遺族がかなりのお布施を包んだのは察せられますが、葬送においてはこの上ない荘厳だ、と言うことです(◎_◎;) そしてその荘厳の最たるは「本尊」です。
宗教儀礼に於いて肝心なのは「本尊」です。引導を司るのは導師たる坊さんですが、その導師は「仏の代理執行人」であって真の導師は「本尊」ですから。前にも書きましたが「もし、如来の威神力を離れたなら、十地という極めて高位の菩薩だろうと力など揮えない」by弘法大師。
ですがご存じのように、昨今の葬儀は本尊の扱いなど二の次、どこに居ますの?というほど小さく見えない場合も。主役は故人ですが、その故人が「導かれる」場、なのです。挙句にやたらと骨に執着して49日まで置いときたがるクセに、そこにも本尊など無い、坊さんが来て供養するでもない、無意味なホッタラカ死。
祭壇がデカいだの花が一杯だの参列が沢山だのなど、そんなの正直どうでもイイのです。本尊の威光と導師こそなのです。使い回しの祭壇をウン十万~百万で借りる位なら、寺に曼荼羅を寄付して「葬式の時にはコレもお願い」と言った方が、どれほど功徳になるというものでしょう。※葬儀社が利益を確保しなきゃならないのも分かりますよ(^^;
葬儀は出来るだけ簡単に、と死者葬送の尊厳を削ぐようなマネを寺自ら主導している昨今ですから、位牌も遺骨も墓もデタラメ簡素でいいのだ、という風潮は止む無い時代でしょうけれども・・
そこにこの県知事の葬送画像。会場に入った人は先ず、不動尊中心に両部曼荼羅に目を奪われるに違いありません。死者の「仏の世界への旅立ち」というものが、参列者にも如実に感じられる道場ではないか、と。葬儀とは宗教儀礼。ただ故人とお別れの場とは違う、参列者の心底にも仏の無言の説法が響く空間と思えます。
なにせ、『一見阿字 五逆消滅 真言得果 即身成仏』曼荼羅を見ただけでも救いが得られる、というのですから。
信は荘厳から、という言葉があります。位牌の話をする時に「仏には仏たるべくの荘厳が必要なのだ」と繰り返し言っておりますが、本当に「成仏」というものを考えるのでしたら、「故人は導かれていくんだ」とイメージ出来る本尊主体の葬送荘厳は欠かせないでしょう。ましてや真言宗の葬儀は、伝法潅頂に擬するものですから。それが参列した人々の心にも響けば各々の仏性を刺激し、功徳にもなるというもの。
ニュースで知っただけでこの方はどういう人か全然存じませんし、知事在職中ということで無念も多分と察しますが・・でも、坊さんが一目見て感嘆する葬送道場を全国に見せつけた、だけでも、雑質素へと転がりゆくこの国の葬送に死に逝く者の尊厳のなんたるかを、そして壊れつつあるこの国の霊性意識に一石を投じた、ような気がします。そこは高野山を擁する和歌山県知事として、最後に身を以って立派なお仕事をされたのでは・・ご冥福を。合掌
そして、葬送というのは誰にも必ずやって来る事態です。ながら、皆さん考えなさ過ぎですよね~。こういう機会に考えるのも有益と思いますよ、自分が託するのはソコでいいのか、本当に浮かばれると思うのか。ましてや信仰を持つ人なら尚更にね。
&とりあえず、生死双方に導きを揮うお不動さんは信仰しておけ、ってことです(;'∀')
(@ω@;)
新年度になってから持ち込まれる難儀案件ばかりよ・・
不可解な邪執霊とか雑な葬式で死霊つれてきたとか今生死の際の祈祷とか災い続いてるのを放ったらかしとか急におかしくなったから拝んでくれとか厄介な死に方したの供養してくれとか電話で騒ぐ人等・・住職も私も4月なってから体調不調続きはコレだな~~
こういうのに関わる仕事ゆえの労災みたいなもんだが保障なんかないww ご依頼は有り難いし仕事は欲しいが、体壊したり災い被ったりではそれどころじゃないので、先送りや断ったりもしているのがここ数日。
鑑定に頭グルグルひねってどうにか適解を見出した人とか、マズい状況で戻ったらすぐこういう手を打って/無理だったら仕方ないか、と言った人は急展開で別方向に目途がたって良かったね~などもありましたが、まあ、この人は一年間の長日祈祷をされているだけはあったかな~
ともあれ、この新年度なってからのこの障り系多出に騒がしいのは何なのか~
昨日8日は釈迦法で護摩。
で、LINE追加された方のサービス護摩木も祈願したところが、、クッキリと人の顔が浮かび上がるという(◎_◎;) 護摩木程度にこんな明瞭にって無いわ;当人には注意されたしとお伝えしたが、ただでは済まされないナニかがお有りでしょうね((((;゚Д゚)))見せられたのを仏縁と受け取って対処を考えるか、そのままにするかは当人次第で今件は終わり、も。
そんなこんなで、ホームページの更新も何も出来る気力じゃなかった~
が、仏教にとって大切な4月8日には触れておかないと、で書いたど~!
お釈迦さんの言葉でも紹介しとくべきところですが、別院準備の大掃除からの今日は限界(๑*д*๑)
供養物!その④
以下の記事は、副住職の個人ブログの記事(5年ほど前)の転載です。
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六波羅蜜(連続6回目)
先に、六波羅蜜のことを述べておいた方がいいかも。
ということで、仏教には欠かせない修行があります。それは六波羅蜜といいます。成道に至るには必ず必要とされる行。
では、その六波羅蜜とは何か。極めて簡単に言っちゃいますと
・執着の切り離し&功徳を積む →見返りを求めず与える修行・・布施
・感情や欲に流されぬように →ヒートアップする心を冷ます修行・・持戒
・全てをぶち壊しにしないように →怒りを切り離す修行・・忍辱
・ダラケて折れそうな心を乗り越えるように →困難を打ち破る修行・・精進
・心を煩いから解き放つように →散らかる心を集中する修行・・禅定
・無畏安楽の不可思議境地を得るように →人知を超えた智慧を体得する修行・・智慧
この六種の行は、持戒(この中にも入っていますが)と合わせて「悟りを得るに必須の修行」とされるもの、です。※戒など不要と言っちゃってる教えは、大丈夫なんですかね?
でもって、コレらは坊さんだけに向けた行じゃない。仏教信者だったら誰もが行なうべきとされる「徳目」でもあります。
普段は難しくても、せめてこの時は意識してみよう、というのが実は「お彼岸」。
日の長さが昼夜ちょうど半分になるバランスの良さを、仏教の「中道」になぞらえて、前後三日間ずつの6日を「六波羅蜜修行」にあてたとか云々(中日は先祖供養に)。お彼岸は「修行週間」であったのですね~
ですので先の6日間。「無償で働いたよ~」「寄付したよ~」「冷静を保った~」「我慢したヨ~」「一生懸命やったよォ~」「瞑想したァ~」「仏教勉強したで~」という皆様は、直接的に何かを得たということは無くても、仏教的には功徳を積んでいた、ということ。喜んでOK(^o^)/
そして今月は今年最後の「正五九」。先祖供養したとか仏壇キレイにしたとかは、功徳倍増しに違いない。
滅入りがちばかりの世情ですが、次元を切り替えてみたら、知らずに得ているモノは十分にある。信仰は先祖を拝むだけのものではありませんヨ。
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と、転載して記事を改めて読むと、六種供物との関連を書いてないじゃん(◎_◎;)
連続と言いながら尻切れになってた・・あえて書かなかったのか、ウッカリか、疲れてメンドクサかったのか・・五年前の私よ(@_@?
という訳で補足しておきます。
端的に言えば、述べて来た6種の供物は、この六波羅蜜の行とも関連しているんです!
・閼伽=水は命を育み潤いを与える働きがありますから、施しの徳ともなる。
・塗香は清涼の働きがありますから、悪事を避けて戒めによる清々しさの徳ともなる。
・華鬘は怒りを鎮める働きもありますから、忍耐という徳ともなる。
・焼香は熱量をもって燃えながら薫香を発しますから、道に励み陶冶の芳香を醸し出す精進の徳ともなる。
・飲食=ご飯は心身を落ち着かせて安らかにしますので、禅定の徳ともなる。
・燈明は暗闇を照らす力がありますがら、世を照らし人を照らす智恵の光明になぞらえて、般若の徳ともなる。
単に物そのものとして扱うならば、水は水、花は花という域を出ません。ですが、その働きを意識してソコに仏加持が巡らさるなら、それは仏道行の功徳を生むモノへと変わるのです。而してその功徳はお供え先の先祖へ、そして供えた自身へと向けられる。
六波羅蜜を身を以って行おうとするなら、それは半端じゃない修行になります。然し乍ら、これらを欠いては成仏など不可能である、という。
これは難儀な話でありますが一方で、日々の布施≒供物を通じてそれらの徳を積ましめようとする、この仏加持の法門もあるのです。
弘法大師曰く「もし如来威神の力を離れぬれば、則ち十地の菩薩といえども尚その境界にあらず、いわんや余の生死の人をや」。
そもそも仏の加持から離れてしまっているような環境下では何を供えようと無駄とも言えますが、然るべきが為されている仏前では、仏はソコに難行の功徳までも発生させることもある、のです。
継続は力なり、「行」では尚更です。この彼岸という一週間、多忙な時期ではありますが合間を縫って、仏道に意識を向けて先祖供養ともども頑張ってみた!という方には、如来威神の力で何かし功徳が積まさったことでしょう。それはどこかで先祖を救い、己を救う力となるに違いありません>▽<q
供養物!その3
この記事は、副住職の個人ブログ(五年ほど前の記事)からの転載です。
仕上げは・・(連続5回目)
必須供物5コ目は
☆飯食・・つまりが「ご飯」です。
ご飯は体を養うものですが「腹が減っては戦が出来ぬ」と言いますように、気力をも養うもの。楽しいご飯は嬉しい気持ちになりますね。身体を育んで心を穏やかにさせるのが、ご飯の功徳。
お釈迦さまはお腹と背中がくっつくまでの断食修行をされて、餓死寸前にスジャータ嬢が差し出した乳粥で命を取り留めました。そして心身を回復して瞑想で成道。悟りを支えた一因が「ご飯」。
仙人は霞を食べて生きるといいますが、適度な量のご飯があってこそ人は生き、健全な活動が可能です。即ち「命を養う」もと。お供えしなきゃならないワケです。
ちなみに、パンとかフレークじゃダメなのか?・・釈尊のお父さまは「浄飯王」と漢訳されているので、お米に縁が深いンだろうとは思うのですが・・後で書きますがご飯じゃないとダメな位置づけがあります。パン食の人もご飯は供えたいところ。
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必須供物最後の6コめは
☆灯明・・明かりです。
暗闇を照らす明かりによって、人は恐怖を乗り越え、自然を克服して文明を発展させてきました。明かりとは「智慧」のもと。
さらに、明かり=光は、命のもとでもある。植物は光が無いと育ちませんし、恐竜絶滅は隕石粉塵で太陽光が遮られたことが原因と見られているそうで。人だって日に当たらないと健康を害しますね。
つまり、明かりは「智恵」ひいては「命そのもの」の象徴。仏様に供えるのは、仏の威光を以って私達のもつ暗闇を照らし給え、命を輝かせたまえ、と祈ること。仏壇にはプラス「先祖の闇をも照らしたまえ」ということ。
高野山奥の院や比叡山には「消えずの灯明」があり、お寺には「常夜灯」という基本消さない明かりがあります。それは、仏の光が絶えることなく、闇夜も私達を照らし続けるという希望。ですので「貧女の一灯」話など、灯明を献じる功徳はとてつもなく大きいとされますね。
出張などで伺いますと、仏壇の明かりを消している家庭が多いですね。火を使うローソクは目を離すと危険ですから消さねばなりませんが、昔と違って明かりにはLEDという安全便利なものが出ています。この類を使って仏壇の明かりは基本、つけておきたいものです。
それは「仏の光」でありますから。真っ暗闇な仏壇ではご先祖も意気消沈ですよ。
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簡単ですがお彼岸の機に、欠いてはならぬ「必須供物」をご紹介しました。
供養には必ず「事物」が必要ということ。覚えておいてほしいです。
そしてこの6種供物は、ただ「供え物」というだけの意味ではありません。そのことは次回にでも。
彼岸おわり。なんか文章が疲れてしまってるなぁ~;
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ブログをコピペしながら、書くと言った手前書かなにゃらんけど疲れたもう無理~、で書いてたのが如実に分かる文面で(/ω\)
ですが、とりあえず「仏前には何が必須なのか」参考にはなろうかと(;'∀')