寺ブログ by副住職
呪術怪戦⁈
ここ最近、祓うに供養に一筋縄では行かない事案が多くなってきている気がする。
普段用いて来たやり方ではスンナリいかない・・医療で例えるなら投薬や注射では済まない、手術とか入院が必要なレベルばかりが増えているというか。それでも当の本人は大概、市販薬で済むもんだと思っているような(~_~;)
こちらがどれ程の思いで心身をすり減らして立ち向かってるか、どれほどの施主さんが分かっておられるのやら;
葬式でいけるんだったらこんな戦い続けの行者道じゃなくお気楽人生があったんだろうけどねぇww 再三の資具値上げも安布施に授与品つけて成果も顕せねばならぬ祈祷寺の苦闘運営なんて、同じ祈祷寺じゃないと分かんないか・・市井の人達とのケモノ道を選んだのはウチの寺と私なんですけどね(^^;グチすみません;
心霊祈祷事例としては幾つもの新しいネタではあるが、そのまま公に言えるようなモノではないし、話せるレベルに落とす編集を考えるの自体も苦しい・・ただでさえキツさにアテられ気味なので、話すもおろか書く能わず・・
所謂奥伝の駆使とか重ね祈祷をしないと難しい案件が増えている最近の異常事態については、今回の寺報に些か考察を書いたので、お読みいただきたい。
言える事は、根本的に日本国の霊性そのものの変性というか関わっている問題があるのではないか、と。そして、ますますヤバくなるのではないか、と。一証拠には、月参りされていたり折々にお祓いをされる方には、そこまでのキツイ事案はほぼ無い、ということ。
呪術廻戦という(作者は何と岩手県人!)という大人気漫画があるそうだ。読んだことないので内容は不明だが、ググってみると呪霊や化け物を呪術で戦うものらしい。そういうアニメに世間は夢中、戦って退治するってそりゃカッコいいんでしょうけど、現実世界ではシャレにならんです・・
ウチのお不動さんは一度で解決が多いが、本当は世間的には例外な状態。真言密教の法は正式には21座を行じて結願とする。21座でも他教に比して「神通乗」と呼ばれるほどなのだ。この何だか難しくなってきた時勢は逆に、拝めばすぐ何とかなるという、よく見られがちな即物的信心への甘さ安易さを戒めるには、いい機会なのかもしれないww
お祓いや供養を蔑ろにして見えないモノと嘲る人は、己の抱え込んでいるマイナスが何と引き合うか、事が起きるまで考えもしないのだろう。まあ、転ばぬ先の杖の大切さを見て見ぬ振りし、何度も過ちを繰り返す人達もいるから、懲りない解らない人というのもいる。それは仕方ないね。
新暦では明日から盆となる、今年の盆は日本人は本当に考え向きあわねばならないだろう、と思う。先祖そして自身そして子孫の為にも。ソレを笑っていて、ホント大丈夫か。
見てメモられてる⁉
正五九月は三斎月といい、帝釈天や四天王が人間界を視察するので、身を慎んで仏事に励むに功徳が大きい時と申します、とは当山の信徒さんには周知でありますが、四天帝釈について、ちょっと紹介しましょう。
帝釈天四天王はともに古代インド由来の神で、相当古くから守護神として仏教に取り入れられたとみられる天尊です。日本では聖徳太子が「この戦に勝ったら四天王を祀る寺を建てるので守護を!」と誓いを立てて、廃仏派の物部氏との戦いを制したのは有名ですが、その誓いに毘沙門天が出現したのが奈良の「信貴山」であり、戦に勝って建てたのが大阪の「四天王寺」。
聖武天皇の勅で全国に建てられた国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」。古代の日本仏教において四天王は、極めて重視されていた仏天であります。ちなみに、弘法大師が幼き頃に泥遊びをしていたのを見て驚愕して馬を降りて礼拝した視察の役人が語ったのは「あの子を四天王が守護している!」でありました(^^;
さて、帝釈天は、古代インドを代表する神インドラであり、詳細はググってもらったら早いでしょう(;'∀') 京都東寺の立体曼荼羅の帝釈天(国宝)は、日本一ハンサムな仏像とも言われてますね~、ぜひ一度は実物を見て欲しいカッコよさです。
ちなみに執金剛神や密迹金剛(いわゆる仁王像の一)はこの変化尊。また、密教で使う金剛杵の淵源はこのインドラの雷霆にある、とも目されます。
そしてこのインドラの配下にある実働部隊が四天王。
その筆頭が毘沙門天。四天王の一人としての場合は多聞天とも呼ばれます。戦の神、日本では北方の守護神として坂上田村麻呂の伝説と共に東北地方にも広く信仰が見られるに加えて、財福の神として七福神にも加わっており、名を知らぬ人はいないかも。
かの上杉謙信は熱烈な信仰を持ち、旗印を「毘」としていたのも有名。天部の中では異例の「成仏への導きも持つ」尊でもあり、真言密教では多くの口伝を以って尊崇する仏天であります。
甲冑に宝棒あるいは戟と宝塔を持つ姿が一般的。吉祥天という奥さん、禅膩師童子という子供がいるという、家族を引き連れているのも際立っていますね。鬼神衆を配下に従えます。
ついで持国天、ダイズラタ天王。刀を振り上げた姿で東方を守護。般若守護十六善神の筆頭にも名前が上がります。鬼神を眷属とします。
次いで増長天、ビルロクシャ天王。槍を持つ姿が多く、南方守護。眷属に死鬼霊を従えます。
最後に広目天、ビルバクシャ天王、西方守護。筆と巻物を持ちます・・こういう印はいわゆる閻魔帳というか、善悪の行ないを記する働きを意味するので、四天王の中では異質な感じです・・正五九の巡察はここに記されるのかも?!眷属には龍神を率いる、とこれも特異であります・・龍供の時には広目天真言唱えるのはこれですね。
今時の仏教では、四天王では毘沙門天以外は注視されることも祀られることも少ないですが、帝釈四天王は曼荼羅にもしっかり描かれておりますし、当山でお祀りしている太元帥明王の大陀羅尼にもその名は登場し、また普賢延命の脇侍として神呪を説くのはご存じの通り。祈祷の現場ではその働きを頼んでいるのであります。
当山信徒には周知のとおり、現世利益に働きをされる実働部隊は、仏菩薩明王の教勅に従うこれら天尊やその眷属です。そしてそれらは人間に近い感覚を持つとされます。仏は、我ら俗なる人間がどんな愚行を犯そうと影響されることなどありませんが、天尊はそうではない。我らの信仰の有り様は四天王らの天衆に見られ、決済されるのです。
お天道さまは見ている、とは今や死語同然かもですがこう記してきますと、そういう「貴方の生きざまは見られているぞ」の在り様を教えるのが正五九の三斎月、かもしれませんね。
今月は残り10日、まだやるべき仏事をしていない、仏参りをしていない、という人は急ぎやっておきましょう(^^;
ついでに、四天王は眷属も独特・・以前にご縁日に正五九のもう一つの由来をお話ししたことがありましたが、勘のよい方ならここから「あの話はそういう事か!」とお察しでしょう。正五九は在家の人こそ、常以上に祈るに如かずの好機です。
ユーチューバー、どんな引き出し⁈
↑画像は先月ご縁日
施主さん毎に異なる話とはいえ続き過ぎると、自分で喋りながら法話にアテられた感じ(^^; も~ちょっと法話休んでいい?ってww
年忌の話は年回仏で大筋は決まっているし、他は拝んだ状況からの行き当たりなので整理なってないのが施主さんには申し訳ないm(__)mですが、私的にはそう難しくはない。も・・文面にするまでは全く気力が出ず;
GW遊んでいた訳じゃないンです(;'∀') さすがに厄介な祈祷や供養と向き合い続けると心身をやられます・・PCに向かっても文章が出てこない、いわんや法話の整理をや(◎_◎;)
なので、ユーチューバーってのはホント凄い!と思いますね。よくもまあ毎日、新しいネタで動画を作って更新する、ってんですから。どういう気力と引き出しがあればそんなスタイルが出来るのか、教えて欲しいww
と言いつつ、他人様のユーチューブ興味ないので見ませんけど(^^;
まあ、布施を出して拝んだ施主さんにとってプラスになればいいので、何も話を公にする必要は無いっちゃ無いのですが。
最初から文章を作って喋れば転用は楽ですよね~
ですが・・ギリギリ!じゃないと僕ダメなんだよォ~♪という悪癖が;
また、自分で喋りながら《それ、そういうことか!》と気付かされるコトがたまにあるのです。密教の深い部分に関わるものが多いので信徒さんには何やらトンチンカンな話になってるかもですが、意図せず喋ったことに私自身が目から鱗、ということがある(;^_^ 修法して計算せずに喋る、そこに折に現わされる仏の示しに自身、些か期待するところもあるのかも。
施主さんに直接お話している中には、寺報やブログなど公には決して書くことのない、祈りの急所なども含んでいる場合もあります。話など読んだ聞いただけでは何にもなりません。一寸でも頭の片隅に置いてご自身の行動にフィードバックしていただければ、拝んでもらっただけ以上に、必ずや利する所は大きくなります。拙い話っぷりで恐縮ですが、ご活用されたく。
勇者よ!!
ネットでふと、目に入って来た言葉。
「ありのままに見、あるがままに行動できる者を、勇者と呼ぶ」byチャールズ・エバレット
チャールズ・エバレット氏とはアメリカの哲学者だそうだが、これは仏教の根幹に通じる言葉だ。
煩悩に覆われて、何事も歪めてしか見ることが出来ないのが、如何ともしがたい、人の常なる性。その罣礙を打ち破って、ありのままに見、ありのままに行動出来る「目覚めた人」を仏陀という、のはご存じの通り。
しかし「勇者」とはどういうことか?
ここに胎蔵大日の真言がある。「a-vi-ra-hum-kham」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
梵字真言には数多の意義が含まれるとは既述だが、単純訳だとこの真言は「おお!勇者よ!」なる意味だという!釈尊が成道した時に神々が発した言葉に由来するとか云々。
そして大仏頂陀羅尼で如来の筆頭に挙げられるのは
「drdhasurasenapraharanarajaya tathagatayarhatesamyaksambuddhaya」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
学者によって訳し方は異なるが、「堅固勇猛にして軍を打ち破る如来の王よ」である。これが勇者=先の胎蔵大日「a-vi-ra-hum-kham」と通じるのは言うまでもない。
原始仏典からも一寸だけ紹介。
「心が煩悩に汚されず思いが乱れず、善も悪も捨て去って目覚めている人にとって【恐れるものは存在しない】」ダンマパタ
実は自らの煩悩で作り上げている、思い煩い惑い苦しみ生きている絶対と思っている世界、それを打ち破ろうとする・・いわば自身として構築済みの世界を破壊するという、我を持ち、思惟する人間にとっては最も躊躇する恐怖に挑み、それを成し遂げた者、それこそが真の勇者と呼ぶに値する、のだろう。
敵というと外部を考えてしまいがちだが、本当の敵は己=己を縛る想い、にある。それは多かれ少なかれ、人生の様々なシーンで私達も経験して、うっすらとは分かっている。それは頭では分かっても、実際には対峙困難極まりないものだ、とも。
明王という尊格は、教令輪身という「この世に於いて教えを実現する姿」として如来が変化した姿にして、武器を持し戦う=勇者の姿である。
が、明王の持つ刀は、日本刀のような「片刃」ではなく「両刃」と決まっている。刃は己にも向けられているのだ。そこを意識して行動してこそ、明王の本領は発揮される。
不動尊は、インドにおいては修行者の守護仏というような尊格であったという。ただ守護神というでなく、「修行者の」守護神である。己に立ち向かう者を助ける、のだ。己にも刃を向けて鍛錬する者には、外部の敵は任せておけ、である。そして、己自身という敵に勝てる位なら、外部の敵など容易いもの、なのだと。
アニメやゲームの影響のせいか、勇者とは「我が身を省みずに戦う者」というイメージが大きいのではないか。だが、真の勇者とは「我が心を極限突破するまで省みて、自身という恐怖を打ち破った者」のことが正解のようだ。思惟を突き詰めた先には、洋の東西を問わずに。
その心意気と行動があれば、老若男女問わずに「勇者」へ歩んでいるのである。「そういうの目指してないから遠慮しとくわ~」も結構だが、その勇者を目指し励む者にこそ、勇者たる仏の加護も継続的に与えられる、とは覚えておかれると、人生にプラスが大きくなる、というものだろう。
何ぞ労し、何ぞ憂えん!
↑画像は年度始めの祈祷(太元堂)
心と精神は別物、と言い切ってしまった方が有意義なのかも、と思わされることが。
それは、作家の林真理子さんのコラム(週刊文春4/11号)。
ご存じのように女史は日大の理事長。そしてご存じの通り日大は大変な不祥事、卒業式の祝辞をどうするか。以下、引用。
「人生の励ましとなるような言葉を。キレイごとではなく、後々に思い出してくれるような言葉が欲しい。(中略)しかしこの後が続かない。」
「そんな時、あの斎藤孝先生(明治大学教授)が対談でこうおっしゃっているではないか。
『心と精神は違うものだと思っています。心とは喜怒哀楽があって、日々移り変わるものです。でも精神は安定感があるもの』
雷に打たれたように感動した。何と素晴らしい言葉であろうか。さっそく使わせて頂くこととした。」
この記事を読んで、私も雷に打たれたような感を受けた。心は掴みどころのないものだが、そういう単純明快な割り切り理解こそ、人を利益するのではないか。と言うのは、仏教の心の分析は煩雑に過ぎる所があるから;
この話を聞いて、坊さんなら即時に「心王、心数(心所)」を思われるだろう。早い話が、心王が心の主体、心数(心所)が心の従属作用。総体としての認識作用と個別の認知作用の別とでも言えばいいのかもだが、宗によって分類認識は異なる&細かい話には煩雑の極み、アビダルマの本領発揮かよ、で私には理解不能&その煩瑣は理解しようとも思わない(;'∀')
「本体として動じない心王」と「表層に揺り動かされる心数(心所」の関係は、「海そのもの」と「波」という例えで仏典にはよく見られるが、「心の定義」が厳密な意味では、上述のように煩雑&未確定&精神の定義とかモヤモヤが多いので、仏教に立つ者としては、心と精神は別!とは言い切るまでの自信は持てなかったが・・さすが斉藤孝、と言うべきか。
教育学者/言語学者の肩書にもかかわらず、齋藤先生の著作は幅広い視野と噛み砕かれた言葉で読みやすいが、こういうサラッと出てくる言葉も単純明快で突き刺さる~。こういう言い方だと、微に入り細に入る仏論の「心の分析」よりも断然、活きた言葉になりますわ。
↑コレも齋藤教授の著作
以下、再び林コラムの引用。
「この後、私なりにアレンジを入れ、強い精神を作り上げるために芸術は存在している、と言った(中略) そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしい・・。
卒業生の胸に私のスピーチがどこまで届いたか分からない。しかし、この『心と精神は違うもの』という言葉はそれから私の指標になっている。」
ちゃんと卒業生の心に刺さる、また、芸術など非生産的と見られがちな分野に関わる人には一層、心強い祝辞になっている、と思う。さすが作家。
先に、心の在り様は「海と波」の関係によく例えられる、と言った。心所心王の一般的配当とは一寸異なるかもだが、理解しやすい弘法大師の言葉がある。
『蔵海は常住なれども 七波推転す』
我らの深層意識の奥深い海(存在の根底となる阿頼耶識=行為の業が自動バックアップされる場所なので蔵識/蔵海という)は、深海のように動ぜず常に佇んでいるが、認識される前5識&意識&自我(という7つの認識の波)は、常に外の環境によって翻弄され変化し続けているに過ぎない・・
波とは、よく考えれば風や低気圧など外の要因によって引き起こされる一時的なものであるように、心の波もその程度のモノ。私達の本質は波ではなく湛然たる海の方にある、と。齋藤教授の論に合わせるなら、精神を心王、心を心所とみてイイ。※この点が仏論では喧々諤々ですが;
そして大師の曰く、
『爾許の無常、能く毀し能く損すれども、この本有に於いては何ぞ労し何ぞ憂えん』
・・因果の境地では壊れたり損なわれたりするが、本質の姿に於いては(壊れ損なわれるなど無い、)どうして苦しんだり憂えたりすることなどあろうか・・
波の起こる由縁を知って、一時的な波に揺さぶられ続けるでなく、大海そのものに意識を致すような心持ちで、と思ってもらったらいい。海印三昧という言葉があるが、されば自身に秘められた大海のような悟りの境地が現れてくる・・
仏教視点だとこういう話で、我が身にこの湛然なる大海あり、を全身で認識するための信仰であり修行である訳だが、通世間的な話にすれば、先の林コラムの
<強い精神を作り上げるために芸術は存在している・・そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしい>は、お見事である。
↑芸術と言えば、高野山で生ライブがあったそうです※高野山のインスタ引用
そして自身、整合性とか気にし過ぎる所があるが、多少の語弊など気にせず、簡単に言い切ってしまうことも大切、と思わされた。伝わんなきゃ意味ないもんね(^^;
ついでに、強い精神を作り上げる一つの術として、密教には真言がある。仏の密意が込められ、先述の阿頼耶識にまで届き、蔵識をも変性昇化させる言葉だ。真言に縁あり信仰される人は、常に誦じて己の鉾そして盾とも磨かれたい。
そして林真理子氏はこのコラムにこう記している。
<心が擦り切れたとしても、それはそれで仕方ない。心は日用品なのだ。ボロボロとなった心の向こうに、精神というものが毅然と立っていればそれでいいのではないか。いざという時にこの精神が私達を正しい方向に導いてくれるのではないか>
それは、先に述べた大師の言葉に通じるものであろう。
「そこばくの無常、よく毀しよく損すれども、この本有に於いては何ぞ労し、何ぞ憂えん」
目先の利益を得るに翻弄される生活はやむない事態であるが、「道」と呼ばれるカテゴリにも触れて世俗とは異なる感覚を研ぎ澄ますも、「強く」かつ「力まず」生きるには大切なこと、と思う。