寺ブログ by副住職
習うより慣れ、ヨ⁉
新たに起こしました、副住職の「現場の坊さんブログ」。いまだにヨチヨチ進捗ですが・・
プロフィールに「自分の失敗や弱点とその克服を書くと親しみが湧きやすい」という検索先のサイトの情報を鵜呑みにして、でも差し障りあるのはさすがにマズイだろう(;・∀・)と思い出したのが、高校の時のオイオイ何書いてくれてんだよ~話。
ま、確かに今も自分の字には自信無いし、毎年盆に塔婆書く段になると「習字教室に行っときゃよかった~;」と後悔するのも年中行事ですがw
で思うに、そんなでよく御札や塔婆とか書き仕事も勤まっているよな~と、今更ながら我ながら(^^;
やはり、慣れってのはスゴイものというか、習うより慣れろ、とはよく言ったものですね。
でも、せめてもう少し上手に書けたものを提供したい、とはいつも思っているんですけど~習うというアクションは壁;
寺ブログ(法話系)の移行のお知らせ
お知らせにも記しておりますように、この【寺ブログby副住職】は、副住職が公私に書き散らかして収拾がつかなくなった法話系の整理に新たに立ち上げましたブログ【現場の坊さんブログ】へと移行することにしました!
新ブログは、この寺ブログと並行同期するつもりでしたが、調べるとhtml&SEO的にいろいろ厄介が見えて来て・・長期視野でブログをやるならwordpress一択に限る、というあちこちのサイトで見た記述の意味を、ここに来て思い知るとは;
そういうワケでブログの法話系の更新は今後、新ブログで行なうとしまして、これまでの寺ブログの内容は随時新ブログへ転載しつつ、この寺ブログはお寺の日常系へとシフトしようと思います。
皆様におかれましては引き続き新ブログ【現場の坊さんブログ】もフォローくださいますよう、お願いします!
易々?ww身体張ってます!
祓いや供養など私らの業界には「かぶる/うける」という言葉があります。要するに、願主や故人の障礙を被ってしまう事態。
相手の状況に入れ込んでしまったり、神仏頼みで任せきるべき所を行者が力み過ぎたりと、祈祷にかかる主体を行者自身にしてしまうとそうなる、とは古来言われるところ。 
ですので、祈祷に関わる者の基本としてその点はよくよく心得ているつもりですが、それでも時として、被ってしまったか( ;∀;)の事態は起こる。
戦後、「加持を行じること」を力説布教された高野山の三井英光師は「全てを仏さんに預けてしまう、されば行者が障礙を受ける道理はない」と申されていてそれはご尤もですが、本山職員であられた師が向き合われた数は遥かに超えるであろう案件に対処してきた現実としては、そうキレイにスルーならないことも往々。
なぜか・・私が未だ未熟なせいもありましょうけれども、【他人の業に触れる】とは【無関係ではいられない】ということなのでしょう、と思うのです。
善くないコトに関わってからロクな事がない人、死人に関わってからオカシクなった人等々、それはご相談に来られた数多のお客さま方の話や鑑定からも、夙に思わされてきた事実。
ですから<全ては関わる【縁次第】だ、縁は選ばねばならない>と、信徒さんには繰り返し強調して来たわけですが。
と言いながら自らは、他人の業に触れるのが仕事、という(^^;
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釈尊は「来世の苦しみは自業自得だ、己の業は修行して生前に片を付けろ、他人の業に構っている人生の時間など無いはずだ」と話されました。
でもそれって自分オンリーじゃ・・修行できないその他大勢も救われる道こそが釈迦の本意、ホンモノだよね!と登場したのが大乗仏教。
すなわち【他人の業に触れる】ことに転換した大乗・・しかしそれは如何なる事態を生むか。
これ、衆生と共に病むという【菩薩の衆病】なんて言葉も生まれるわけです( ̄▽ ̄;)それは 無関係では済まない証明。
更に密教では、表面に触れて教える程度を超えて、個々の差異にまで踏み込むレベルまで用いる・・医者に例えるなら、他大乗が市販薬で終わりならば密教は手術もする、という感じかと。
ゆえに効きが早いわけです。一方で、行者は【他人の業に触れる】度合いも大きくなる。加えて当山など【鑑定】という、まんま【他人の業に触れる】業務もやっていますから(;'∀') 一般の人には分かんない/気づきもしないかもですが、祈祷/鑑定とはリスクに身をさらし続ける勤めなんです・・行者あるあるww 
いくら上述の基本心得ていようと、ただでさえリスクは大きい・・更に気を付けるべきは「情けをかけすぎない」ことでしょうね。
そんなのお寺として非情だとか文句垂れる輩とか居そうですが、先に述べました、「行者は入れ込んではならぬ」が祈祷の禁忌だと。
コレを犯して先日、危い目に遭いました。
お盆中の拙僧の運気にゾクっとする得卦・・交通事故必至の卦。自身には長らく得たことがなかったのに、今なぜ?
ともあれ、普段以上に気を遣って運転していましたが、その危機はイキナリ。
あと1秒アクションが遅かったらテレビニュースに登場疑いなしの、あ、終わったかも、レベル・・間一髪で無事回避はホント、護られたとしか言いようがなかった・・ 
いつも以上に拝んでもきて、盆中にとは何がどうしたのか⁈思いを巡らせました。そして←自体がヤバかったか、と。
ご承知の通り、今年の盆廻向は8月1日から始めました。それは、既述の通りの事情と、終戦八十年という節目に鑑みて。
しかしコレはやり過ぎだった・・盆法会の回向として承った分でしかないのに、実質半月以上に及ぶ廻向・・仏を恃むのに相応の布施が要る、が、祈りの多さに布施は全く足りないレベル。
拝みと授与品に照らせば盆供養料とて不足気味なのに、ホトケと施主方が一層報われるようにとの思いが余計過ぎた、か。
それは拙僧らの力でどうこうするものではない、仏様に預けてしまうべき案件。
それを一方的に祈り過ぎて、担い手たる仏様へ託すに布施が足らぬレベルになった、布施応分を超過した分は祈った行者が何らかの形で負うことになる・・情けで身を亡ぼすのも、行者や占い師によくある話。
もっとも、布施として寺=本尊がお受けされて、それに見合う祈りのレベルと利益を計らいくださるのに、従業員に過ぎない坊さんが、ヘタな情けで本尊任せ以上のことをやってやろうなど、おこがましいにも程がある、と書きながら気付きました・・
盆過ぎも8月末まで気力体力すぐれず・・この夏の護摩三昧、熱中症気味を何度も経験したせいか、善かれで出しゃばってしまった影響もあったかと。
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布施は基本的にはその人個々の状況に応じてとされますが、易々と出せる位では施にならず、ちょっとキツい位が宜しい、とも申します。その人の気概をも見られるということでしょう。願掛けしながら願解き/御礼参りしない人は通らない、のも同様。祈りが通りにくいと感じる人は、こういう面もお考えされては。
痛い目と危い思いをしましたが、ある意味、「お前は布施応分に祈るだけで良い、願主に要らぬ気を遣ったり、情けをかけたりするな、その者に見合ったレベルの救いと加護はワシが決めて与えることだ、お前は坦々と向き合えばそれで良い」とお不動さんに教えられたような(;'∀') 何気にこの文、スラスラ書かさったなww 何かいろいろフッ切れたわ。 
どれ程のことをしているのか、行者ではない一般の人に察して欲しい自体が無茶な話ではありますが、祈祷や祓いや供養や鑑定とは身を削るリスクに身体をはりながらの勤めであり、一般葬式法事のような軽々ではない、だから効くのだ、ということ。この機に知って頂ければ嬉しいですね。
事例を知りたい?強烈なのを一件、次回にでも紹介しますか。鑑定が占いが如何に【リスクと隣り合わせで行なっているものであるか】を(((;゚Д゚))
そして重ねて、善くない人/コト/モノには出来るだけ関わらないように。何度も言います、【縁】は選ばねばなりません。縁が貴方を将来を創るのだ、とは仏の教え。占いは縁を知る為にあります。活かさないのは愚でしょう。
好かれる人♡
嬉しいご報告を立て続けに頂いています、有り難い限りです。
何気に鑑みますにそういう方々に共通しているのは「素直である」ことかな、と。
占筮というのは「神意/仏智」です。それを素直に受け止めて、自身を合わせていく/変えていく人は、結果が良い。至極当然。
祈りとは、自身の分際を超えたどうにもし難い所に、仏神の援けを求めるもの。素直にその冥護を信じて祈りを形とし、やれるだけの努力をする人は、奇跡としか言えない様な結果までも手にされたりする。己を虚しくして仏と感応なれば、それも特別なことじゃない。
そしてふと気づきましたのは、素直じゃない≒物事が通りにくいには、ソレが仏の戒める根本煩悩そのままじゃないか⁉と。
ご存じのように根本煩悩は「貪瞋痴=強欲・怒り・愚かさ」の3つが有名ですが、これをもう少し広げた「六大煩悩」というくくりがあります。
これは先の三煩悩に「慢」「疑」「見/邪見」の3煩悩をプラスしたもの。
専門的解釈はひとまず置くとして、コレを我らの日常に即して単純に考えますなら、
・慢=ウヌボレ、思い上がり、見下し、ナメた思考、身の程しらず、馴れ馴れしさ、憶測だけの見当違いな一方的物言い、非を認めない、譲らない、不遜な態度、それと意外な感ですが卑下も慢の一種と
・疑=頼みながら信じていない、己の思考や期待を最優先視する、真や道理を見極められない、良薬は口に苦しと受け止められない、被害妄想
・見/邪見=更に5つに分けられますが、要は「因果の道理を信じない」「ハナから決めつける」「体裁さえやっときゃ」自分の考えに執着する意固地、ひね曲がり、劣った見識
こうしてみますとこれらは「素直じゃない」の一言に尽くされる、そんな気がしませんか。
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「自身にはハードルの高いこと」だから乞い尋ね、手に負いきれない様な事だから祈るのです・・よね?
そういう場においても、尋ねながらも信じない/示唆されたことをやろうともしない/自分が変わるでなく、執拗に都合のイイ回答待ち/一度祈ればそれっきり/お礼やおかげさまなど頭になく、当たり前や偶々だと片付ける/手順などすっ飛ばして結果だけ求める/都合の良い部分だけつまみ食い&膨張させ/鑑定してもらえばいいのでしょうか、拝めばいいのでしょうかと踏み出す一歩すら人任せ/何様な態度/自分は特別扱いされている・されて然りと妄想/グチだけは執拗・・この辺にしておきますかww
仏前とは「本性が剥き出しになる場だ」って昔から何度も言ってますのにね。
占筮は住職や私が応えますので、軽く考える人もおありなのでしょう。ですが、私共が述べるのは「貴方に示された神意」を代弁するだけです。私個人の感想じゃないですよ。
祈祷は住職や私が行ないますので、たかが坊主と軽んじる人もおありでしょう。ですが、私共は仏神への仲介であって、皆さんが向き合っているのは「不動明王や愛染明王という、厳しさの権化のような仏様」なのですよ。
そこに大煩悩をむき出しにした態度で接しようなど、バチが当たらないだけイイとしなきゃない、のでは。
上述した煩悩の逆・・良いからと自惚れず、悪いからと卑屈にならず、他人とは適度な距離感を保ち、時と場によって軽さと真摯さを過たずに動静し、原因があって結果がある道理を弁えてやるべきを為し、将来を考える・・そのように在れたなら、仏神からは勿論、人からも好かれまくり間違いなし!でしょうネ。
でも、この六大煩悩は本能に根差すものですから、どんな場でも純粋に素直に立ち回れる人、なんて、この極悪末世邪道の中を必死に生きねばならぬ我ら凡夫には、どだいムリな話~
それでも、上述の慢・疑・邪見を意識して改善してみようと明日から正してみるだけでも、仏神の加護はもとより、人付き合いの場に於いても己が知らぬ間の損失は大いに少なくなる、物事スムーズに運びやすくなるに違いありません!
江戸時代の傑僧、浄厳律師の言葉にこうあります【疑いあるが故に、一切成ぜず(仏へ通じない、物事が通らないのだ】と。
「素直であれ」は、仏前に必須な心得かも、と思えてきました(◎o◎;)
ハンドメイド三昧!
風呂敷護摩は、この紙天蓋が独特&難儀・・手間のかかりが常の幣束の比じゃない。
切るからして一苦労、裁断上がるまでにカッターの刃欠けること3回交換。恐るべし、奉書紙よ(((;゚Д゚))
おまけに和紙は引っかかりやすいので、力入れてゆっくりを重ねて切らないと破れちゃう(;'∀')
切り終わったら折り方・・重なっている幣を一枚ずつバラシて折り畳み~
出来上がり→道場にセッティング。も、これまた脚立をそっちこっちに動かしつ上り下り、破れぬように慎重にも慎重に( ̄▽ ̄;) で完成!
しかし、これで一日がかりとは・・明日から習礼かたがた天蓋護摩修行、やっておきます!
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先日修理した護摩杓。
焼けるので折に自前修理していますが、ホームセンターで手に入る木じゃ耐火に適したのって無い・・いつもは檜で作ってます。
かと言って仏具屋の修理だとウン万円;
燃えにくい工作用木材、で検索してもなかなかヒットしない~
も、執念深く探して「槐」が燃えにくいようだと知り、通販してる材木店発見!で、取り寄せて加工。堅いね~
真鍮部分が欠けてるのでアルミテープで補強して出来!長持ちしてくれるといいな~
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バキュームブレーカーが壊れたよう、メーカーに聞くと「もう部品がないので、ボックス本体ごとお取替えを」・・だよね、もう20~30年使ってきたし。
と思うと、右側トイレリフォームが成るのを待っていてくれたかのよう;
とりあえず応急処置するも数日でダメに、もはや替えるしかない・・も安くないわ;水道屋に頼んだらいくらになるやら( ;∀;)
水道は今までも自前交換何度も経験済みなので、ネットで買って自分で取付ける!
と順調にきた所で、以前の取り付け金具&ペーパーホルダーとの兼ね合いで、場所が無理⁉
も~しゃあない、でホルダー支え材を壊し一部壁紙を剥がして新たに貼って、取り付け完了!
壁紙工事までやる羽目になるとは、業者頼んでたら請求いくら来たやら(;゚Д゚) 自分を信じてよかったww
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電気部材の割れ・・経年劣化だそうで;
イッチョやりますか、と思うも、配線電気系は素人じゃ危なすぎる~と断念。ただ新しい部品に繋ぐだけ、なんだけどもね。
配管とか電気工事とかの資格、勉強して取るべきかと思いを巡らすまだ終わらぬ夏~















