寺ブログ by副住職
咸!
窓を開けると、朝なのに熱風~
も、自分一人で拝む&換気扇まわすのに、高電気代かけてエアコンなどかけていられぬ;;
6月からそうだが、如何に夏衣だろうと全く涼しいなんてことは無い・・半袖短パンでいる時期に重ね着ですから・・ホノルル以上の気温だってのに仏教会には衣を何とかせねば命がヤバい、なんて提言はないのか・・他宗はやらんでも護摩焚く我ら密教界はホント、袈裟一丁のインドスタイルへの回帰が必要だろう~
そんな熱風に加えて日輪観想の護摩ww物心両面の灼熱のせい?か卒然、氷解したことが。
供養に用いているとあるやり方、どうしてその真言にその書き様を用いるのか、長年行じつつも理解できなかったが、それが今日の護摩中にいきなり諒解した・・愛染法とは関連ない作法なんだがww愛染さんありがとう、だ。
と、自身もきうり封じをしたおかげかも。
きうり封じほうろく灸第一弾は一昨日行じたばかりだが、願主さんからは早くも、痛みが気にならず/和らいだ/驚いた/不思議なことが/祈祷の有り難さを痛感、などお蔭を頂いた報告を相次いで頂戴している\(◎o◎)/有り難い限りだ。
また、そういう変化をたまたまとか偶然とせずにお蔭と受け止められる人は、そういう加護も頂きやすいというもの。
かたや病気だ不調だとグチグチ言うくせ、案内を受け取りながらこういう祈願をしない人もいる。アホやと思う、己の身体以上に大切なモノなどなかろう。やれることをやってみる気もないなら、感応などある訳もない。
易に「沢山咸」という卦がある。向き合えば激しく動き出すのに背中合わせのままで鈍感、という意を持つ。チャンスに動かぬ失機ともいえる。神仏とは、己から向き合ってこそ感応するものだ。向こうから動いてくるのではない、こちらから向き合ってナンボだ。向き合い続けて機が調ったならば、何らかの感応は必ず頂ける。
祈りでも何でもやれる事はやってみる、と向き合う人にはお蔭が多きことを>o<ノ
呪術怪戦⁈
ここ最近、祓うに供養に一筋縄では行かない事案が多くなってきている気がする。
普段用いて来たやり方ではスンナリいかない・・医療で例えるなら投薬や注射では済まない、手術とか入院が必要なレベルばかりが増えているというか。それでも当の本人は大概、市販薬で済むもんだと思っているような(~_~;)
こちらがどれ程の思いで心身をすり減らして立ち向かってるか、どれほどの施主さんが分かっておられるのやら;
葬式でいけるんだったらこんな戦い続けの行者道じゃなくお気楽人生があったんだろうけどねぇww 再三の資具値上げも安布施に授与品つけて成果も顕せねばならぬ祈祷寺の苦闘運営なんて、同じ祈祷寺じゃないと分かんないか・・市井の人達とのケモノ道を選んだのはウチの寺と私なんですけどね(^^;グチすみません;
心霊祈祷事例としては幾つもの新しいネタではあるが、そのまま公に言えるようなモノではないし、話せるレベルに落とす編集を考えるの自体も苦しい・・ただでさえキツさにアテられ気味なので、話すもおろか書く能わず・・
所謂奥伝の駆使とか重ね祈祷をしないと難しい案件が増えている最近の異常事態については、今回の寺報に些か考察を書いたので、お読みいただきたい。
言える事は、根本的に日本国の霊性そのものの変性というか関わっている問題があるのではないか、と。そして、ますますヤバくなるのではないか、と。一証拠には、月参りされていたり折々にお祓いをされる方には、そこまでのキツイ事案はほぼ無い、ということ。
呪術廻戦という(作者は何と岩手県人!)という大人気漫画があるそうだ。読んだことないので内容は不明だが、ググってみると呪霊や化け物を呪術で戦うものらしい。そういうアニメに世間は夢中、戦って退治するってそりゃカッコいいんでしょうけど、現実世界ではシャレにならんです・・
ウチのお不動さんは一度で解決が多いが、本当は世間的には例外な状態。真言密教の法は正式には21座を行じて結願とする。21座でも他教に比して「神通乗」と呼ばれるほどなのだ。この何だか難しくなってきた時勢は逆に、拝めばすぐ何とかなるという、よく見られがちな即物的信心への甘さ安易さを戒めるには、いい機会なのかもしれないww
お祓いや供養を蔑ろにして見えないモノと嘲る人は、己の抱え込んでいるマイナスが何と引き合うか、事が起きるまで考えもしないのだろう。まあ、転ばぬ先の杖の大切さを見て見ぬ振りし、何度も過ちを繰り返す人達もいるから、懲りない解らない人というのもいる。それは仕方ないね。
新暦では明日から盆となる、今年の盆は日本人は本当に考え向きあわねばならないだろう、と思う。先祖そして自身そして子孫の為にも。ソレを笑っていて、ホント大丈夫か。
見てメモられてる⁉
正五九月は三斎月といい、帝釈天や四天王が人間界を視察するので、身を慎んで仏事に励むに功徳が大きい時と申します、とは当山の信徒さんには周知でありますが、四天帝釈について、ちょっと紹介しましょう。
帝釈天四天王はともに古代インド由来の神で、相当古くから守護神として仏教に取り入れられたとみられる天尊です。日本では聖徳太子が「この戦に勝ったら四天王を祀る寺を建てるので守護を!」と誓いを立てて、廃仏派の物部氏との戦いを制したのは有名ですが、その誓いに毘沙門天が出現したのが奈良の「信貴山」であり、戦に勝って建てたのが大阪の「四天王寺」。
聖武天皇の勅で全国に建てられた国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」。古代の日本仏教において四天王は、極めて重視されていた仏天であります。ちなみに、弘法大師が幼き頃に泥遊びをしていたのを見て驚愕して馬を降りて礼拝した視察の役人が語ったのは「あの子を四天王が守護している!」でありました(^^;
さて、帝釈天は、古代インドを代表する神インドラであり、詳細はググってもらったら早いでしょう(;'∀') 京都東寺の立体曼荼羅の帝釈天(国宝)は、日本一ハンサムな仏像とも言われてますね~、ぜひ一度は実物を見て欲しいカッコよさです。
ちなみに執金剛神や密迹金剛(いわゆる仁王像の一)はこの変化尊。また、密教で使う金剛杵の淵源はこのインドラの雷霆にある、とも目されます。
そしてこのインドラの配下にある実働部隊が四天王。
その筆頭が毘沙門天。四天王の一人としての場合は多聞天とも呼ばれます。戦の神、日本では北方の守護神として坂上田村麻呂の伝説と共に東北地方にも広く信仰が見られるに加えて、財福の神として七福神にも加わっており、名を知らぬ人はいないかも。
かの上杉謙信は熱烈な信仰を持ち、旗印を「毘」としていたのも有名。天部の中では異例の「成仏への導きも持つ」尊でもあり、真言密教では多くの口伝を以って尊崇する仏天であります。
甲冑に宝棒あるいは戟と宝塔を持つ姿が一般的。吉祥天という奥さん、禅膩師童子という子供がいるという、家族を引き連れているのも際立っていますね。鬼神衆を配下に従えます。
ついで持国天、ダイズラタ天王。刀を振り上げた姿で東方を守護。般若守護十六善神の筆頭にも名前が上がります。鬼神を眷属とします。
次いで増長天、ビルロクシャ天王。槍を持つ姿が多く、南方守護。眷属に死鬼霊を従えます。
最後に広目天、ビルバクシャ天王、西方守護。筆と巻物を持ちます・・こういう印はいわゆる閻魔帳というか、善悪の行ないを記する働きを意味するので、四天王の中では異質な感じです・・正五九の巡察はここに記されるのかも?!眷属には龍神を率いる、とこれも特異であります・・龍供の時には広目天真言唱えるのはこれですね。
今時の仏教では、四天王では毘沙門天以外は注視されることも祀られることも少ないですが、帝釈四天王は曼荼羅にもしっかり描かれておりますし、当山でお祀りしている太元帥明王の大陀羅尼にもその名は登場し、また普賢延命の脇侍として神呪を説くのはご存じの通り。祈祷の現場ではその働きを頼んでいるのであります。
当山信徒には周知のとおり、現世利益に働きをされる実働部隊は、仏菩薩明王の教勅に従うこれら天尊やその眷属です。そしてそれらは人間に近い感覚を持つとされます。仏は、我ら俗なる人間がどんな愚行を犯そうと影響されることなどありませんが、天尊はそうではない。我らの信仰の有り様は四天王らの天衆に見られ、決済されるのです。
お天道さまは見ている、とは今や死語同然かもですがこう記してきますと、そういう「貴方の生きざまは見られているぞ」の在り様を教えるのが正五九の三斎月、かもしれませんね。
今月は残り10日、まだやるべき仏事をしていない、仏参りをしていない、という人は急ぎやっておきましょう(^^;
ついでに、四天王は眷属も独特・・以前にご縁日に正五九のもう一つの由来をお話ししたことがありましたが、勘のよい方ならここから「あの話はそういう事か!」とお察しでしょう。正五九は在家の人こそ、常以上に祈るに如かずの好機です。
ユーチューバー、どんな引き出し⁈
↑画像は先月ご縁日
施主さん毎に異なる話とはいえ続き過ぎると、自分で喋りながら法話にアテられた感じ(^^; も~ちょっと法話休んでいい?ってww
年忌の話は年回仏で大筋は決まっているし、他は拝んだ状況からの行き当たりなので整理なってないのが施主さんには申し訳ないm(__)mですが、私的にはそう難しくはない。も・・文面にするまでは全く気力が出ず;
GW遊んでいた訳じゃないンです(;'∀') さすがに厄介な祈祷や供養と向き合い続けると心身をやられます・・PCに向かっても文章が出てこない、いわんや法話の整理をや(◎_◎;)
なので、ユーチューバーってのはホント凄い!と思いますね。よくもまあ毎日、新しいネタで動画を作って更新する、ってんですから。どういう気力と引き出しがあればそんなスタイルが出来るのか、教えて欲しいww
と言いつつ、他人様のユーチューブ興味ないので見ませんけど(^^;
まあ、布施を出して拝んだ施主さんにとってプラスになればいいので、何も話を公にする必要は無いっちゃ無いのですが。
最初から文章を作って喋れば転用は楽ですよね~
ですが・・ギリギリ!じゃないと僕ダメなんだよォ~♪という悪癖が;
また、自分で喋りながら《それ、そういうことか!》と気付かされるコトがたまにあるのです。密教の深い部分に関わるものが多いので信徒さんには何やらトンチンカンな話になってるかもですが、意図せず喋ったことに私自身が目から鱗、ということがある(;^_^ 修法して計算せずに喋る、そこに折に現わされる仏の示しに自身、些か期待するところもあるのかも。
施主さんに直接お話している中には、寺報やブログなど公には決して書くことのない、祈りの急所なども含んでいる場合もあります。話など読んだ聞いただけでは何にもなりません。一寸でも頭の片隅に置いてご自身の行動にフィードバックしていただければ、拝んでもらっただけ以上に、必ずや利する所は大きくなります。拙い話っぷりで恐縮ですが、ご活用されたく。
勇者よ!!
ネットでふと、目に入って来た言葉。
「ありのままに見、あるがままに行動できる者を、勇者と呼ぶ」byチャールズ・エバレット
チャールズ・エバレット氏とはアメリカの哲学者だそうだが、これは仏教の根幹に通じる言葉だ。
煩悩に覆われて、何事も歪めてしか見ることが出来ないのが、如何ともしがたい、人の常なる性。その罣礙を打ち破って、ありのままに見、ありのままに行動出来る「目覚めた人」を仏陀という、のはご存じの通り。
しかし「勇者」とはどういうことか?
ここに胎蔵大日の真言がある。「a-vi-ra-hum-kham」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
梵字真言には数多の意義が含まれるとは既述だが、単純訳だとこの真言は「おお!勇者よ!」なる意味だという!釈尊が成道した時に神々が発した言葉に由来するとか云々。
そして大仏頂陀羅尼で如来の筆頭に挙げられるのは
「drdhasurasenapraharanarajaya tathagatayarhatesamyaksambuddhaya」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
学者によって訳し方は異なるが、「堅固勇猛にして軍を打ち破る如来の王よ」である。これが勇者=先の胎蔵大日「a-vi-ra-hum-kham」と通じるのは言うまでもない。
原始仏典からも一寸だけ紹介。
「心が煩悩に汚されず思いが乱れず、善も悪も捨て去って目覚めている人にとって【恐れるものは存在しない】」ダンマパタ
実は自らの煩悩で作り上げている、思い煩い惑い苦しみ生きている絶対と思っている世界、それを打ち破ろうとする・・いわば自身として構築済みの世界を破壊するという、我を持ち、思惟する人間にとっては最も躊躇する恐怖に挑み、それを成し遂げた者、それこそが真の勇者と呼ぶに値する、のだろう。
敵というと外部を考えてしまいがちだが、本当の敵は己=己を縛る想い、にある。それは多かれ少なかれ、人生の様々なシーンで私達も経験して、うっすらとは分かっている。それは頭では分かっても、実際には対峙困難極まりないものだ、とも。
明王という尊格は、教令輪身という「この世に於いて教えを実現する姿」として如来が変化した姿にして、武器を持し戦う=勇者の姿である。
が、明王の持つ刀は、日本刀のような「片刃」ではなく「両刃」と決まっている。刃は己にも向けられているのだ。そこを意識して行動してこそ、明王の本領は発揮される。
不動尊は、インドにおいては修行者の守護仏というような尊格であったという。ただ守護神というでなく、「修行者の」守護神である。己に立ち向かう者を助ける、のだ。己にも刃を向けて鍛錬する者には、外部の敵は任せておけ、である。そして、己自身という敵に勝てる位なら、外部の敵など容易いもの、なのだと。
アニメやゲームの影響のせいか、勇者とは「我が身を省みずに戦う者」というイメージが大きいのではないか。だが、真の勇者とは「我が心を極限突破するまで省みて、自身という恐怖を打ち破った者」のことが正解のようだ。思惟を突き詰めた先には、洋の東西を問わずに。
その心意気と行動があれば、老若男女問わずに「勇者」へ歩んでいるのである。「そういうの目指してないから遠慮しとくわ~」も結構だが、その勇者を目指し励む者にこそ、勇者たる仏の加護も継続的に与えられる、とは覚えておかれると、人生にプラスが大きくなる、というものだろう。