寺ブログ by副住職
ピカールとミョウガ⁉
お釈迦さまに周利槃特(チューラパンタカ)という、お弟子さんがいた。
ところが、あまりに物覚えが悪すぎる。いや、自分の名前すらも憶えていられぬ有り様、修行仲間からも蔑まれ、悲嘆にくれる毎日。
そんなパンタカを見かねた釈尊は、「塵、垢を除け、と手でこの布を撫で続けなさい」と一枚の布を与えた。
どうなりますか・・キレイだった布は、だんだん汚れてきます。
「仏陀が繰り返し説かれていた無常とは、こういうことか!」
それを契機に、今まで全く理解できなかった説法がほどける様になり、それを見た釈尊は更に「心の垢、塵を除くことが大切」と教え、最終的にパンタカは阿羅漢果を獲た、という。
この周利槃特の話、仏教に親しい人にはおなじみですが、アレ?と思う人もおられるかと。
そう、箒を与えて「塵を払い、垢を払え」というのが有名ver.ですよね。また、布で靴を磨かせた、という話でもあったりします。
が、私が読んだ本では「布で手を撫でさせた」のがメインで、箒や靴磨きは別の伝扱いでした。
2500年間の伝言ゲームじゃ、話が統一していないのは自然ですけれど;「無常を認識した」視点からはこの「布を与えた」のが実際なのかな、と思ったりします。
そう思うと、今日もした「真鍮磨き」は、原始仏教の教えの一部門でもあるのかも笑
真鍮はひと月も経つと酸化してクスんで来ます。密教は法具がとても多い&護摩壇磨きまで入れて「2時間、あ゛~;」と思いますが、日々に用いるもの。磨かざるを得ません(^^;
ピカールつけて磨くとすぐ真っ黒になりますので、いちいち「無常・・」とは感じませんが、くすんだ法具がピカピカなるに「磨いたら光る!」の「無常」とは向き合っているかも!そして復た、くすんで行く、という「無常」とも;パンタカとはちょっと視点が違いますけどね。
そう思うと、真鍮磨きは「無常」から、図らずも「如来蔵」に気づく、修行なのかもです。
他寺さんはご奉仕の名のもと檀家さんにさせたりするそうですが、ウチでは信徒さんにさせることは無い・・やれるコトは何でも自分でやってしまうのが拙寺のサガですが、上述を思うと基本信徒には頼まない、ってのは教化的にはダメなのかも・・
ところで、薬味になる「ミョウガ」風味がイイですよね~で、これ、上述のパンタカさん由来⁉
なんでもパンタカの墓に生えた、得体不明の植物であった、らしい。
彼は自分の名前すら忘れる有り様で、見かねたお釈迦さまが名を書いた幟を背負わせて、名を尋ねられたら幟を見よ、とさせたら、釈尊の書いた字に惹かれて来る人々からパンタカは托鉢に多量の布施を頂いたという。名を背負った=茗荷、というワケ。
ミョウガを食べるとバカになる、という一部の俗説もそんな理由~。でも、パンタカは最終的に「阿羅漢」になりましたから、むしろ有り難がるべきじゃない?
人は変わるもの。過去を引き合いにバカになるって言いは、周利槃特にもミョウガにも名誉棄損だよねェ、と思うのです笑
もう⁉ですね~
気がつけば今年も早、残り2か月。しかし、日々に追われていますと「今年は何をやったゾ」と思い出せない~;
皆さんはパッと答えられます?ハッキリと記憶に残るような今年の成果、あと二か月の内にどうにか作りたいものです(^^;
とりあえずここ続けて、難儀な祈祷していた数人から成就報告が入っているのは有り難いことです。
本日は月初の祈祷。長日祈祷の方々は祈祷されておりますのでご安心頂くと共に、ご自身も感応を心がけてお祈りとアクションをお忘れなく。
昨日の岩手山。晩秋は空気が澄んでキレイですね。所用がてら一寸足を延ばした甲斐がありました。
皆様も、高い視点の中に足を運ばれて大空大地の氣をいただき、11月を張り切っていきましょう!
自然に還さぬ顛末
「本当に後々の事まで考えてるのかなァ?こんなもの建てやがって!と後世の住職から恨まれるような気がしますけどねエ・・」と何年か前に他寺様と話をしましたが、コトはその懸念を先取りした問題もあるようで。
納骨堂。ここ10~20年くらいやたらと増えているようです。最近は、カードをかざすと骨を収納棚からエレベータ方式で運んでくる近未来型も普及しているらしく、いわゆるお墓の持っていた陰気な概念や空気を打ち破るような存在感で建設されているみたい。まあ、寺も檀家もそれで納得ならいいのでしょう。
ただ、どうしても私的には【違和感】をぬぐい切れないものがあります。それは【土に返さないで、いつまで残しておくつもりなの⁉】
遺骨はいつまでも現世に晒しておくべきではない。この辺りの論考は書き出すと長くなるので端折りますが、日本においては伝統的にも、拙寺の霊的経験的にもそれは言えます。速やかに埋葬、自然に還されるべきと。まあ、そういう踏み込んだ視点はひとまず横に置いておくとしても、
【建物は必ず老朽化し、取り壊さなければならない時期が来るのです】
「永代供養で預かります」という触れ込みで、受け入れ時には大金を頂き、年間の管理料も入るから、運営には困らない、と考えるのでしょう。
しかし、如何に大金な納骨料とて膨大な建設費の前にはみな消えてしまうでしょうし、微々たる管理費など建物の修繕維持で利益にならないはず。毎年の火災保険料だけだってバカにならないでしょう。運営という立場の方々からしたら常識的なことですが、人や物が集う建物を維持するには、外からは見え難いですが大変なお金がかかります。それは年数が経過すればするほどに。
でも「その時お金を出せば後は管理費のみ」というような、広告をいくつも見ました。未来を想定していないのかなあ、と。
建物がもう持ちません、要解体となった時、どうするんだろう。
永代と言った手前、引き続き預かるのは当然として、改めて納骨料は請求できないでしょ。でも、ソレないと再建などできないよね。
身寄りのない人達のは死人に口なしで墓に合祀してしまう手はあるか。しかし道義としてどうよ?
檀家に頭を下げて引き取ってもらうのか。信用は憎しみになるだろうし、先祖代々の遺骨を多量に引き取れと渡されても檀家はパニックになるわ。
そして大金を投じたはずの祖霊は、居場所を喪失。
ついでに、建物を建てる時に忘れられがちですが、昔と違って解体にもかなりの費用がかかります。今後も高騰していくでしょう。寺に解体するだけの予算が残っているならまだ幸い、なければ大借金か手放すか朽ちるにまかせるか。供養どころかお寺の存亡にまでなりかねない。
で、檀家とその祖霊を路頭に迷わすだけでなく、冒頭の、後世のお寺の後継者にとんでもないツケを負わせることになるのではないか、という話。
しかし、このニュースの納骨堂は「建物の耐久年数」以前に、運営法人が借金のカタに手放したそうで・・将来の維持以前に建築費すら払えなかったと。ココを買い取った法人に「持って帰れ」といわれたお骨も遺族もサンザンですが、【土に還すべき】という日本の死生観に適ったごく自然な感覚を忘れたツケと言えば、そうなのかもしれません。
しかし、その状況は今回のニュース当事者だけではなく、今後数十年かけて全国で溢れ出して来るのではないかと、懸念するわけです。
死生観も地域や時代と共に変化していくのは自然なことでしょうけれど、【お骨の扱い】という非日常は、ぶっ飛んだ今時思考の扱い方にしてしまっては、寺も祖霊も檀家も後悔する三方損になるような気がします。人ごとではありません。皆さんも今一度冷静にお考えされてみては。
布施一想
お彼岸ですので、仏教の修行徳目について徒然に。
お釈迦さまの十大弟子に阿那律尊者という人がいる。涅槃絵解きにお参りされた人は聞き覚えがあると思う。そう、雲に乗って釈尊の母(マーヤ婦人)をお連れする坊さんだ。
ある時、尊者は「誰か、功徳を求めようとする人は、この針に糸を通してくだされ」と訴えた。
ほころびた衣体を縫おうにも、目が見えない。というのは、釈尊の説法中に居眠りしてしまい、それを咎められ深く悔いて「不眠不臥」の誓いを立て、猛修行に励んだ。「それでは体を壊してしまう」という釈尊や医師の制止も聞かず、ついに失明。(それでも修行の功徳で天眼を獲得)
「私がさせてもらおう」、尊者のこの呼びかけに応じたのは、お釈迦さまだった。焦る尊者「恐れ多くも全ての善と功徳を身につけられた仏陀、これ以上の善は必要ないのではありませぬか」。
対して釈尊は「世の中で、私以上に功徳を求めることを心がける者はいないであろうよ」と言い、糸を通されたという。
いつも信徒祈願ばかりなので先日、それを交えずに寺と家族の事だけで某尊の護摩を修した。行じていると、ふと思い浮かんできた。「そういえばT大僧正からはいつも護摩木を貰ったなァ」「易の某師からは築地の色々なモノを頂いたなァ」そして、唐突に上述の阿那律尊者の話も。
一体何の脈絡?と思いながら行法していて、ハッ!と気づいた。単に贈り物じゃなくて、私への布施だったんだ!と。
私(副住職)が風呂敷護摩を授かったT大僧正は、頻繁に護摩木をお送りくださった。高級和紙の杉原紙を作っている檀家さんが「和尚の毎日の護摩に使って欲しい」と奉納された、和紙製造で出るキレイに剥けた木。それを私にもお届けされた。易の大家であられた某師は、東京のど真ん中にお住まいで、時々に築地の幸をお送りくださった。
どちらも私が学ばせてもらっている立場なのに、申し訳ないなァ、ありがたく頂戴します、と思ってきた。が、いきなり浮かんできた阿那律尊者の話。
T大僧正は法を授けた私に、未熟ながら毎日その法を行じる私に護摩木という布施を通じて、ご自身も功徳を積まれようとしておられたのだ。易の某師も私が僧侶であるのは存じておられた。私への励ましとされながら、どこか功徳積みを期待されておられたのかもしれない。と、涙があふれてきた。
成仏に至るに必ず修さねばならない「六波羅蜜」という修行の筆頭に「布施」がある。喜捨。修行僧に施しを行なうことだ。執着を捨て、善を積む行。
釈尊はその功徳を至る所で強調されている。地獄に堕ちているお母さんを救う方法を示し給えという弟子に【夏安居に多くの修行僧に多くの食事を施しなさい】と言った話はご存じ、盂蘭盆の由来。町に現れた餓鬼を救う方法を問われるに【修行僧に布施して、餓鬼の名を指名せよ】と申された話は施餓鬼の根拠。坊さんのつける袈裟が田んぼをモチーフに作られているのは、それを身につける修行僧は福田であり、そこに施した者が功徳という収穫を得る、と示されたのも釈尊。
労働厳禁であった僧侶には生活し修行を続ける糧を得、在家にはその修行の功徳をおすそ分け頂く権利を得る。出した側も出された側もウインウインというのがその性質。それが制度化されたのが檀家。布施はつぶさには「ダーナ、檀波羅蜜」という。檀家の檀は「布施」。夫の「旦那」もこれに由来すると云々。
そうして寺に出入りして修行僧の生活を支え、功徳を積んだ人に与えられた名号を信士/信女という。いまでは安戒名として扱われているが、本来からするとこの戒名号すら「おこがましい」人が、ほとんどだろう。ちなみにお釈迦さまが示される功徳対象は、仏と「修行する」僧、である。少量の布施しか出来ない人は、自ら坊さんを選んで布施したという。制度化された檀家では、寺も僧侶も選べませんけどね・・
話が脱線した、戻る。
今時の人は「功徳」と言っても何だそれ?であろう。スピリチュアルな人がカルマだの言えば意識するのかもね。我らが生きる中に出会い負う、因縁や業を浄めて、より善き境涯へ向かうための善業力。悟りを得た釈尊ですら、尚も求めてやまないものだと申された。苦しみの境地を転換するに、退転なき喜楽を獲得するために、何としても必要な力用。それを手っ取り早く得るとして示された方法が、修行する僧侶への「布施」。
功徳なんてそんな目に見えぬもの、と思うかも。だが、空いた所に流れ込むのはエネルギーの法則。新たなるものを手に入れるには、手元の何かを捨てねばならない。廻らない人はこのことを忘れている、とは往々に感じる。自身の事にすら出し惜しむ者に、誰が手を差し伸べるというのか。
T大僧正が、取り立てて何もない拙僧如きにせっせと護摩木をお送りくださったのは、若輩ながら護摩行に勤しむ私への布施にして、釈尊が弟子阿那律にされて求められたのと同じこと、と気づかされた衝撃。名刹の住職にして、地位も名声も人望も弟子もお金も全てを手にされておられる御人にして、かくの如し。釈尊に然り、功徳の力用を真に知る御人はそうされるのだろう。得るばかり求めて施すを知らずんば、苦の娑婆の底は想う以上に深いぞ、と言われているようですらある。
その恩に報いる功徳となるほどの行を私が為し得たかは不明だが、故人となられたこのお二方は盆彼岸には卒塔婆を建てて(自分の寺ですがもちろん回向料を出して)回向している。ささやかであるが、それが布施していただいた私から、今度は冥界でも活躍されておられるであろうお二方へのお布施である。
龍王出現⁉
先日の風呂敷護摩、掲示用に写真記事をプリントしていてふと、気が付きました。
コレって難陀竜王、現れているじゃん⁉
写真は先日のお知らせに載せておりますが、分かりやすくして再掲。
難陀竜王とは、八大竜王の筆頭。仏法守護の龍神として単独でも仏典に登場。
仏像では、王冠唐服にサンゴ盤を持って頭上に龍を頂く姿で現されますが、このお護摩の炎は全くのソレです!
※ちなみに八大竜王を一尊で祀る時も、この難陀竜王の姿を用います・・八大竜王なのかも。
それだけではありません!
なんと、こちらの写真には、不動明王の梵字(カンマン/写真左)が現れています!
太元帥明王のお護摩ですが、一山本尊の波切不動も勧請して修しましたので、お不動さんが現れるのは不思議じゃないのですが・・それにつけてもこの顕現の激しさったら!
ただ、太元帥明王の眷属に「龍王」とは、ちょっと聞かないのです。しかし、以前にも写真掲載の通り、太元堂では龍神や倶利伽羅竜王も出現しております。どういう繋がりか不明ですが・・
※お不動さんには倶利伽羅とかアノクダツ童子とか龍も関係しますけどね。
でも、竜王が出現する所は、魔が恐怖退散するとか空間が浄化されると言いますし、龍は如意宝珠(このブログ初回参照)を持して甘露を降らすとされますので、誠にありがたい祥瑞!
おまけに法要後はこんな写真が撮れました。
すがすがしくもこちらは鳳凰のよう⁉
太元帥尊は前にも記しましたように「人」を選びますし、龍王はむやみに人が集う所は嫌うといいます。
※数日前に近隣だけでもPRとフェイスブック広告を申請しましたら却下、その後に一転承認・・?止めて、どういうことかとの問いにfacebookからの返答は【当方の手違いで却下としてしまいご迷惑をおかけしました】。どうやら、宣伝するな、が正解だったようです。
万障繰り合わせて、そして精進潔斎された方々だけお参りされたことで、本尊と諸仏神がお喜びになられた現れなのかもしれません。
本尊ご開帳と不共の加持に加えて、このような望んでも会い難い、神霊顕現の善処に参拝された皆さまには、本当に幸いであられたと存じます。息災と福力の発揮をお祈りします。
そういえば、太元堂から見える山に、南昌山があります。
この山は坂上田村麻呂の時代から、龍神伝説を有する山なんだとか。お寺から見える所に龍神のお山があるのと、当山別院に折々の龍神出現は、なにか感応する所があるのかもしれない。いつか登山してみたいですね。ついでに「矢巾南昌山」の名をつけられた小惑星があるらしいですw