寺ブログ by副住職
あなたの知らない、けど知れちゃう世界~
夏といえば心霊番組、は今は昔のようですね・・
まあ、いかにも胡散臭いモノもありましたから、コンプラバカな今時にはムリなコンテンツになってしまったのも時代でしょうけれども。
でも、見えざる存在への畏敬というものを欠く、一端となっている気もしてそこは残念な気もします。見えないだけで、そういう影響まで失せるわけではないですから。
そこで盆月にそういう話をしないでしまうのも何ですから【見えざれど存在する実例】を、些かお話ししましょう。
当山では「鳴り護摩」という、修法も行ないます。経験されている方々はご承知の通り、祈祷で釜から音を鳴らすのですが、邪気や不浄がある場では音が止まる、祓うとまた鳴る。という、その場に参列している人にも不思議かつ目に見えるお祓い、です。
出張祈祷には基本コレを用います。すると時折、異様な事態に出くわします。
******
ある家のお祓い、ハンガーにかかっている洋服で鳴りが止まる。そういうことは往々にありますが、この服なんか強いね、と。するとその人は何か気付いたように「コレもお願いできますか」と数着集めてきて。かけてみるとその全てが止まる。その他の服は鳴るのに(((;゚Д゚))
すると「この服、すべて同じ知人から頂いたモノなんです・・」まだタグが付いた未着服までこの有様。震え上がったこの人は、全部処分したそう。他にも止まるような服には、※※や※※という事情があったりする。
また、なかなか祓えない場所などは、その周囲にあるこだわりが窺える建具や置物などをお加持すると、祓えたりもあります。聞くと、旦那が中古屋で一目ぼれで買ってきたとか、親が執着するお気に入りだった、など・・
*******
お祓いを頼まれた中古物件、状態はとても良く立派、前住者の凄いコダワリが窺える邸宅。しかし至る所で釜が止まる。ほとんどが「特注と思しき建具」の場所。いずれもなかなか手強く難儀・・これらは全部捨てて替えた方がイイね、後は大丈夫でしょう、と。
リフォームの構築鑑定もされて、リフォーム後にもう一度お祓いをとのご依頼。前回撤去を指示した建具は全て入れ替え。果たして、まるでリゾートホテルの部屋のように改装なったそのお宅の鳴り護摩は、ズバッと爽快に全居に響きました。
******
車をぶつけられた人、それ以来家族から見ても何か変だという。個別のお祓いをご依頼されたので、常にはお護摩ですが感じる所があって鳴り護摩で。
釜を車に入れると、助手席で完全に止まってしまった。通行人や信号待ちの車の衆目に晒されながら加持を行なうこと10分か20分か・・なんとか祓い切った。その後はご本人の様子も復調されたそう。
ぶつかった折に、何かが飛び込んできて、ずっと助手席に座っていたのでしょう・・
*******
仕事と場所柄、死霊が入り込んだね、の家。案の定、ソコは止まる。常の祓いではダメか、と思いつつも加持するがやはりダメ。
仕方がない、と※※を用いてみると立ちどころにソレは去り。施主さんはその有り様にお不動さんの威力を見せられた、と驚かれ。
******
キリ無いのでこの位にしておきますが、言えることは【モノにも鬼霊は宿る】ということ。障りになってるということは、念を超えた鬼邪状態(((;゚Д゚)) また、やはりというか人形や鏡などは古来言い伝えるだけのことはあるな~、いつもと思わされます。
こういうのが身に染みてますから、個人的に私は古着や古美術など買いませんし基本、中古品屋にも行きません。他にも以前に※※業者の話なども聞いてますし~その仕事してるとアッ、これは;;と分かるそうで(◎_◎;)
せめて、中古品を用いるならふきとりで拭く位はしておくがイイですよ。中古品商売されてる人は今日はいませんけど時折、お祓いはしておかないとね。
それから、中古車や中古住宅は必ずお祓い必要ですよ。大きな買い物であり、身体や人生の一部であるも同然、残留するモノも強いものです。というか祓い切れないモノもありますから、そういうのは買う前に先ず鑑定。それが賢く災いを避けるやり方。
そして、鳴り護摩をしてつくづく気づかされることがあります。
それは【執着というものは、実体化して命を宿す】ということ。仏教がやりきり脱執着を説くのは、釈尊はコレを見抜いていたんだね~
また【生命というのは、あらゆる場所に、あらゆる形で存在している】ということ。
鋭い人はお気づきですね、そう、「三界万霊」なのです。盆供に参拝された人に話し、回向頂いた三界万霊とは、そういう存在も含んでのこと。陰に陽に吉に凶に蠢くそういうモノたちへの施し。然ればそれが廻って功徳力となる意は、なんとなくお分かりでしょう。
見えないものを侮っては、人生に大きな損失だ、というのはそういう訳です。参拝の皆様には自明でありますが。
しかし、他寺様の法会に手伝いにいっても子や孫を連れて来てる人などほぼ皆無、それが今時らしい。若い人が見えざる存在に触れる機会を、ジジババ大人が奪っている。それは、若い世代の生きざまに大きな損失となりましょう。盆供にお子さん同伴で参拝された方々は、賢明な御人ですヨ。
次の世代を案じるなら、盆や彼岸という機会にはどうか若い世代も伴なって、ご先祖さんも通して冥界という存在に触れさせて頂きたいものです。それは彼らの為だけでなく、ご自身の後生安堵の保険でもありますよ。
※8月28日の法話の部分掲載
約束
3~4か月ぶりくらいでお参りされた人。
どうなってました?と聞くと、
願掛け祈祷していた案件は一旦、叶った状態になったという。が、その後しばらくして元の木阿弥に、と。
そして急に発症した病は、病院に通っているが治るどころかますます酷い有様に。
この人は、とある祈願をしていました。キツい祈祷なので貴方自身も月に一度はお参りをするように、と約束しての願掛け。
難しい案件でしたが、話によると、思いがけない外部の働きかけで事態が急にその向きに展開。
そして念願叶った、としばらく安堵していた所が、徐々に不穏な感じが戻ってきて元の木阿弥に。
こういう話を聞くと、月参りの約束破って罰が当たったとか、嘘ついた咎めを受けた、と考える人が多いでしょう。
でも、それは違うと思うのです。
何のことは無い。約束を破ったから、仏の加護から除外されてしまった。
祈願や供養に対する約束事を破ったところで、当山ではそれを一々咎めることなどしません。
所詮その程度の人なのね~と認識するだけ。
ですが【祈願供養に関わる約束事】とは、私ら寺の者との約束以上に【当山の仏さん方との約束】なのです。
ソコを忘れちゃならない。
本尊となる仏さまは、そういう人間の業に一々左右されることなどありません。
ですが、本尊は大将であって現場で動くのは眷属。験力の実働部隊は諸天や鬼神の類です。
人に近い感情を持つ眷属らが、祈願者のそういう身勝手を許すかどうかは、別問題。
寺の者が何も言わないから、と忘れた振りをしても、貴方の為に働いた仏の眷属衆は、その約束を忘れなどしませんよ。
願掛けとはそういう事。そして願解き=お礼参りが要るのもそういうワケ。自身がその働いた眷属の立場だったら、と考えたら、祈りのかけっぱなしなんて出来ないはずですけどね~
この人の場合、仏の加護から除外されたことは露骨でした。
叶ったはずの願いは失われ/原因不明な疾病を患って悪化進行中/買った中古車のお祓いを求められましたが、どう占断しても事故車、すぐに買い替えるように、と。願いが形となった途端に願解き(お礼参り)もせず、月参りも止めた3~4か月の内にこの有り様・・
普段、いかに護られていたか、という事です。
無事息災に過ごせているということは、当たり前なことではない。
殊に、障りに関わってしまっている人には、神仏の加護があっての生活、という人もあるに違いありません。
楽しい事ばかりじゃない、苦しい事も少なくない日々であっても、その日々を有り難いと思えているか。
見えなくとも、貴方を取り巻く存在に感謝できているか、ケジメはつけているか。
そういう感覚は、仏神の加護や運を左右する原点、ですねと再認識でした。
ついでに、その病は花巻に来たついでに〇〇クリニックに行け、と当山帰りに受診した所、今処方されている薬を全て止めて様子を見ろ、と言われて、それで快癒したそう。しばらくぶりのお祓いも功を奏したかもね。
タイトルに悩みすぎ;
お護摩を焚くというのは、傍目以上に周辺物品の消耗が激しいです・・お経だけ唱えている寺には存在しない、出費が。
このド不景気と物価高騰で苦しんでるのは皆さんだけじゃない、拙寺も同じ( ;∀;) も~グチになるから書きませんけど。
でも一寸だけ・・護摩木も塔婆も2 年連続で原価値上げ、送料も値上げと来た;住職判断でとりあえず【盆供も護摩木も据え置き】としましたが、正直キツイ。
当山の護摩木はヒノキを使っています。護摩木として一般的なスギにすれば原価は下がりますが、ハネやすいので壇も内陣も狭い当山では危険すぎ。【供養物】でもありますから質を落とすってのも・・せめて日々焚くに要る分量くらい申し込みがあると助かるんですが;
不足をすぐに仏具屋を呼んで買えるお寺はイイですが、檀家なき祈祷寺は、可能な事は自力でやるっきゃない(^^;
散杖。水を灌ぐ棒。護摩壇で毎日使っていると、折れたり焼けたりで時々交換。
乾燥させておいた梅の枝。曲がりを矯正します。
が、これが半端なく堅い!
クソ暑く湿度の高い中ですが、ファンヒーターで温めながら曲げ続け。
真っすぐなったら、節を削る。が、これまたとんでもない堅さ!彫刻刀で攻め。
そして変色した表皮を削ります。
最後に、流派別の加工を施して完成!
ちなみに市販品を買えば一本3000~15000円(;'∀') これ、密教寺院相手に商売した方がイイんじゃねww
破れた袈裟の修理。
どういう訳か、紋白はやたらと糸が細く破れやすい・・
昔、普段使いにしていたことがありましたが、すぐボロボロなって挙句衣屋は「修理できない」って。
それ以降、普段使いには簡素で頑丈な袈裟を用いています。
破れたら新しいものを!ってさ、簡単に買えないお値段だよ・・檀家らに買わせる前提だよねェ;
まあ、糞掃衣が本義ですから、自分が糸通して修復してやっと本物になるのかもと、思ったりしつつ。もう、糸二重にしてガッチリ縫う!
で、袈裟を布施したり直したりするのは積善功徳になると申しますが、コレって己の福田に己で功徳積んだことになるのかしら?
仏教の一つの捉え方としては、僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もあるので。
いや、春先に本堂用お参り椅子10脚をご奉納くださった御人がおられますが、こういう人は稀でして。
功徳を積ませて欲しいなんて人は、今時ほぼお目にかかりませんから、気にすることじゃないか(失笑
って、書いててなんか哀しくなってきた・・。
まあ、一部の上級国民を除いては、厳しく苦しい世情であるのは皆同じということ。こういう時代に生きねばならぬのも私達の業でしかない。
そういう時代の業に飲まれ流されるまま行くか、信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行くか。
経費高騰で毎日の寺護摩も厳しい状況となってきていますが、こんな世情だからこそ【信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行く】人には、何としても霊験と救いを与えて頂かねばならぬので、祈る部分はケチらずに、その他削れる所は自力でなんとかしているワケです。
苦しい時こそ、人の本性が表れると申します。何を取り、何を捨てるか、の選択が迫られる生活ですが、肝心な事や心は捨ててしまわぬよう、貧すれば鈍すとならぬよう、この夏は意識したいものです。
飯の食い方でバレる⁉
ご飯食べた後、なんて言いますか?
・・「ごちそうさま」
当然だと思っていましたが、ネット上ではそのコトでちょっとザワツキがあったようです。
問題はツイッター(9年前に投稿されたものが何故今?ですが)で、【牛丼屋で、所得の低そうな人ほど、食べ終わった後に店員にごちそうさまを言う】という趣旨。
これに様々な意見の応酬があったようですが、2ちゃんねる創業者のひろゆき氏が「収入億超えてるけど低所得なのかな?」と次いでXjapanのyoshiki氏が「ごちそうさまって言います・・収入億あるけど」と反応して、趨勢は決したようなもの。
これは「所得」の問題ではなく、「育ち」の問題(笑
近年のyoshikiは上品になり過ぎて・・30年以上ファンやってる身としては;いや天皇即位曲作ったりしてるし、ヘビメタの中の上品さがウリだし、呉服屋の息子だからいただきます言うのもyoshikiっぽいが、昔の過激さは~やれる歳でもないか~
そもそも「いただきます/ごちそうさま」ってどういう意味か、ご存じですか?
いただきますは「命を頂きます」なんです。
私らが食べているものは全て「他の生命」です。動物は言うに及ばず、植物だって生き物でしょう。他の命を喰らわねば生きられないのが、私たちの宿命。化学合成で出来た食材などもありますが、そればかり食っていたら健康など保てやしないのは自明。他の命を食らうことで、我々は生かされている。
「いただきます」とは、その事へのねぎらいと思いを呼び起こす言葉。
では「ごちそうさま」とは?
ごちそうは「御馳走」。日本史をされている人ならお気づきですね。馳走とは「供応の為に走り回る事」、料理をするためにあちこちを走り回って手間をかけること。
おにぎり一つとってもそれが食卓に出て来るまでには、配膳する人がいて、握る人がいて、ご飯を炊く人、食材を加工する人、運搬する人、調達する人、売る人、生産する人、生産者の材料や機材を作る人売る人etc・・と、どこまでも際限ない人の手がかかっている。今それを口にすることが出来るのは、天地の恵みと数多の人々の手を経てこそのコト。
※密教で言う四恩の衆生恩とか三力の法界力もコレに準じると分かりやすいかな。
食べ物が貴方の口に入るのは「自然なこと」じゃないのです。限りない手間をかけて、最終的にはお母さんお父さん/飲食店員の手で貴方の為に誂えられたもの。その事への感謝が「ごちそうさま」の一言。
食材とその提供への手間に感謝を込めるのが、いただきます/ごちそうさま。
そして、このように食事に感謝とを込めるのは、人の人たる道でもあると思うのです。
と言いますのは、食事にかくも敬意を想うのは「動物の中で人間だけ」ですから。食を【エサ】としか認識できない他のアニマルとホモサピエンスの決定的な差の一点は、ここにある気がします。
つまり「いただきます/ごちそうさま」は、人間としての「育ちと品格」が表れる言葉。
ちなみに仏教では、いただきますに相当する、食事の前に唱える文があります。五観偈として有名なのでご存じの人もおられるでしょうけれど、軽く紹介しますね。※宗派によって若干異なりあり
1 功の多少を計り 彼の来所を量れ
2 己が徳行の全か欠か 多か減かを忖れ
3 心を防ぎ過を表すは 三毒に過ぎず
4 正しく良薬を事とし 形苦を救わんことを取れ
5 道業を成ぜんが為なり 世法は意に非ず
堅苦しい文章なので、分かりやすく私訳しますと、
1 この食事にどれだけの命や手間がかかってるかを想え
2 この食事を頂くだけの価値が自分にあるか考えよ
3 少ないのマズいの無作法と煩悩をたぎらすな
4 身体を保つために頂くという分際を忘れるな
5 目指す所に励む為に食うのだ、世間体とかダラダラ生きる為じゃない
思いますに「いただきます/ごちそうさま」の言葉には、この五観が濃縮されていますね。これほどの感謝と自戒がこもっている、と思えば、いただきます/ごちそうさまの一言は、人として如何に重みをもつ言葉か、と思います・・
以前に「給食費を払っているのにいただきますなど言わせるとは何事だ!」と怒鳴り込んだアホ親のニュースがありましたが、今や、公共の場で食材を穢してネットにアップするバカ共がワンサ;食事に対する感謝と敬意が躾されていたら、こんな真似はやらないはず。食を蔑ろにしたサルみたいな躾のツケは検挙と巨額の賠償金。しっかり懲りるがいい。食の持つ重みを侮った報いだ。
習慣は言って聞かせたからと、身に付くものではありません。見るように慣れるのです。そして慣れるように慣れる。親たちが率先していつもやっていれば、それが当たり前になります。五観偈は行中でもなければ普段は唱えてませんけど、思い出すとスラスラ出てきて我ながらビックリ。身に付くとはそういう事でしょうね。
子供たちが外に出て、そういう挨拶が自然に出来ているかどうか、で、見られるのはその親の質です。そしてその子の品格です。
先ず隗より始めよ、ご自身は出来ているか、そしてお子さんお孫さんに見せているか、意識されてみてください。
挨拶なんて減るもんじゃない。食事の言葉、感謝の言葉、ねぎらいの言葉、日常に発していれば食べるものからも関わる環境からも、更なる恩恵が受けられるに違いありません。それこそ貴方に加えられる法界力です。
※6/28の法話を整理したもの。先にこう文章に整理してから話せって毎度;
魔所
前回の水死霊の記事は、先日御礼参りの話をたまたま記しただけであったが、その日、皆さんもご存じの通り水難事故のニュースが相次いだ。
アメリカではタイタニックを観光の潜水艇不明、日本では沖縄でスキューバダイビングの7人が一時行方不明と。
沖縄の事故は幸いに全員無事で済んだとのことだったが、続けて次のニュースは「ヘリ墜落殉死自衛官の合同葬儀が行われた」。何とも言われぬものを感じたのは私だけではあるまい。
そう、陸自ヘリが沖縄海上で墜落して10人死亡4人は未だ見つからず、の件だ。
スキューバの一行は気にもかけなかっただろうが、沖縄の海に10人が散って発見すらされぬ隊員がいる、その葬儀の日に沖縄の海でダイビングに興じて遭難するという・・
タイタニック遊覧事故。米海軍が実は連絡遮断直後に爆発音を感知していた、と悲劇で幕が下りた。深海4000mに眠るその船を見に行くツアーがあるとは驚いたが・・
報道では、以前に安全性に疑問を呈した従業員がクビになった、からの、ルール違反をした/やってはならぬカーボンで製造した/ルール違反をする者こそ歴史に名が残る云々と、CEO自ら神経を疑う発言をしているようで・・寸部の狂いも命取りになるという観点自体を欠いた潜水艇であったかもしれぬ。
それはそうとして、私的には「タイタニックを観光ツアー」という神経自体が理解できない。
そこは、自分が死ぬことになるなど微塵も思いもしなかったセレブら1500人が、怨嗟のなかで死んでいった墓場だ。死ぬ覚悟が出来ていた軍人軍艦どころではない「恨念」が強く残っているであろう「魔所」だ。
たとえ慰霊や調査という目的であっても、リスクの方が遥かに大きいと思う。それを【観光】とは・・
海の藻屑と消えた1500人のセレブの残骸を、3500万円かけて観光に行ったセレブの果て。潜水艇操縦士の妻は、タイタニック号乗客で最後まで船に残り海に沈み、映画タイタニックの中でもモデルになった犠牲者の夫妻の子孫であったという。これがただの偶然、と思う人など果たしてどれ程いるのだろうか・・
爆縮というそうだ。凄まじい水圧で一瞬に潰れてしまうらしい。水死は断末魔の苦しみが激しいという。一瞬死ならその苦は無いかもしれぬが、自身が死んだ認識も無いのではないか。あまりに深く暗すぎる深海で肉体を喪ったその魂は、どこへ行くのだろうか・・
とっくに爆縮していた時間以降に、30分おきにキャッチしたという「船体を叩くような音」とは何だったのだろうか・・
【魔所】は存在する。面白半分に踏み込んではならぬ場所はある。アナタの知らない世界のような番組が姿を消し、どこでもスマホが繋がる。日常からも畏れが消えたのでしょうかね。聖域やいわくつきの場所、また大勢が失われた地にも平気で土足で踏み込んでも、何とも思わないのかも。
ですが、こっちを見ている「向こう」は存在する。生き物にはテリトリーがある。見えないだけで神にも鬼霊にも。そこを忘れちゃいけない。
ついでにかつては【山中他界/海中他界】という言葉があった。山や海は【向こう側】が優勢な領域だ。そして前回ブログに記した通り。ことに、水に業苦を受けし霊魂など軽んじては危い。怖い話に触れたことがある皆さんなら、溺れかけた人の足に手形がついていた話など、幾度となく耳にされているはずだ。いくら大富豪だろうと冒険家だろうと、向こうには関係ない。
【触らぬ神に祟りなし】人として最低限の敬虔さは持っておきたいものだ、と思わされるニュースでした。
ついでに、潜水艇の名「タイタン」は、ギリシャ神話で「地底に封じられた巨人」のこととか云々・・この事故はどこまでも救いがなかった、魅入られてしまっていたのか、と世界中がため息をつくしかないのかもです・・