寺ブログ by副住職
彼岸の話② 美は正義だ!
②【妙色身如来】
餓鬼の姿は、仏教に触れた事のある人ならどこかで目にしたことがあるんじゃないかな、と思います・・が、お世辞にも普通に受け止められる姿じゃありません;
Ⓒ画像は記載のサイトから拝借
やせ細り骨と皮同然も腹だけは膨れ、喉は針の如く細く通らず、食おうとすると口から火が燃えてしまう。半端なく卑しく醜く、ひねくれている・・
①の仏により満ちる境地を知りて、仏へのステップを歩み出す・・も、普通に考えてこんな姿では仏には相応しくない;
そこで、仏に至るに相応しい姿形を与える。それがこの妙色身如来。
仏には、ふさわしい姿形が存在します。古くは32相80種好と呼ばれる体の特徴があげられ(これは常軌を逸しているのが多いですが、ここからも多様の仏が展開する一因)、大乗では種々の仏が登場してその姿も数多となりますが、そこには必ずどこか気品と慈愛と鋭さを持ち合わせます。
明王のような裸で暴悪相なる仏も黄金の瓔珞を身にまとい宝石や蓮華を座としますし、変化観音のような異形も化仏を戴いて仏変化であることを示しています。恐ろしく異様な姿でも、そこには仏たる証明が形としても、ある。
※それ言うなら、胎蔵曼荼羅最外院に死鬼衆が画かれているがそれも仏だろうとか、草木國土悉皆成仏って動植物や石ころだって仏なんでしょ?という人もいるかもしれませんが、それらは「仏種が含まれている」というだけであって、業によってそういう姿に展開しているモノを仏と呼べると言うには非ず、です。
仏になるには、器としての然るべき形が必要なのです。
と、ここで「ウチの先祖さんはふさわしい形してるのかな?」と思えた貴方は素晴らしい!
信徒さんには常々お話しているのですが、仏に成れないお位牌がやたらと多いようです・・それは白木のまま。
白木の位牌とは、仮位牌です。49日までは白木の位牌を用いる約束からも明白(今は白木にすら書かずに、紙を貼るようですが;)
どうして?・・49日までは早い話が浮遊霊扱いだから。ゆえに粗末な白木として、仏壇にも入れない。
そして49日を過ぎると、仏になったという扱いにします、実際はどうあれ(^^;
なので白木位牌から替えて、塗板に金で名前を刻んだ本位牌にする。
【塗板に金で名前を刻んだ本位牌】これで、仏にふさわしい身体、となる訳です。
ところが、その事が分かっていないだろうな~というお寺や人々が多すぎます・・塗板に作り直してから俄然仏壇を拝むようになったとか、家の流れが変わったという人も少なくありません。ご先祖がみすぼらしい格好をしているのに自分達を見守れなんて、都合良すぎな話;
気持ちだけで届いてる通じてるなんて嘘です。形ある世界に生きる私達には、形も重要なファクターなのです。
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以前読んだ、米国で仲良しグループを刑務官と囚人の2グループに分け、それぞれに刑務官と囚人の衣類と環境と位置づけを与えて人の行動の変化を見る、という心理学か何かの実験の話。
最初はふざけ合っていた彼らはだんだんと変化し、刑務官役は横柄に暴力を平然と振るうようになり、囚人役は怯え精神疾患を発症するようになり、実験は中止された、との旨でした。
中身にふさわしい器が要る。逆もまた然りで、器に見合ったように中身も変化するのです。弘法大師が、心と境(外見とか環境という器)はリンクし双方向に影響しあうものだ、と言う如くに。
だから、餓鬼の姿に仏は顕現出来ないのです。美しい魂を盛るには、美しい器が要るのです。
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また、大師の双方向リンクの言のように、逆もまた然り。
私は昭和男児ですから女性の感覚は知れませんが、バシッと化粧が決まった日は一日気持ちイイそうですね。上手くいった化粧やオシャレな服を着た時には、自分であって自分でない感覚ともなるそう。役者さんの記事などには、メイクをすると役に入り込むとか。
外見という器を操作することで、その彩った存在に我が魂を変化させることも出来るのが人間。一見過剰wwとも思えるオシャレをしている美容師や講師など、カリスマを目指すならその位は当たり前な心掛けなのかもしれません。そういう平凡を超えた美なるスタイルは他者を刺激し、自身をも変え、関わる世界が変わる。人格を陶冶するに美は欠かせないのです。
近頃はミスコンなど差別、ナチュラルでみんないい、美醜を取り上げるなんてハラスメント的な風潮が強いようですが・・ ネットでは詐欺メイクと呼ばれる、整形手術並みのメイク動画が賑わしているようですが、爆笑から~最後は感嘆してしまうレベル・・あれじゃ人生変わりますわな(笑。美しいものは美しい、作り上げたものだろうとイイじゃんね、と思えます。好嫌の感覚は別としてね。
生活に追われていますと、なりふり構わず目の前の事で一杯です。ですがそれじゃ、業に流されるま者の生き方から抜けられない。私の人生はこんなもんじゃ済まさない!と思うなら、手っ取り早いのは、成りたい美しい器を自身に作るコト。
ここは女性だったらメイクですぐ出来る! また、華やかな服を着る!
また、自分は似合うと思っていても、他人から見たらトンチンカンということも多分にあるものですww
ですから、カワトクの化粧品売り場でメイクしてもらう!
センスのいい、ちょっと冒険してくれる美容院に行く!自分で髪を切るとか論外!
服屋に行ったら「自分にどれ似合いますかね?」と聞く!
自分に嫉妬しない他人の意見、ってのは、新しい自分を展開するのに欠かせませんよ。
そうやって、美しい器に飛び込む!美しい環境に飛び込んでいく。
お客さんの中には、ちゃんとお化粧すればスゴい綺麗になるでしょうに~/ビシッと決めれば人目を引くでしょうに~と思う人も少なくありません、埋もれてる必要ないのにね、勿体ない・・
美しい身姿を意識し努めるのはなにも恥ずかしい事ではないヨ、それは今までを乗り越える生き方へのステップでもあるよ、格好をなめんなよ、理想に寄せていけ!と妙色身如来は気づかせてくれる気がします。
とか偉そうなこと書きながら、オシャレ美容に全く無頓着で来た自身はどうだ_| ̄|○・・中年オヤジ今更から転換できる⁉
彼岸の話① 金持ち喧嘩せず、のマネ!
施餓鬼五如来のお話①
何故、施餓鬼の五如来か?当山では秋彼岸は特に行事は設けておりませんが、ご希望の信徒さんを対象に彼岸中一週間の施餓鬼を行ない、施主さんにも可能な範囲でご自宅でお勤めをしていただく、簡単ですが仏道行に同行していただく機会としております。
施餓鬼とは、書き出せばもう長くなるので当サイト内の記事をご覧いただくとして、この施餓鬼には独特の仏さん方が餓鬼の救い手として勧請されます。それが五如来です。
施餓鬼の時だけ登場する仏さんなので、坊さんにも普段は全く意識の外とされてしまいがちですが・・
この仏の働きをよく見て考えますと、そこには餓鬼という彷徨える霊魂を救い上げるだけあって、私達が苦を逃れて豊かさを得る術が説かれているように思うのです・・そういう解説には出会ったことがありませんけど。
そこで、当山では在家の方にも仏道行に触れて頂く彼岸に、用いている施餓鬼からお話ししましょう。殊に施餓鬼の施主様には知って頂き、一層の功徳利益ありますように。
☆第一【過去宝勝如来】
施餓鬼五如来とは、金剛界曼荼羅の五仏が餓鬼道を救う為に変じた姿とされています。その筆頭が【過去宝勝如来】。
餓鬼とは、飢渇に悶える死霊と思ってもらっていい。この飢渇はどこまでも絶え間ないから、ひたすらくれ、くれ、の貪欲の塊。
そそ、三毒煩悩ってなんでしたっけ?・・貪、瞋、痴ですね。
貪りは怒りを生み↓
怒りは愚かさを生む↓
ので、貪欲は諸毒の根源。
濁世にがんじがらめの者を救い上げようとしても、境地とは心の反映でもありますから、まず悪趣なる心身の有り様を改善せねば引き上げなど叶わない。
そこで、過去宝勝如来。
この宝部の仏は富貴円満の徳を持ちます。飢え苦しみもがく者に、高尚な話など聞く耳持たずですよね。
先ずは、満てる感覚を与えてやる。
豊かな仏という示唆は、与えることをつかさどる意。
でも、仏教は与えるだけで良し/もらうだけで良し、とはしません。与えられたら次は与える、これがセットになっています。つまり、布施行です。
そもそも人というのは、行きつけば「自分が得るだけで満足」とはならない生き物。満ちる感覚には「他者へのやりがい」も欠かせない。ボランティアなんてのはそこを突いたいい例でしょう。
与えられ与えるというのが、人が満ちる本質。しかし、それは余裕が出来て知る感覚。苦しい欲しいばかりの内には思いなど至りません。だから「行」として課す、目覚めるように。
仏道には、六波羅蜜も四摂も筆頭には布施が配置されます。欲しい欲しいの貪欲を壊すには、手放すことを知らしめる。
そのことで貪欲とそこから生じる物惜しみ心を退治する。すると「諸毒の根源を退治」するのですから、仏への境地が一気に開けてくる、というわけです。
まあ「金持ち喧嘩せず」を真似しろ、ですね(^^;
富貴豊かな仏が布施行をつかさどるという示唆は、快く施せる人ってのは余裕がある意の裏返し。
行為と業はリンクしますから、
逆に、施すことで自身に「余裕がある人」という徳を形成することになる!
金持ちになりたいなら、先ず金持ちの習慣を/行動を真似しろ、と言いますよねww。
救われたいなら先ず仏の真似、仏への第一歩となる布施を能所で行なわせる。それがこの如来。
前にブログに「仏教の一つの捉え方としては、僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もある」と記しましたが、お一人からだけ反応がありました。「お釈迦さまが托鉢するのに、あえて貧しい村ばかりを歩いていた、とはそういう事なんですね」と。その通り。
苦しむ環境=業を持つ人達にこそ、布施の行ないをさせて、その境地から脱する一助にする、それが釈迦の狙い。布施を得る視点で見れば王族貴族のトコだけ行けば楽なのに、高貴裕福な人には頼まれた時しか行かなかったという・・
行為には業が伴いますから、布施の行動とは僅かながらも仏の業、そして余裕ある富者の業を得ることになるのです。
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そしてまた、布施という視点でつくづく思いますのは「惜しいモノを手放すという行為の強烈さ」です。
節ごとに衣類の整理や部屋の掃除する際、使っていない品でもイザ捨てるとなると、自分に言い訳して躊躇しませんか?
親の終活にゴミ部屋状態を片付けようとして激怒されて手が付けられない、という話も随分多いようです・・
それほど人間にとってモノを手放すというのは「日常を壊されるほどの恐怖」を伴う、ということ。
逆に言えば、その恐怖を乗り越えて手放すことが出来れば、ありきたりの日常を壊し、新しい日常を開く転換を得ること、ではないか!と。
思いますに、釈尊は約束されていた次期国王の座と酒池肉林の生活と妻子の全てを放棄して、山林修行に身を投じました。
弘法大師は、一級の頭脳と家系を持つ者しか入学が許されない都の最高学府の学籍と、約束されていた高級官僚の道を放棄して、山林修行に身を投じました。
約束された安定を捨てて修行に飛び込んだお二人が、古今東西を超えて尊崇される超人になったのはご存じの通り。
惜しいものを手放すエネルギーというのは、私達の想い以上に、新しい日常を切り開く力を持つのです、きっと。
されば、ちょっと前に流行った断捨離。ハマって生き方が変わったという人も結構いたらしいですが、それもゆえ有るコトかなと。
すなわち、布施の本質の部分は「業に流されるままの人生を打ち破るパワーを発揮させる」そんな所にあるのではないか、とも思うのです。仏教で筆頭とされる教えと言うのもそれゆえ・・
・・こんな解説は他で耳にしたことが無いので、私の独りよがりの確信かもですが(^^;
布施の話にまで踏み込んで長くなり過ぎました;まとめましょう。
☆惜しいを手放すというのはなかなか難しいアクションである一方、難しいからこそ、やれた変化は己の殻を打ち破る大きなものとなる。
☆惜しいモノを快く手放すというのは「豊かだから出来る」行ない=それを行なうことで「豊かだから出来た」という業を手にする逆手もある。
もっとも、施す対象が、善意に付け入ろうとするズルい輩とかくだらぬ者とか新興宗教や、自身を蔑ろにして行なう施しでは、ゴミに捨てた方がマシ、ってなりますから、よくよく見極めるのは大切ですけどね。
世の中も仏道も、一方通行ではありません。押してダメなら引いてみる、形から入ってみる、出来ぬ者には真似をさせる、すでに出来ている前提で動いてみる、自分を捨てるのでなく自身の代わりを捨ててみる。出来ないと決めつけず、ものごとを動かすとはそういうこと。
苦しいと言いながらそれに執着する自分をムリヤリにでも手放せ、強く善く豊かな者のマネをしろ・・どん底を打ち破るファーストステップ、それがこの仏の神髄であろうかと。
最後に、私が霊符の伝授を受けた際の阿闍梨さまの言葉「与えなければ、与えてもらえない」「与えずして得たモノは必ず奪われる」「まず、与えることが優先だ」世の中とはそのように出来ている、と。「与えた者は、与えられる」のです。
あなたの知らない、けど知れちゃう世界~
夏といえば心霊番組、は今は昔のようですね・・
まあ、いかにも胡散臭いモノもありましたから、コンプラバカな今時にはムリなコンテンツになってしまったのも時代でしょうけれども。
でも、見えざる存在への畏敬というものを欠く、一端となっている気もしてそこは残念な気もします。見えないだけで、そういう影響まで失せるわけではないですから。
そこで盆月にそういう話をしないでしまうのも何ですから【見えざれど存在する実例】を、些かお話ししましょう。
当山では「鳴り護摩」という、修法も行ないます。経験されている方々はご承知の通り、祈祷で釜から音を鳴らすのですが、邪気や不浄がある場では音が止まる、祓うとまた鳴る。という、その場に参列している人にも不思議かつ目に見えるお祓い、です。
出張祈祷には基本コレを用います。すると時折、異様な事態に出くわします。
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ある家のお祓い、ハンガーにかかっている洋服で鳴りが止まる。そういうことは往々にありますが、この服なんか強いね、と。するとその人は何か気付いたように「コレもお願いできますか」と数着集めてきて。かけてみるとその全てが止まる。その他の服は鳴るのに(((;゚Д゚))
すると「この服、すべて同じ知人から頂いたモノなんです・・」まだタグが付いた未着服までこの有様。震え上がったこの人は、全部処分したそう。他にも止まるような服には、※※や※※という事情があったりする。
また、なかなか祓えない場所などは、その周囲にあるこだわりが窺える建具や置物などをお加持すると、祓えたりもあります。聞くと、旦那が中古屋で一目ぼれで買ってきたとか、親が執着するお気に入りだった、など・・
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お祓いを頼まれた中古物件、状態はとても良く立派、前住者の凄いコダワリが窺える邸宅。しかし至る所で釜が止まる。ほとんどが「特注と思しき建具」の場所。いずれもなかなか手強く難儀・・これらは全部捨てて替えた方がイイね、後は大丈夫でしょう、と。
リフォームの構築鑑定もされて、リフォーム後にもう一度お祓いをとのご依頼。前回撤去を指示した建具は全て入れ替え。果たして、まるでリゾートホテルの部屋のように改装なったそのお宅の鳴り護摩は、ズバッと爽快に全居に響きました。
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車をぶつけられた人、それ以来家族から見ても何か変だという。個別のお祓いをご依頼されたので、常にはお護摩ですが感じる所があって鳴り護摩で。
釜を車に入れると、助手席で完全に止まってしまった。通行人や信号待ちの車の衆目に晒されながら加持を行なうこと10分か20分か・・なんとか祓い切った。その後はご本人の様子も復調されたそう。
ぶつかった折に、何かが飛び込んできて、ずっと助手席に座っていたのでしょう・・
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仕事と場所柄、死霊が入り込んだね、の家。案の定、ソコは止まる。常の祓いではダメか、と思いつつも加持するがやはりダメ。
仕方がない、と※※を用いてみると立ちどころにソレは去り。施主さんはその有り様にお不動さんの威力を見せられた、と驚かれ。
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キリ無いのでこの位にしておきますが、言えることは【モノにも鬼霊は宿る】ということ。障りになってるということは、念を超えた鬼邪状態(((;゚Д゚)) また、やはりというか人形や鏡などは古来言い伝えるだけのことはあるな~、いつもと思わされます。
こういうのが身に染みてますから、個人的に私は古着や古美術など買いませんし基本、中古品屋にも行きません。他にも以前に※※業者の話なども聞いてますし~その仕事してるとアッ、これは;;と分かるそうで(◎_◎;)
せめて、中古品を用いるならふきとりで拭く位はしておくがイイですよ。中古品商売されてる人は今日はいませんけど時折、お祓いはしておかないとね。
それから、中古車や中古住宅は必ずお祓い必要ですよ。大きな買い物であり、身体や人生の一部であるも同然、残留するモノも強いものです。というか祓い切れないモノもありますから、そういうのは買う前に先ず鑑定。それが賢く災いを避けるやり方。
そして、鳴り護摩をしてつくづく気づかされることがあります。
それは【執着というものは、実体化して命を宿す】ということ。仏教がやりきり脱執着を説くのは、釈尊はコレを見抜いていたんだね~
また【生命というのは、あらゆる場所に、あらゆる形で存在している】ということ。
鋭い人はお気づきですね、そう、「三界万霊」なのです。盆供に参拝された人に話し、回向頂いた三界万霊とは、そういう存在も含んでのこと。陰に陽に吉に凶に蠢くそういうモノたちへの施し。然ればそれが廻って功徳力となる意は、なんとなくお分かりでしょう。
見えないものを侮っては、人生に大きな損失だ、というのはそういう訳です。参拝の皆様には自明でありますが。
しかし、他寺様の法会に手伝いにいっても子や孫を連れて来てる人などほぼ皆無、それが今時らしい。若い人が見えざる存在に触れる機会を、ジジババ大人が奪っている。それは、若い世代の生きざまに大きな損失となりましょう。盆供にお子さん同伴で参拝された方々は、賢明な御人ですヨ。
次の世代を案じるなら、盆や彼岸という機会にはどうか若い世代も伴なって、ご先祖さんも通して冥界という存在に触れさせて頂きたいものです。それは彼らの為だけでなく、ご自身の後生安堵の保険でもありますよ。
※8月28日の法話の部分掲載
約束
3~4か月ぶりくらいでお参りされた人。
どうなってました?と聞くと、
願掛け祈祷していた案件は一旦、叶った状態になったという。が、その後しばらくして元の木阿弥に、と。
そして急に発症した病は、病院に通っているが治るどころかますます酷い有様に。
この人は、とある祈願をしていました。キツい祈祷なので貴方自身も月に一度はお参りをするように、と約束しての願掛け。
難しい案件でしたが、話によると、思いがけない外部の働きかけで事態が急にその向きに展開。
そして念願叶った、としばらく安堵していた所が、徐々に不穏な感じが戻ってきて元の木阿弥に。
こういう話を聞くと、月参りの約束破って罰が当たったとか、嘘ついた咎めを受けた、と考える人が多いでしょう。
でも、それは違うと思うのです。
何のことは無い。約束を破ったから、仏の加護から除外されてしまった。
祈願や供養に対する約束事を破ったところで、当山ではそれを一々咎めることなどしません。
所詮その程度の人なのね~と認識するだけ。
ですが【祈願供養に関わる約束事】とは、私ら寺の者との約束以上に【当山の仏さん方との約束】なのです。
ソコを忘れちゃならない。
本尊となる仏さまは、そういう人間の業に一々左右されることなどありません。
ですが、本尊は大将であって現場で動くのは眷属。験力の実働部隊は諸天や鬼神の類です。
人に近い感情を持つ眷属らが、祈願者のそういう身勝手を許すかどうかは、別問題。
寺の者が何も言わないから、と忘れた振りをしても、貴方の為に働いた仏の眷属衆は、その約束を忘れなどしませんよ。
願掛けとはそういう事。そして願解き=お礼参りが要るのもそういうワケ。自身がその働いた眷属の立場だったら、と考えたら、祈りのかけっぱなしなんて出来ないはずですけどね~
この人の場合、仏の加護から除外されたことは露骨でした。
叶ったはずの願いは失われ/原因不明な疾病を患って悪化進行中/買った中古車のお祓いを求められましたが、どう占断しても事故車、すぐに買い替えるように、と。願いが形となった途端に願解き(お礼参り)もせず、月参りも止めた3~4か月の内にこの有り様・・
普段、いかに護られていたか、という事です。
無事息災に過ごせているということは、当たり前なことではない。
殊に、障りに関わってしまっている人には、神仏の加護があっての生活、という人もあるに違いありません。
楽しい事ばかりじゃない、苦しい事も少なくない日々であっても、その日々を有り難いと思えているか。
見えなくとも、貴方を取り巻く存在に感謝できているか、ケジメはつけているか。
そういう感覚は、仏神の加護や運を左右する原点、ですねと再認識でした。
ついでに、その病は花巻に来たついでに〇〇クリニックに行け、と当山帰りに受診した所、今処方されている薬を全て止めて様子を見ろ、と言われて、それで快癒したそう。しばらくぶりのお祓いも功を奏したかもね。
タイトルに悩みすぎ;
お護摩を焚くというのは、傍目以上に周辺物品の消耗が激しいです・・お経だけ唱えている寺には存在しない、出費が。
このド不景気と物価高騰で苦しんでるのは皆さんだけじゃない、拙寺も同じ( ;∀;) も~グチになるから書きませんけど。
でも一寸だけ・・護摩木も塔婆も2 年連続で原価値上げ、送料も値上げと来た;住職判断でとりあえず【盆供も護摩木も据え置き】としましたが、正直キツイ。
当山の護摩木はヒノキを使っています。護摩木として一般的なスギにすれば原価は下がりますが、ハネやすいので壇も内陣も狭い当山では危険すぎ。【供養物】でもありますから質を落とすってのも・・せめて日々焚くに要る分量くらい申し込みがあると助かるんですが;
不足をすぐに仏具屋を呼んで買えるお寺はイイですが、檀家なき祈祷寺は、可能な事は自力でやるっきゃない(^^;
散杖。水を灌ぐ棒。護摩壇で毎日使っていると、折れたり焼けたりで時々交換。
乾燥させておいた梅の枝。曲がりを矯正します。
が、これが半端なく堅い!
クソ暑く湿度の高い中ですが、ファンヒーターで温めながら曲げ続け。
真っすぐなったら、節を削る。が、これまたとんでもない堅さ!彫刻刀で攻め。
そして変色した表皮を削ります。
最後に、流派別の加工を施して完成!
ちなみに市販品を買えば一本3000~15000円(;'∀') これ、密教寺院相手に商売した方がイイんじゃねww
破れた袈裟の修理。
どういう訳か、紋白はやたらと糸が細く破れやすい・・
昔、普段使いにしていたことがありましたが、すぐボロボロなって挙句衣屋は「修理できない」って。
それ以降、普段使いには簡素で頑丈な袈裟を用いています。
破れたら新しいものを!ってさ、簡単に買えないお値段だよ・・檀家らに買わせる前提だよねェ;
まあ、糞掃衣が本義ですから、自分が糸通して修復してやっと本物になるのかもと、思ったりしつつ。もう、糸二重にしてガッチリ縫う!
で、袈裟を布施したり直したりするのは積善功徳になると申しますが、コレって己の福田に己で功徳積んだことになるのかしら?
仏教の一つの捉え方としては、僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もあるので。
いや、春先に本堂用お参り椅子10脚をご奉納くださった御人がおられますが、こういう人は稀でして。
功徳を積ませて欲しいなんて人は、今時ほぼお目にかかりませんから、気にすることじゃないか(失笑
って、書いててなんか哀しくなってきた・・。
まあ、一部の上級国民を除いては、厳しく苦しい世情であるのは皆同じということ。こういう時代に生きねばならぬのも私達の業でしかない。
そういう時代の業に飲まれ流されるまま行くか、信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行くか。
経費高騰で毎日の寺護摩も厳しい状況となってきていますが、こんな世情だからこそ【信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行く】人には、何としても霊験と救いを与えて頂かねばならぬので、祈る部分はケチらずに、その他削れる所は自力でなんとかしているワケです。
苦しい時こそ、人の本性が表れると申します。何を取り、何を捨てるか、の選択が迫られる生活ですが、肝心な事や心は捨ててしまわぬよう、貧すれば鈍すとならぬよう、この夏は意識したいものです。