寺ブログ by副住職
信頼×信頼
家、買うのを考えた方がいいね、と申し上げた方。
その後、物件候補を数件探されて、鑑定ご依頼。その中で1件「これはイイね」とお勧め。
すると、分かりました、と即手続きから購入!&お祓いのご依頼。
からの過日、宮城まで出張して家祓い。
一か所だけちょっと手こずった場所があったものの、それ以外は容易く、家内全部スッパリと祓い切り。
鑑定時にはストリートビューでも見たのですが、現地は思った以上に家屋状態も日当たりも良く、立地も好環境。
コレはホントに好物件、いい掘り出し物買ったね~!でございました。
中古物件は、吉凶の観点からは結構ではないモノが多いのです。それはやむを得ないコトですが、物件占では何十と判断しても吉占を得ない場合もあります。
それでも賃貸でしたらまあ仕方ないか、もありですがが、購入となると一大事、凶意を妥協したらとは言い難い。
そういう意味ではなかなか難しい中古住宅、それをこの人はトントン拍子に好物件を手にされました。お祓いも楽々だったのは、大吉の証明。
そういうモノを掴む運をどこにお持ちだったのか。
当山で応対させてもらって、感じる点はあります。
それは【ご依頼に、ためらいの無いこと】
家を買った方がいいねとお話しすると探して、鑑定を持ち込まれ。この物件なら良しとお伝えするとすぐ手続きをされ。お祓いしておいた方がいいよにすぐご依頼。不明の点があればすぐメールで鑑定依頼とお振込み。鑑定と祈祷に全くためらいが無く、こうした方がいい、と申し上げるとすぐ行動されるのです。
当山の鑑定は住職&副住職が行なっておりますが、その占断は私共の個人的意見ではありません。あくまでも本尊さま易神さまの仏意であり神意です。つまり、鑑定と祈祷を素直に受け止める=仏神の示す動静に全幅の信頼を託している。そりゃあ、トントン吉縁を手にするわけだ。
鑑定を依頼しながら得た占断を受け止めない、己が期待に添わぬ結果だと、グチりただ聞いただけにする/反発して好き勝手やるなど占断の逆を行なって、散々な結末になった人も多く見てきました。祈祷や供養を勧めても無視し、後から泣いて来る人も相変わらずいくらもあります。
そうして後からもう一度、との二匹目のドジョウはだいたい旨くない(失笑
もとより、必要ないなら勧めるなど致しませんって。
仏意神意が示す人生を好転する為の勧めを、求めておきながら受け止めないとは、要するに【神仏など信用していない宣言】であり【吉方向に進むしるべなど信じない宣言】。アナタを信用してませんという者など、貴方は援けてあげたいと思いますか? 我欲に引かれて何気にやってるその態度、実はトンデモナイことかも知れませんよ。
与える者は与えられる、と申します。神仏にためらい無く接する者は、神仏からもためらいなく与えられるものです。
そして、この方はふきとりを常用されております。無くなれば郵送でお求めされます。普段から知らずに負うモノもこまめに除いておられる。自身が不浄邪気など負った状態では、善い縁などに引き合う訳などありませんから、コレも効果大だったでしょう。
おまけに終わって豪勢な折詰までご馳走に。何度も記していますように、本来僧侶の供養とはお斎まで含んでのことですが、こういうご配慮までくださる人は当山では稀。全く、吉祥誘導を全開でお受け出来るわけです。
鑑定外であっても、こうしたら良いよ/ああしたらイイね、という示唆はいろいろな形で申し上げています。人によっては個人的にもサラッとお伝えしたり、LINEでは手間暇かけた占いも無料で出してますし、ブログにも多々書いています。
殊に先日書いた彼岸法話は、施餓鬼にこういう解説は見聞きしたことないので副住職が感じ得た完全オリジナルですが、実生活にすぐに使える/流れを変えるヒントだらけ、ですヨ。
布施を出さずともヒントはわんさと得られるはず。あとは皆さんが変化するのか、グチを言いながら現状に留まるのかは、ソレを受け止めて自分の事として行動するかどうか。仏神を、貴方に向けられたその示しを信頼するかどうか。見聞きするだけの占いならクソの役にも立たない、と言うのはソコ。あなたが想うように貴方も見られている、と思ったら、動けるかな。
ある信徒さんが倒れて入院中、とご家族から聞かされてビックリ。夏の畑作業中にと、今夏は外作業控え目にと申し上げていたのですが;それはともかく、その親類の方々、先日参拝されながら誰も全くそのことに触れず・・いつも一緒にお参りされてるのに⁉入院したから拝んでやって欲しいどころか、倒れた話も一切なし、苦しい時こそ信仰は活かすもんでしょ?あまりに非情じゃない⁉
まあ、この方々は以前から問題があっても黙ったまま、コトが大きくなってから実はとか、私の夢にまで親類一同登場という異常事態があった時も結局応ぜずとか、そういう気のある方々ですが・・お参りしてりゃ十分と思っておられるのかも。
でも、要はお参りしてても、拙寺を本尊を信用していない、のでしょうね。布施がもったいないのかもですが。だから後から実は・・となる。あなたが扱うように貴方も扱われる、のです。
善い意味でも悪い意味でも、神仏まで含んで世の中ってのはお互いさまなもの、かな。
彼岸の話⑤黒歴史に戻らぬ道!
⑤【離怖畏如来】
④で仏に成れる心身を手に入れたなら、後は修行あるのみ!
・・ですが、そんな意気込みも堅い決心も、一発で引きずり下ろす「ヤバい感情」があります。
何でしょう?・・
それは【恐れ】です。
恐れがあると、防衛本能が働きます。それは生き物として当然のことで非難されるべき事ではありません。むしろ、大切にされるべき感覚です。
しかし、自分の身や未来の安全を確保しようとした時、どういう行動をとりますか?
可能な限りの安心を手に入れようと必死になりますね。
そうです、慳貪がむき出しになるのです。
そうです・・餓鬼道に舞い戻りです;
【恐れがある限り、慳貪は逃れない=つまり成仏は叶わない】のです。
その恐れを除くのが離怖畏如来。名前まんまです(^^;
ここにおいて、餓鬼が仏へと昇転する道筋が完成する。
と、考えてみますと、確かに「恐れ」の感情こそが私達の日常を支配している・・
人が社会を作り生活するように進化したのは、お互いに身の安全を確保するため、と言われますね。
密教は四恩に報いよ、と言いますが、内の「国王の恩」とは国家統治の恩のこと。野性時代と違って常に命の危機にさらされずに生きられるシステムに対する恩。
事件事故が起きれば、その原因を事細かに分析して抑止へのデータとし・・
病気への不安で病院は連日繁盛、生活を削って保険をかけ、数多の薬とサプリをのみ、安全と言われると見境なく、マスコミで不安が報じられると買いあさり、将来の為にひたすら節約、SNSのイイね数を自分の価値とし、ただ己の不足を追いつづける・・
生き物の本能としてそれは自然なこと。でも書き連ねてみるとまことに「貪欲」でもあります・・しかも終着点が無いという・・災害は必ずやってきますし、身体は必ず衰え死す。
終わることの無い「恐れ」に振り回されて欲をたぎらし、限りある時間を「恐れ」の穴埋めの為に費やす。確かに餓鬼道ですわ・・
恐れにおびえるのは真っ当であるにしても、どこかでソレに怯えぬ「安心」の境地も得なければ、生きるとは一体何だったのか、となってしまうのも真でしょう。
俗にあって俗に振り回されない立命の境地を、安心と書いて仏教では「あんじん」と呼びます。荒れ狂う世俗の中にあって、仏心で恐れを離れた境地。こうなれば俗世の悟りですね。
信仰の目指す所はこの「離怖畏」を得る事なのではないかと思ったりします。それは、生きる事を「もっともっと欲」の餓鬼道に縛られず自在を得ること。成仏への足枷を外すことでもありますから。
動じない事の強さを教える不動明王がおり、人々に不安恐怖をもたらす輩を降す太元帥明王がいるのもゆえ有ることです。
恐れと言う感覚、それが備えや警戒を超えて欲しがるだけの餓鬼道に堕ち入っていないかどうか。どこかで一息入れて見直す。それだけでも、心の安定はだいぶ保ちやすくなるのではないでしょうか。
また、現状に嫌だイヤだといいながら、踏み出すこともせず、いつまでも同じことを繰り返す、よくある光景です・・人の事ばかり言えない;
これは、未経験の地へ踏み出すことの「恐怖」ですよね。苦しく辛くても慣れた地獄の方が実は安心しているという・・恐怖故に餓鬼道の堂々巡りを繰り返すというのは、この点でも理解できる話かと・・
恐れ感覚ついでにもう一点。
お寺のメールやLINEをしていて、常々思うことがあります。言葉遣い云々もありますが、手紙と違うのでそこはあまり気にしない。
ですが、その反応のしかたで、この人は好かれないよな、とか、引き立てないよな、と思わされること多々です。中には、コレでよく今まで社会人務まって来たなぁ~(◎_◎;)という人も。お参りされた時には見えない素顔が、やり取りにはむき出しになる。
一時、既読スルーが話題になったことがありましたね。コレ、言うなれば「恐れ」の感覚です。読んだのに返事が無いってどういうこと⁉っていう恐怖。
それって過剰反応すぎない?とも一面思うのですが、何でも是か非か決めつけなきゃ気が済まない今時の風潮。そういう中では、平気でスルーする人は、相手に「恐れ」を与えていることに気づかない。いつまでも開かない=既読がつかないのも同じ。尋ねておきながら返信に無反応な人も。返信に対する反応が見えないのも「恐れ」となる。
反応が無い人=相手に恐れ/不安感を抱かせる=相手から好意を寄せて来るとか、引き立てられるわけがない。
当山では確認次第、出来るだけ早めの返信を心がけ、無理な場合はとりあえず確認した旨だけでも伝えるようにしています。LINEはスタンプという便利なモノもありますし。※意味不明とか非礼には文句とか無視しますww
恐れ感=この人は大丈夫なんだろうか?を日常のツールで撒き散らかしていては、そこで人を見られてしまいます。
言葉遣い一つ、電話のかけ方一つ、メールに対する反応の仕方一つで、そういう人なんだ~と決められてしまう。ホントの自分はそうじゃなくても、そうじゃないと言っても、相手はそのように決めつけてしまう。それが【恐れ感】のコワさです。
面と向かい合う場面が極端に少なく、不要な時代になりました。ですから余計に「恐れ感」は大きくなるでしょう。
そういう世情であれば尚更、姿が見えない程に「離怖畏」感を意識することは、コミニケーション上の大要因とも言えます。
成仏へのステップにおいて、振り切らねばならぬ大案件とされる「恐れ感」。いわんや、人の世においてどれほどの妨げになるか、言うまでもないでしょう。
不安多き風潮の中、「離怖畏」感は相手にそして自分にも有益でしょう。それが自然に為せるとは、そこには相手を慮るという心があってこそ。慈悲のありよう=アナタという仏の有り様も、にじみ出ている場面かもしれません。
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にしても、働いて国を支えている国民からただただむしり取り、ひたすら将来の憂怖不安を掻き立てる=餓鬼道へいざなう政治なんぞ、魔道そのもの・・その輩の罪業の深きは如何ばかりぞ。
彼岸の話④いっぱい食べて大きくな~れ!宇宙規模まで⁉
④【広博身如来】
③で仏へと成長できる心身を得たなら、モリモリ食って大きくなぁ~れ!がこの仏。
②に書きましたように、餓鬼の喉は針のように細い。オマケに食べようとすると口から火を吐く。ゴジラみたいに意志で火を吐くならともかく、ご飯食べようとすると火炎放射って・・そんな身体イヤだ;
という訳で施餓鬼には、餓鬼の火を鎮めて喉を開く作法があるんです。これで供養が届く状態になる>▽<
施餓鬼の偈文には、この広博身如来は「口と喉を大きく開かせて、たらふく食わせる」とありますので、それはそうなのでしょうけれど、ならばこの名前よ・・?
「博」も大きく広い意。乃ち「大きく広くとってもでっかい身体の仏」と言う名前(^^; 一杯食べておおきくな~れ!にしても過剰すぎやしないか⁈ ギャル曽根だってそこまで言われたら恐縮するレベルですわ。
と常にはそこはお寺さんも気にせずスルー、するトコですが、実はこの仏名、理に適った名前なのです。
私がとある伝授で習いましたのは、偉大なる体にして偉大なる精神は宿る。心身偉大であれば甘露なる物も仏法もよく受け入れ、修行し悟りに至ることが可能となる、と。
にしても、広大無辺な身体って話がいきなり宇宙レベルに飛躍し過ぎ、なんだか訳分かんないヨ~
にふと、お大師さんの言葉。
仏とは「法界をしかも体となし、虚空を以って仏心と為す」「もし大身を現ずれば~礼拝を生せず、ゆえに擁権に小身丈六の相を示す」
・・仏の本体とは宇宙そのものみたいなものだから、それでは衆生は拝むも出来ないから、丈六※という小さい仮の姿をされている
そうでした、仏の本体=悟りの世界ってのは、宇宙大なるもの。真の悟りに踏み込もうとするなら、その規模の心と身体を求めねばならぬのは、必然なことなのです。餓鬼の身からせいぜい人間の身体程度になって満足していては、仏の世界には遥かに道遠し~
悟りを求めるなら、その身その心を肉体で限られる程度で満足すな!心も体も己を超えて偉大になれ!
という導きなのです。ここに来て、肉体に囚われる範囲からいきなり宇宙次元に観点が飛ぶので、施餓鬼をやる坊さんも大概認識が「喉開いて一杯食わす」止まりなのも、ムリない話ですが;
しかし、私らの努力や目標とて大きな成果を掴まんとするなら、同じ観点が要るのではないでしょうか?
【どこかで、大きくジャンプする】という冒険が要る、と。
コツコツ努力は、それは何事にも大切です。ですが、ひたすらそれだけでいつまでも日の目を見ない、という現実が多い事も知っているはずです。
ある程度積み重なったものが身に付いたら、飛び出す!いつまでも安全枠に留まっていては、その先など知れたもの。
鳥の雛は否が応でも巣立ちしなければなりませんね。そのままそこにいたら親は見捨てますから、死んでしまいます。飛べないかもと恐れても飛ぶしかない。成長とはそういうことでしょう。一度飛んでしまえば、恐れていた世界、憧れていた世界は、日常となる。
餓鬼が仏になるには、ここで一気に宇宙に飛び出すほどの勝負をかける必要がある。
人が更なる高みに至るには、どこかで日常や常識の枠の一線を飛び越えねばならない。
そして、その時は、心と身体がしっかりと養われていることが肝心だ、と。
弘法大師が、他宗の祖師のように寿命に任せて老衰で死ぬのを拒否し、入定を急いだのは「後世のため」でした。肉体改造を行なって加持力を残す為には、老いてヨボヨボの体では出来ない、心身が万全なうちに成し遂げねばならなかった。
まことに「偉大な体にこそ偉大な精神は宿る」そのことを熟知しておられたのです。
よく生きるには、心身のバランスが大切だ。もっと善く生きたいなら心身を鍛え上げて、どこかで大ジャンプすることが必要だ!
ご飯いっぱい杯食えよ仏は、食事とは「命の在り方、を養うもの」だ、と教えているようですね。
そして生き物は、その形態によって摂る物は異なりますが、いずれも食によってその命を繋いでいます。
食なくして命=存在無し。
たかが食、されど食。
ゆえに仏典でも、釈迦に説法を乞う人は、お招きしたら釈迦と連れ添う弟子数十~数百人に食事をお出しして、それから説法を受けたらしい。※坊さんをお招きしたり法事にはお斎という名で食事を出すのはこの名残。ここまで含んで供養の一環となるのが本来。
涅槃の際に釈迦は、(傷んだ食を布施したチュンダに)仏が成道する最初の食事(スジャータの乳粥)と、涅槃前の最後の食事を布施した功徳は等しいものだ、とチュンダに伝えよ、と言い残した話。
②に記したように、弘法大師が庶民学校の開設に「食の給付」を1条件としていたこと。
食というモノが、命にとっていかに重みを持つものか・・食えないということがどれほど酷の極みであるか・・
中世のある高僧曰く、仏法には施を第一とし、そこには様々な施の形があるが、その中で最上たるは施餓鬼である。と。
生あるもの、食える有り様たれ!という広博身如来の誓いは、命に対する筆頭の慈悲かもしれません。
何気ない日常である食ですが、扱い方次第で喜怒哀楽を生む場所。与える与えられる共に、そこは喜びの場と出来たらそれだけでもきっと功徳モノ、ですね。
以前に記した五観の偈の話もあわせてどうぞ。
※丈六=1丈6尺。約4m80cm。いわゆる大仏とはこれを基準にしていることが多い。これで小さいんだって;
<一寸オマケ>
※餓鬼が要求したご飯は【マガダ国の升でヨロシク】。古代インドにあったマガダ国の升は、他国の升より大きかったそうで。どうせくれるならと欲張りな・・(;'∀')
※食事作法にはしょっぱなから「平等行食」と出てきます・・上座も下座と差別なしね、って。食い物の恨みは恐ろしい、ですねww
※お釈迦さんのお父さんの名は漢訳で「浄飯王」。禅那波羅蜜に飯食が当てはめられ、施餓鬼には飯と、お米が主食の地域柄が見えます(^^;
彼岸の話③老いて学べば、死して朽ちず!
③【甘露王如来】
①②の仏の力で心身が安定したなら~人の話を聞ける状態になります!
※こう思うと「人に話を聞かせる」というのは、やはりムズカシイことなんだなァ~;
そこで次は「法を説く」甘露王如来のお出ましです。
成仏への道に引き入れるのには、教えを聴かせることが第一歩。
仏教は「聞法」が始めの一歩、と申します。あらゆるお経群は「如是我聞」、私はこのように釈迦の教えを聞きました、で始まりますね。
まず聞いて、学べ、です。
※どんな教えでも見聞きし学びますが、釈迦当時のインドでは記述する伝統はなく、聞いて口伝えであった、と言いますから、仏教で「聞く」ことが強調されるのはそういう下敷き故かも。
甘露王の甘露とは、あま~い♡飲み物のこと。ですが、ここでは「仏の教え」のこと。大般若経の転読などにも「般若の法味は甘露の如し」と出てきますね。
※画像は本文とはあまり関係ありません・・
ムズカシイ上に厳しそうなコトばっかり説いてるお経が甘露だなんて~⁉ですが、煩悩が苦しみだと認識できたなら、その教えは何よりも我が身を潤す清涼なるもの、らしい(^^;
かくして法を聞き、学んだら、悟りへと向けて修行できる身となる・・餓鬼の来世進学塾の先生がこの仏。
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と記して来て、よくある気にかかる事が。
先日、古くからの信徒さんが続けて亡くなりお悔やみに伺うと・・やっぱり;お二方とも、無い。
仮位牌の祭壇にあるのは、位牌、お骨、供物だけ。
え、何か足りないの?と思ったアナタは、もう一度、この記事を読み直してほしい。
そうです、導き手となる仏=本尊が不在なのです。
成仏への道に向かうには、仏の教えを聴き、修行できる体制を整える必要がある。
そこには「来世進学塾」の指導教師たる仏さまが、必ず必要なのです。
それなのに、近年は葬式が終わるといつまでも骨を家に置くくせに、肝心の本尊は寺から貸し出しもされない。
その骨と仮位牌はただ放置されてるだけ。そんな49日間に何の意味などあるのでしょう?
そういうのは「ホッタラカ死」だ、と以前ブログに書きました。
おそらくそうだろうと、準備していた13仏の回向本尊を差し上げて、49日間を無駄にしないようにしてもらいましたが・・
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死んだら成仏、もう偉いのだ、何もしなくてもいいのだ・・ってバカ言っちゃいけません。
そんなだったら釈尊が【回向の功徳】など説くわけがない。成仏した釈迦にして、その後も「私ほど功徳を求める者はいないだろう」と仏の法に学び修行し続けたのです。死ぬ際まで煩悩に振り回された凡人など、何をかいわんや。
死者とてこの世では100歳だろうと、あの世に行ったら来世1年生の分別のつかぬ赤ん坊です。だから昔は荒魂と言ったでしょ。
成長するには、どんな場でも導き手と教育が必要なのです。何歳になっても、新たな道はいくらでもある。マンネリに歩みを止めたら、命は死んだも同然。
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閑話休題。他の宗祖方が弘法大師の足元にも及ばない一線に、大師の「総合教育への取り組み」があります。
大師は、人が与えられたその生を、社会という中で充実し発展させながら崇高に生きる為には、何よりも教育こそ大切だと喝破し、そればかりか完全身分無差別、語学技術芸術医学宗教の総合教育、無償かつ食配給という当時世界にも類がないらしい、日本初の庶民学校を開きました。
知恵を持つ者が一部だけであっては、その者達が社会を牛耳り、知恵なき者はただ「金を生む労働力」として搾り取られるだけの存在になってしまう。皆が知恵を合わせ力を合わせることが出来れば、皆が豊かに社会そのものが発展できる、と。
読み書き作り楽しむこと、ごく普通にやれていることですが、コレが可能なのは識字率ほぼ100%の国で教育を受けているから。たしかに、読めない書けないでは、読書はおろかゲームすら出来ないわな;
学校教育で育んだ知恵があるから生活が出来、楽しみが増え、進化できるのです。人一人の寿命には限りがありますが、その培われた知恵は更に後世を育むものとなる。死んで終わりではない、繋いで進化するのです。それは霊的な面でも。
密教の伝授の場では、それこそ宗門のトップに位置するような御方も、若い阿闍梨に礼拝して若僧と机を並べて共に学ばれていたりもします。学びに歳など関係ない。
甘露王如来は、どこまでも自身で道を切り開いていく学びという基礎を、導かれるのです。
幾つになろうと新しい門を開け!
その道の善知識=プロたる指導者を仰げば道は近い!
そして、己も善知識となるべく聞き学び歩め!と。
幕末志士に甚大な影響を与えた、幕府学問所(今でいう東大)総長であった佐藤一斎の有名な言葉に、こうあります。
少(わか)くして学べば、壮(40代頃)にして為すことあり
壮にして学べば、老いて衰えず
老いて学べば、死して朽ちず
「真の救いとは、どこまでも聞き学び続ける所に、自ら生み出し往くものだ」と、甘露王の教え。
佐藤一斎は儒学者ですが、真の道を求めて突き詰めていけば、その到達する点は案外似ているのかもしれませんね。
彼岸の話② 美は正義だ!
②【妙色身如来】
餓鬼の姿は、仏教に触れた事のある人ならどこかで目にしたことがあるんじゃないかな、と思います・・が、お世辞にも普通に受け止められる姿じゃありません;
Ⓒ画像は記載のサイトから拝借
やせ細り骨と皮同然も腹だけは膨れ、喉は針の如く細く通らず、食おうとすると口から火が燃えてしまう。半端なく卑しく醜く、ひねくれている・・
①の仏により満ちる境地を知りて、仏へのステップを歩み出す・・も、普通に考えてこんな姿では仏には相応しくない;
そこで、仏に至るに相応しい姿形を与える。それがこの妙色身如来。
仏には、ふさわしい姿形が存在します。古くは32相80種好と呼ばれる体の特徴があげられ(これは常軌を逸しているのが多いですが、ここからも多様の仏が展開する一因)、大乗では種々の仏が登場してその姿も数多となりますが、そこには必ずどこか気品と慈愛と鋭さを持ち合わせます。
明王のような裸で暴悪相なる仏も黄金の瓔珞を身にまとい宝石や蓮華を座としますし、変化観音のような異形も化仏を戴いて仏変化であることを示しています。恐ろしく異様な姿でも、そこには仏たる証明が形としても、ある。
※それ言うなら、胎蔵曼荼羅最外院に死鬼衆が画かれているがそれも仏だろうとか、草木國土悉皆成仏って動植物や石ころだって仏なんでしょ?という人もいるかもしれませんが、それらは「仏種が含まれている」というだけであって、業によってそういう姿に展開しているモノを仏と呼べると言うには非ず、です。
仏になるには、器としての然るべき形が必要なのです。
と、ここで「ウチの先祖さんはふさわしい形してるのかな?」と思えた貴方は素晴らしい!
信徒さんには常々お話しているのですが、仏に成れないお位牌がやたらと多いようです・・それは白木のまま。
白木の位牌とは、仮位牌です。49日までは白木の位牌を用いる約束からも明白(今は白木にすら書かずに、紙を貼るようですが;)
どうして?・・49日までは早い話が浮遊霊扱いだから。ゆえに粗末な白木として、仏壇にも入れない。
そして49日を過ぎると、仏になったという扱いにします、実際はどうあれ(^^;
なので白木位牌から替えて、塗板に金で名前を刻んだ本位牌にする。
【塗板に金で名前を刻んだ本位牌】これで、仏にふさわしい身体、となる訳です。
ところが、その事が分かっていないだろうな~というお寺や人々が多すぎます・・塗板に作り直してから俄然仏壇を拝むようになったとか、家の流れが変わったという人も少なくありません。ご先祖がみすぼらしい格好をしているのに自分達を見守れなんて、都合良すぎな話;
気持ちだけで届いてる通じてるなんて嘘です。形ある世界に生きる私達には、形も重要なファクターなのです。
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以前読んだ、米国で仲良しグループを刑務官と囚人の2グループに分け、それぞれに刑務官と囚人の衣類と環境と位置づけを与えて人の行動の変化を見る、という心理学か何かの実験の話。
最初はふざけ合っていた彼らはだんだんと変化し、刑務官役は横柄に暴力を平然と振るうようになり、囚人役は怯え精神疾患を発症するようになり、実験は中止された、との旨でした。
中身にふさわしい器が要る。逆もまた然りで、器に見合ったように中身も変化するのです。弘法大師が、心と境(外見とか環境という器)はリンクし双方向に影響しあうものだ、と言う如くに。
だから、餓鬼の姿に仏は顕現出来ないのです。美しい魂を盛るには、美しい器が要るのです。
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また、大師の双方向リンクの言のように、逆もまた然り。
私は昭和男児ですから女性の感覚は知れませんが、バシッと化粧が決まった日は一日気持ちイイそうですね。上手くいった化粧やオシャレな服を着た時には、自分であって自分でない感覚ともなるそう。役者さんの記事などには、メイクをすると役に入り込むとか。
外見という器を操作することで、その彩った存在に我が魂を変化させることも出来るのが人間。一見過剰wwとも思えるオシャレをしている美容師や講師など、カリスマを目指すならその位は当たり前な心掛けなのかもしれません。そういう平凡を超えた美なるスタイルは他者を刺激し、自身をも変え、関わる世界が変わる。人格を陶冶するに美は欠かせないのです。
近頃はミスコンなど差別、ナチュラルでみんないい、美醜を取り上げるなんてハラスメント的な風潮が強いようですが・・ ネットでは詐欺メイクと呼ばれる、整形手術並みのメイク動画が賑わしているようですが、爆笑から~最後は感嘆してしまうレベル・・あれじゃ人生変わりますわな(笑。美しいものは美しい、作り上げたものだろうとイイじゃんね、と思えます。好嫌の感覚は別としてね。
生活に追われていますと、なりふり構わず目の前の事で一杯です。ですがそれじゃ、業に流されるま者の生き方から抜けられない。私の人生はこんなもんじゃ済まさない!と思うなら、手っ取り早いのは、成りたい美しい器を自身に作るコト。
ここは女性だったらメイクですぐ出来る! また、華やかな服を着る!
また、自分は似合うと思っていても、他人から見たらトンチンカンということも多分にあるものですww
ですから、カワトクの化粧品売り場でメイクしてもらう!
センスのいい、ちょっと冒険してくれる美容院に行く!自分で髪を切るとか論外!
服屋に行ったら「自分にどれ似合いますかね?」と聞く!
自分に嫉妬しない他人の意見、ってのは、新しい自分を展開するのに欠かせませんよ。
そうやって、美しい器に飛び込む!美しい環境に飛び込んでいく。
お客さんの中には、ちゃんとお化粧すればスゴい綺麗になるでしょうに~/ビシッと決めれば人目を引くでしょうに~と思う人も少なくありません、埋もれてる必要ないのにね、勿体ない・・
美しい身姿を意識し努めるのはなにも恥ずかしい事ではないヨ、それは今までを乗り越える生き方へのステップでもあるよ、格好をなめんなよ、理想に寄せていけ!と妙色身如来は気づかせてくれる気がします。
とか偉そうなこと書きながら、オシャレ美容に全く無頓着で来た自身はどうだ_| ̄|○・・中年オヤジ今更から転換できる⁉