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遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
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2023-09-25 23:35:00

彼岸の話④いっぱい食べて大きくな~れ!宇宙規模まで⁉

【広博身如来】

 

③で仏へと成長できる心身を得たなら、モリモリ食って大きくなぁ~れ!がこの仏。

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②に書きましたように、餓鬼の喉は針のように細い。オマケに食べようとすると口から火を吐く。ゴジラみたいに意志で火を吐くならともかく、ご飯食べようとすると火炎放射って・・そんな身体イヤだ;

 

という訳で施餓鬼には、餓鬼の火を鎮めて喉を開く作法があるんです。これで供養が届く状態になる>▽<

 

施餓鬼の偈文には、この広博身如来は口と喉を大きく開かせて、たらふく食わせる」とありますので、それはそうなのでしょうけれど、ならばこの名前よ・・?

 

「博」も大きく広い意。乃ち「大きく広くとってもでっかい身体の仏」と言う名前(^^; 一杯食べておおきくな~れ!にしても過剰すぎやしないか⁈ ギャル曽根だってそこまで言われたら恐縮するレベルですわ。

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と常にはそこはお寺さんも気にせずスルー、するトコですが、実はこの仏名、理に適った名前なのです。

 

私がとある伝授で習いましたのは、偉大なる体にして偉大なる精神は宿る。心身偉大であれば甘露なる物も仏法もよく受け入れ、修行し悟りに至ることが可能となる、と。

 

にしても、広大無辺な身体って話がいきなり宇宙レベルに飛躍し過ぎ、なんだか訳分かんないヨ~

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にふと、お大師さんの言葉。

 

仏とは「法界をしかも体となし、虚空を以って仏心と為す」「もし大身を現ずれば~礼拝を生せず、ゆえに擁権に小身丈六の相を示す

 

・・仏の本体とは宇宙そのものみたいなものだから、それでは衆生は拝むも出来ないから、丈六※という小さい仮の姿をされている

 

そうでした、仏の本体=悟りの世界ってのは、宇宙大なるもの。真の悟りに踏み込もうとするなら、その規模の心と身体を求めねばならぬのは、必然なことなのです。餓鬼の身からせいぜい人間の身体程度になって満足していては、仏の世界には遥かに道遠し~

 

悟りを求めるなら、その身その心を肉体で限られる程度で満足すな!心も体も己を超えて偉大になれ!

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という導きなのです。ここに来て、肉体に囚われる範囲からいきなり宇宙次元に観点が飛ぶので、施餓鬼をやる坊さんも大概認識が「喉開いて一杯食わす」止まりなのも、ムリない話ですが;

 

しかし、私らの努力や目標とて大きな成果を掴まんとするなら、同じ観点が要るのではないでしょうか?

 

【どこかで、大きくジャンプする】という冒険が要る、と。

 

コツコツ努力は、それは何事にも大切です。ですが、ひたすらそれだけでいつまでも日の目を見ない、という現実が多い事も知っているはずです。

 

ある程度積み重なったものが身に付いたら、飛び出す!いつまでも安全枠に留まっていては、その先など知れたもの。

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鳥の雛は否が応でも巣立ちしなければなりませんね。そのままそこにいたら親は見捨てますから、死んでしまいます。飛べないかもと恐れても飛ぶしかない。成長とはそういうことでしょう。一度飛んでしまえば、恐れていた世界、憧れていた世界は、日常となる。

 

餓鬼が仏になるには、ここで一気に宇宙に飛び出すほどの勝負をかける必要がある。

人が更なる高みに至るには、どこかで日常や常識の枠の一線を飛び越えねばならない

そして、その時は、心と身体がしっかりと養われていることが肝心だ、と。

 

弘法大師が、他宗の祖師のように寿命に任せて老衰で死ぬのを拒否し、入定を急いだのは「後世のため」でした。肉体改造を行なって加持力を残す為には、老いてヨボヨボの体では出来ない、心身が万全なうちに成し遂げねばならなかった

 

まことに「偉大な体にこそ偉大な精神は宿る」そのことを熟知しておられたのです。

ネット祈願

よく生きるには、心身のバランスが大切だ。もっと善く生きたいなら心身を鍛え上げて、どこかで大ジャンプすることが必要だ!

 

ご飯いっぱい杯食えよ仏は、食事とは「命の在り方、を養うもの」だ、と教えているようですね。

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そして生き物は、その形態によって摂る物は異なりますが、いずれも食によってその命を繋いでいます。

 

食なくして命=存在無し

たかが食、されど食。

 

ゆえに仏典でも、釈迦に説法を乞う人は、お招きしたら釈迦と連れ添う弟子数十~数百人に食事をお出しして、それから説法を受けたらしい。※坊さんをお招きしたり法事にはお斎という名で食事を出すのはこの名残。ここまで含んで供養の一環となるのが本来。

 

涅槃の際に釈迦は、(傷んだ食を布施したチュンダに)仏が成道する最初の食事(スジャータの乳粥)と、涅槃前の最後の食事を布施した功徳は等しいものだ、とチュンダに伝えよ、と言い残した話。

 

②に記したように、弘法大師が庶民学校の開設に「食の給付」を1条件としていたこと。

 

 

食というモノが、命にとっていかに重みを持つものか・・食えないということがどれほど酷の極みであるか・・

 

中世のある高僧曰く、仏法には施を第一とし、そこには様々な施の形があるが、その中で最上たるは施餓鬼である。と。

 

生あるもの、食える有り様たれ!という広博身如来の誓いは、命に対する筆頭の慈悲かもしれません。

 

何気ない日常である食ですが、扱い方次第で喜怒哀楽を生む場所。与える与えられる共に、そこは喜びの場と出来たらそれだけでもきっと功徳モノ、ですね。

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以前に記した五観の偈の話もあわせてどうぞ。

 

※丈六=1丈6尺。約4m80cm。いわゆる大仏とはこれを基準にしていることが多い。これで小さいんだって;

 

<一寸オマケ>

※餓鬼が要求したご飯は【マガダ国の升でヨロシク】。古代インドにあったマガダ国の升は、他国の升より大きかったそうで。どうせくれるならと欲張りな・・(;'∀')

 

※食事作法にはしょっぱなから「平等行食」と出てきます・・上座も下座と差別なしね、って。食い物の恨みは恐ろしい、ですねww

 

※お釈迦さんのお父さんの名は漢訳で「浄飯王」。禅那波羅蜜に飯食が当てはめられ、施餓鬼には飯と、お米が主食の地域柄が見えます(^^;

 

2023-09-24 20:21:00

彼岸の話③老いて学べば、死して朽ちず!

③【甘露王如来】

 

①②の仏の力で心身が安定したなら~人の話を聞ける状態になります!

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 ※こう思うと「人に話を聞かせる」というのは、やはりムズカシイことなんだなァ~;

 

 

そこで次は「法を説く」甘露王如来のお出ましです。

 

成仏への道に引き入れるのには、教えを聴かせることが第一歩

 

仏教は「聞法」が始めの一歩、と申します。あらゆるお経群は「如是我聞」、私はこのように釈迦の教えを聞きました、で始まりますね。

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まず聞いて、学べ、です。

 

 

 ※どんな教えでも見聞きし学びますが、釈迦当時のインドでは記述する伝統はなく、聞いて口伝えであった、と言いますから、仏教で「聞く」ことが強調されるのはそういう下敷き故かも。

 

甘露王の甘露とは、あま~い♡飲み物のこと。ですが、ここでは「仏の教え」のこと。大般若経の転読などにも「般若の法味は甘露の如し」と出てきますね。

 

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※画像は本文とはあまり関係ありません・・

 

ムズカシイ上に厳しそうなコトばっかり説いてるお経が甘露だなんて~⁉ですが、煩悩が苦しみだと認識できたなら、その教えは何よりも我が身を潤す清涼なるもの、らしい(^^;

 

かくして法を聞き、学んだら、悟りへと向けて修行できる身となる・・餓鬼の来世進学塾の先生がこの仏。

******

 

と記して来て、よくある気にかかる事が。

 

先日、古くからの信徒さんが続けて亡くなりお悔やみに伺うと・・やっぱり;お二方とも、無い。

 

仮位牌の祭壇にあるのは、位牌、お骨、供物だけ。

 

え、何か足りないの?と思ったアナタは、もう一度、この記事を読み直してほしい。

 

そうです、導き手となる仏=本尊が不在なのです。

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成仏への道に向かうには、仏の教えを聴き、修行できる体制を整える必要がある。

 

そこには「来世進学塾」の指導教師たる仏さまが、必ず必要なのです。

 

それなのに、近年は葬式が終わるといつまでも骨を家に置くくせに、肝心の本尊は寺から貸し出しもされない。

 

その骨と仮位牌はただ放置されてるだけ。そんな49日間に何の意味などあるのでしょう?

 

そういうのは「ホッタラカ死」だ、と以前ブログに書きました。

おそらくそうだろうと、準備していた13仏の回向本尊を差し上げて、49日間を無駄にしないようにしてもらいましたが・・

 

********

 

死んだら成仏、もう偉いのだ、何もしなくてもいいのだ・・ってバカ言っちゃいけません。

 

そんなだったら釈尊が【回向の功徳】など説くわけがない。成仏した釈迦にして、その後も「私ほど功徳を求める者はいないだろう」と仏の法に学び修行し続けたのです。死ぬ際まで煩悩に振り回された凡人など、何をかいわんや。

 

死者とてこの世では100歳だろうと、あの世に行ったら来世1年生の分別のつかぬ赤ん坊です。だから昔は荒魂と言ったでしょ。

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成長するには、どんな場でも導き手と教育が必要なのです。何歳になっても、新たな道はいくらでもある。マンネリに歩みを止めたら、命は死んだも同然。

 

 

*******

 

閑話休題。他の宗祖方が弘法大師の足元にも及ばない一線に、大師の「総合教育への取り組み」があります。

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大師は、人が与えられたその生を、社会という中で充実し発展させながら崇高に生きる為には、何よりも教育こそ大切だと喝破し、そればかりか完全身分無差別、語学技術芸術医学宗教の総合教育無償かつ食配給という当時世界にも類がないらしい、日本初の庶民学校を開きました。

 

知恵を持つ者が一部だけであっては、その者達が社会を牛耳り、知恵なき者はただ「金を生む労働力」として搾り取られるだけの存在になってしまう。皆が知恵を合わせ力を合わせることが出来れば、皆が豊かに社会そのものが発展できる、と。

 

読み書き作り楽しむこと、ごく普通にやれていることですが、コレが可能なのは識字率ほぼ100%の国で教育を受けているから。たしかに、読めない書けないでは、読書はおろかゲームすら出来ないわな;

 

学校教育で育んだ知恵があるから生活が出来、楽しみが増え、進化できるのです。人一人の寿命には限りがありますが、その培われた知恵は更に後世を育むものとなる。死んで終わりではない、繋いで進化するのです。それは霊的な面でも

 

密教の伝授の場では、それこそ宗門のトップに位置するような御方も、若い阿闍梨に礼拝して若僧と机を並べて共に学ばれていたりもします。学びに歳など関係ない。

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甘露王如来は、どこまでも自身で道を切り開いていく学びという基礎を、導かれるのです。

 

幾つになろうと新しい門を開け!

その道の善知識=プロたる指導者を仰げば道は近い!

そして、己も善知識となるべく聞き学び歩め!と。

 

幕末志士に甚大な影響を与えた、幕府学問所(今でいう東大)総長であった佐藤一斎の有名な言葉に、こうあります。

 

(わか)くして学べば、壮(40代頃)にして為すことあり

壮にして学べば、老いて衰えず

老いて学べば、死して朽ちず

 

真の救いとは、どこまでも聞き学び続ける所に、自ら生み出し往くものだ」と、甘露王の教え。

 

佐藤一斎は儒学者ですが、真の道を求めて突き詰めていけば、その到達する点は案外似ているのかもしれませんね。

2023-09-23 16:36:00

彼岸の話② 美は正義だ!

②【妙色身如来】

 

餓鬼の姿は、仏教に触れた事のある人ならどこかで目にしたことがあるんじゃないかな、と思います・・が、お世辞にも普通に受け止められる姿じゃありません;

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Ⓒ画像は記載のサイトから拝借

 

やせ細り骨と皮同然も腹だけは膨れ、喉は針の如く細く通らず、食おうとすると口から火が燃えてしまう。半端なく卑しく醜く、ひねくれている・・

 

①の仏により満ちる境地を知りて、仏へのステップを歩み出す・・も、普通に考えてこんな姿では仏には相応しくない;

 

そこで、仏に至るに相応しい姿形を与える。それがこの妙色身如来

 

仏には、ふさわしい姿形が存在します。古くは32相80種好と呼ばれる体の特徴があげられ(これは常軌を逸しているのが多いですが、ここからも多様の仏が展開する一因)、大乗では種々の仏が登場してその姿も数多となりますが、そこには必ずどこか気品と慈愛と鋭さを持ち合わせます

 

明王のような裸で暴悪相なる仏も黄金の瓔珞を身にまとい宝石や蓮華を座としますし、変化観音のような異形も化仏を戴いて仏変化であることを示しています。恐ろしく異様な姿でも、そこには仏たる証明が形としても、ある

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 ※それ言うなら、胎蔵曼荼羅最外院に死鬼衆が画かれているがそれも仏だろうとか、草木國土悉皆成仏って動植物や石ころだって仏なんでしょ?という人もいるかもしれませんが、それらは「仏種が含まれている」というだけであって、業によってそういう姿に展開しているモノを仏と呼べると言うには非ず、です。

 

仏になるには、器としての然るべき形が必要なのです。

 

 

と、ここで「ウチの先祖さんはふさわしい形してるのかな?」と思えた貴方は素晴らしい! 

 

信徒さんには常々お話しているのですが、仏に成れないお位牌がやたらと多いようです・・それは白木のまま

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白木の位牌とは、仮位牌です。49日までは白木の位牌を用いる約束からも明白(今は白木にすら書かずに、紙を貼るようですが;)

 

どうして?・・49日までは早い話が浮遊霊扱いだから。ゆえに粗末な白木として、仏壇にも入れない。

 

そして49日を過ぎると、仏になったという扱いにします、実際はどうあれ(^^;

 

なので白木位牌から替えて、塗板に金で名前を刻んだ本位牌にする。

 

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【塗板に金で名前を刻んだ本位牌】これで、仏にふさわしい身体、となる訳です。

 

ところが、その事が分かっていないだろうな~というお寺や人々が多すぎます・・塗板に作り直してから俄然仏壇を拝むようになったとか、家の流れが変わったという人も少なくありません。ご先祖がみすぼらしい格好をしているのに自分達を見守れなんて、都合良すぎな話;

 

気持ちだけで届いてる通じてるなんて嘘です。形ある世界に生きる私達には、形も重要なファクターなのです。

 

*******

 

以前読んだ、米国で仲良しグループを刑務官と囚人の2グループに分け、それぞれに刑務官と囚人の衣類と環境と位置づけを与えて人の行動の変化を見る、という心理学か何かの実験の話。

 

最初はふざけ合っていた彼らはだんだんと変化し、刑務官役は横柄に暴力を平然と振るうようになり、囚人役は怯え精神疾患を発症するようになり、実験は中止された、との旨でした。

 

中身にふさわしい器が要る。逆もまた然りで、器に見合ったように中身も変化するのです。弘法大師が、心と境(外見とか環境という器)はリンクし双方向に影響しあうものだ、と言う如くに。

 

だから、餓鬼の姿に仏は顕現出来ないのです。美しい魂を盛るには、美しい器が要るのです。

 

******

 

また、大師の双方向リンクの言のように、逆もまた然り

 

私は昭和男児ですから女性の感覚は知れませんが、バシッと化粧が決まった日は一日気持ちイイそうですね。上手くいった化粧やオシャレな服を着た時には、自分であって自分でない感覚ともなるそう。役者さんの記事などには、メイクをすると役に入り込むとか。
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外見という器を操作することで、その彩った存在に我が魂を変化させることも出来るのが人間。一見過剰wwとも思えるオシャレをしている美容師や講師など、カリスマを目指すならその位は当たり前な心掛けなのかもしれません。そういう平凡を超えた美なるスタイルは他者を刺激し、自身をも変え、関わる世界が変わる人格を陶冶するに美は欠かせないのです。

 

近頃はミスコンなど差別、ナチュラルでみんないい、美醜を取り上げるなんてハラスメント的な風潮が強いようですが・・ ネットでは詐欺メイクと呼ばれる、整形手術並みのメイク動画が賑わしているようですが、爆笑から~最後は感嘆してしまうレベル・・あれじゃ人生変わりますわな(笑。美しいものは美しい、作り上げたものだろうとイイじゃんね、と思えます。好嫌の感覚は別としてね。

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生活に追われていますと、なりふり構わず目の前の事で一杯です。ですがそれじゃ、業に流されるま者の生き方から抜けられない。私の人生はこんなもんじゃ済まさない!と思うなら、手っ取り早いのは、成りたい美しい器を自身に作るコト。

 

ここは女性だったらメイクですぐ出来る! また、華やかな服を着る! 

 

また、自分は似合うと思っていても、他人から見たらトンチンカンということも多分にあるものですww

 

ですから、カワトクの化粧品売り場でメイクしてもらう!

センスのいい、ちょっと冒険してくれる美容院に行く!自分で髪を切るとか論外!

服屋に行ったら「自分にどれ似合いますかね?」と聞く!

自分に嫉妬しない他人の意見、ってのは、新しい自分を展開するのに欠かせませんよ。

 

そうやって、美しい器に飛び込む!美しい環境に飛び込んでいく。

 

お客さんの中には、ちゃんとお化粧すればスゴい綺麗になるでしょうに~/ビシッと決めれば人目を引くでしょうに~と思う人も少なくありません、埋もれてる必要ないのにね、勿体ない・・

  

美しい身姿を意識し努めるのはなにも恥ずかしい事ではないヨ、それは今までを乗り越える生き方へのステップでもあるよ、格好をなめんなよ、理想に寄せていけ!と妙色身如来は気づかせてくれる気がします。

 

とか偉そうなこと書きながら、オシャレ美容に全く無頓着で来た自身はどうだ_| ̄|○・・中年オヤジ今更から転換できる⁉

 

2023-09-21 01:11:00

彼岸の話① 金持ち喧嘩せず、のマネ!

 施餓鬼五如来のお話①

 

何故、施餓鬼の五如来か?当山では秋彼岸は特に行事は設けておりませんが、ご希望の信徒さんを対象に彼岸中一週間の施餓鬼を行ない、施主さんにも可能な範囲でご自宅でお勤めをしていただく、簡単ですが仏道行に同行していただく機会としております。

 

施餓鬼とは、書き出せばもう長くなるので当サイト内の記事をご覧いただくとして、この施餓鬼には独特の仏さん方が餓鬼の救い手として勧請されます。それが五如来です。

 

施餓鬼の時だけ登場する仏さんなので、坊さんにも普段は全く意識の外とされてしまいがちですが・・

 

この仏の働きをよく見て考えますと、そこには餓鬼という彷徨える霊魂を救い上げるだけあって、私達が苦を逃れて豊かさを得る術が説かれているように思うのです・・そういう解説には出会ったことがありませんけど。

 

そこで、当山では在家の方にも仏道行に触れて頂く彼岸に、用いている施餓鬼からお話ししましょう。殊に施餓鬼の施主様には知って頂き、一層の功徳利益ありますように。

 

☆第一【過去宝勝如来】

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施餓鬼五如来とは、金剛界曼荼羅の五仏が餓鬼道を救う為に変じた姿とされています。その筆頭が【過去宝勝如来】。

 

餓鬼とは、飢渇に悶える死霊と思ってもらっていい。この飢渇はどこまでも絶え間ないから、ひたすらくれ、くれ、の貪欲の塊

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そそ、三毒煩悩ってなんでしたっけ?・・貪、瞋、痴ですね。

貪りは怒りを生み↓

怒りは愚かさを生む↓

ので、貪欲は諸毒の根源。

 

濁世にがんじがらめの者を救い上げようとしても、境地とは心の反映でもありますから、まず悪趣なる心身の有り様を改善せねば引き上げなど叶わない。

 

そこで、過去宝勝如来

 

この宝部の仏は富貴円満の徳を持ちます。飢え苦しみもがく者に、高尚な話など聞く耳持たずですよね。

先ずは、満てる感覚を与えてやる

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豊かな仏という示唆は、与えることをつかさどる意

 

でも、仏教は与えるだけで良し/もらうだけで良し、とはしません。与えられたら次は与える、これがセットになっています。つまり、布施行です。

 

そもそも人というのは、行きつけば「自分が得るだけで満足」とはならない生き物。満ちる感覚には「他者へのやりがい」も欠かせない。ボランティアなんてのはそこを突いたいい例でしょう。

 

与えられ与えるというのが、人が満ちる本質。しかし、それは余裕が出来て知る感覚。苦しい欲しいばかりの内には思いなど至りません。だから「行」として課す、目覚めるように。

 

仏道には、六波羅蜜も四摂も筆頭には布施が配置されます。欲しい欲しいの貪欲を壊すには、手放すことを知らしめる。

 

そのことで貪欲とそこから生じる物惜しみ心を退治する。すると「諸毒の根源を退治」するのですから、仏への境地が一気に開けてくる、というわけです。

 

まあ「金持ち喧嘩せず」を真似しろ、ですね(^^;

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富貴豊かな仏布施行をつかさどるという示唆は、快く施せる人ってのは余裕がある意の裏返し。

 

行為と業はリンクしますから、

 

逆に、施すことで自身に「余裕がある人」という徳を形成することになる!

 

金持ちになりたいなら、先ず金持ちの習慣を/行動を真似しろ、と言いますよねww。

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救われたいなら先ず仏の真似、仏への第一歩となる布施を能所で行なわせる。それがこの如来。

 

前にブログに「仏教の一つの捉え方としては僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もある」と記しましたが、お一人からだけ反応がありました。「お釈迦さまが托鉢するのに、あえて貧しい村ばかりを歩いていた、とはそういう事なんですね」と。その通り

 

 苦しむ環境=業を持つ人達にこそ、布施の行ないをさせて、その境地から脱する一助にする、それが釈迦の狙い。布施を得る視点で見れば王族貴族のトコだけ行けば楽なのに、高貴裕福な人には頼まれた時しか行かなかったという・・

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行為には業が伴いますから布施の行動とは僅かながらも仏の業、そして余裕ある富者の業を得ることになるのです。

 

******

 

そしてまた、布施という視点でつくづく思いますのは「惜しいモノを手放すという行為の強烈さ」です。

 

節ごとに衣類の整理や部屋の掃除する際、使っていない品でもイザ捨てるとなると、自分に言い訳して躊躇しませんか?

親の終活にゴミ部屋状態を片付けようとして激怒されて手が付けられない、という話も随分多いようです・・

 

それほど人間にとってモノを手放すというのは「日常を壊されるほどの恐怖」を伴う、ということ。

 

逆に言えば、その恐怖を乗り越えて手放すことが出来れば、ありきたりの日常を壊し、新しい日常を開く転換を得ること、ではないか!と。

 

思いますに、釈尊は約束されていた次期国王の座と酒池肉林の生活と妻子の全てを放棄して、山林修行に身を投じました。

 

弘法大師は、一級の頭脳と家系を持つ者しか入学が許されない都の最高学府の学籍と、約束されていた高級官僚の道を放棄して、山林修行に身を投じました。

 

約束された安定を捨てて修行に飛び込んだお二人が、古今東西を超えて尊崇される超人になったのはご存じの通り。

 

惜しいものを手放すエネルギーというのは、私達の想い以上に、新しい日常を切り開く力を持つのです、きっと。

されば、ちょっと前に流行った断捨離。ハマって生き方が変わったという人も結構いたらしいですが、それもゆえ有るコトかなと。

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すなわち、布施の本質の部分「業に流されるままの人生を打ち破るパワーを発揮させる」そんな所にあるのではないか、とも思うのです。仏教で筆頭とされる教えと言うのもそれゆえ・・

・・こんな解説は他で耳にしたことが無いので、私の独りよがりの確信かもですが(^^;

 

布施の話にまで踏み込んで長くなり過ぎました;まとめましょう。

 

☆惜しいを手放すというのはなかなか難しいアクションである一方、難しいからこそ、やれた変化は己の殻を打ち破る大きなものとなる

 

☆惜しいモノを快く手放すというのは「豊かだから出来る」行ない=それを行なうことで「豊かだから出来た」という業を手にする逆手もある

 

 

 もっとも、施す対象が、善意に付け入ろうとするズルい輩とかくだらぬ者とか新興宗教や、自身を蔑ろにして行なう施しでは、ゴミに捨てた方がマシ、ってなりますから、よくよく見極めるのは大切ですけどね。

 

世の中も仏道も、一方通行ではありません。押してダメなら引いてみる、形から入ってみる、出来ぬ者には真似をさせる、すでに出来ている前提で動いてみる、自分を捨てるのでなく自身の代わりを捨ててみる。出来ないと決めつけず、ものごとを動かすとはそういうこと。

  

苦しいと言いながらそれに執着する自分をムリヤリにでも手放せ強く善く豊かな者のマネをしろ・・どん底を打ち破るファーストステップ、それがこの仏の神髄であろうかと。

 

 最後に、私が霊符の伝授を受けた際の阿闍梨さまの言葉「与えなければ、与えてもらえない」「与えずして得たモノは必ず奪われる」「まず、与えることが優先だ」世の中とはそのように出来ている、と。「与えた者は、与えられる」のです。

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2023-08-31 22:19:00

あなたの知らない、けど知れちゃう世界~

夏といえば心霊番組、は今は昔のようですね・・

まあ、いかにも胡散臭いモノもありましたから、コンプラバカな今時にはムリなコンテンツになってしまったのも時代でしょうけれども。

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でも、見えざる存在への畏敬というものを欠く、一端となっている気もしてそこは残念な気もします。見えないだけで、そういう影響まで失せるわけではないですから。

 

そこで盆月にそういう話をしないでしまうのも何ですから【見えざれど存在する実例】を、些かお話ししましょう。

 

当山では「鳴り護摩」という、修法も行ないます。経験されている方々はご承知の通り、祈祷で釜から音を鳴らすのですが、邪気や不浄がある場では音が止まる、祓うとまた鳴る。という、その場に参列している人にも不思議かつ目に見えるお祓い、です。

 納めの大師

出張祈祷には基本コレを用います。すると時折、異様な事態に出くわします。

 

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ある家のお祓い、ハンガーにかかっている洋服で鳴りが止まる。そういうことは往々にありますが、この服なんか強いね、と。するとその人は何か気付いたように「コレもお願いできますか」と数着集めてきて。かけてみるとその全てが止まる。その他の服は鳴るのに(((;゚Д゚))

 

すると「この服、すべて同じ知人から頂いたモノなんです・・」まだタグが付いた未着服までこの有様。震え上がったこの人は、全部処分したそう。他にも止まるような服には、※※や※※という事情があったりする。 omen_hannya.png

 

また、なかなか祓えない場所などは、その周囲にあるこだわりが窺える建具や置物などをお加持すると、祓えたりもあります。聞くと、旦那が中古屋で一目ぼれで買ってきたとか、親が執着するお気に入りだった、など・・

 

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お祓いを頼まれた中古物件、状態はとても良く立派、前住者の凄いコダワリが窺える邸宅。しかし至る所で釜が止まる。ほとんどが「特注と思しき建具」の場所。いずれもなかなか手強く難儀・・これらは全部捨てて替えた方がイイね、後は大丈夫でしょう、と。

 

リフォームの構築鑑定もされて、リフォーム後にもう一度お祓いをとのご依頼。前回撤去を指示した建具は全て入れ替え。果たして、まるでリゾートホテルの部屋のように改装なったそのお宅の鳴り護摩は、ズバッと爽快に全居に響きました。
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車をぶつけられた人、それ以来家族から見ても何か変だという。個別のお祓いをご依頼されたので、常にはお護摩ですが感じる所があって鳴り護摩で。 sick_kurumayoi.png

釜を車に入れると、助手席で完全に止まってしまった。通行人や信号待ちの車の衆目に晒されながら加持を行なうこと10分か20分か・・なんとか祓い切った。その後はご本人の様子も復調されたそう。

ぶつかった折に、何かが飛び込んできて、ずっと助手席に座っていたのでしょう・・

 

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仕事と場所柄、死霊が入り込んだね、の家案の定、ソコは止まる。常の祓いではダメか、と思いつつも加持するがやはりダメ。

 

仕方がない、と※※を用いてみると立ちどころにソレは去り。施主さんはその有り様にお不動さんの威力を見せられた、と驚かれ。 hudo.jpg

 

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キリ無いのでこの位にしておきますが、言えることは【モノにも鬼霊は宿る】ということ。障りになってるということは、念を超えた鬼邪状態(((;゚Д゚)) また、やはりというか人形や鏡などは古来言い伝えるだけのことはあるな~、いつもと思わされます。

 

こういうのが身に染みてますから、個人的に私は古着や古美術など買いませんし基本、中古品屋にも行きません。他にも以前に※※業者の話なども聞いてますし~その仕事してるとアッ、これは;;と分かるそうで(◎_◎;) 

 

せめて、中古品を用いるならふきとりで拭く位はしておくがイイですよ。中古品商売されてる人は今日はいませんけど時折、お祓いはしておかないとね。

 

それから、中古車や中古住宅は必ずお祓い必要ですよ。大きな買い物であり、身体や人生の一部であるも同然、残留するモノも強いものです。というか祓い切れないモノもありますから、そういうのは買う前に先ず鑑定。それが賢く災いを避けるやり方。

 

そして、鳴り護摩をしてつくづく気づかされることがあります。

 

それは【執着というものは、実体化して命を宿す】ということ。仏教がやりきり脱執着を説くのは、釈尊はコレを見抜いていたんだね~ youkai_hitodama.png

また【生命というのは、あらゆる場所に、あらゆる形で存在している】ということ。

 

鋭い人はお気づきですね、そう、「三界万霊」なのです。盆供に参拝された人に話し、回向頂いた三界万霊とは、そういう存在も含んでのこと。陰に陽に吉に凶に蠢くそういうモノたちへの施し。然ればそれが廻って功徳力となる意は、なんとなくお分かりでしょう。

 

見えないものを侮っては、人生に大きな損失だ、というのはそういう訳です。参拝の皆様には自明でありますが。

 

しかし、他寺様の法会に手伝いにいっても子や孫を連れて来てる人などほぼ皆無、それが今時らしい。若い人が見えざる存在に触れる機会を、ジジババ大人が奪っている。それは、若い世代の生きざまに大きな損失となりましょう。盆供にお子さん同伴で参拝された方々は、賢明な御人ですヨ。

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次の世代を案じるなら、盆や彼岸という機会にはどうか若い世代も伴なって、ご先祖さんも通して冥界という存在に触れさせて頂きたいものです。それは彼らの為だけでなく、ご自身の後生安堵の保険でもありますよ。

 ※8月28日の法話の部分掲載

 

 

 

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