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遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
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2024-03-31 21:49:00

明こそ得べし!

いまだに岩手出身とは到底信じ難い、世界の大谷選手。野球に関心の無い私でも、さすがにその動向は気になるところでありますが、移籍に結婚との目玉話題すら霞んでしまうような水原騒動・・その被害の桁外れっぷりもさすが大谷というべきかどうかですが、好事魔多し、とはよく言ったものです・・

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それにつけても水原氏は英語の教科書に乗る予定だったとか。教科書会社の執筆見識などそんな程度だったともバレてしまいましたが、現状をちょっと加筆すれば倫理の教科書には使えるのかも(失笑)

 

さて、この水原騒動を聞いて「虎の威を借るキツネ」の言葉を髣髴した人は多いと思いますが、私もよく似た易経の言葉がとっさに頭をよぎりました。易に嗜みがある人なら、たぶん誰でもそうだと思います。実践ではその卦辞を得た場合、何も無く済むことは無い。良くて危ない思いは免れないし、悲惨な結末を見る事が多いもの。「やましい所がなければ良いのにね」までピッタシww

 

で、その易の辞には「その思考は明とするに値しない」とあるんですね。「明」とは、物事やモノの道理が見えていること。英語ペラペラでスーパースターの相棒として活躍し、5~7千万円とも推定される年棒を貰って教科書に採り上げられようとしていた超有名人にして、人生の『明』は全く欠いていた、ようで・・

 

では、明が失われた状態・・反対語は何でしょう?・・無明、まんまですね。そうです、仏教が苦しみの根源とする「根源的無知(無知とは知らないではなく正確には絶賛なる勘違い」を「無明」といいます。水原騒動で私達は図らずも「無明が人生の破滅を招く」実例を見せられているようなもの、かもしれません;

 

この「無明」を打ち破って「明」を得んとするのが仏教。その為に八正道、四念処、12因縁、六波羅蜜、四摂etcと様々な修行が説かれる訳です。が、その修行は容易に非ず、終いには成仏には劫(無限に等しい時間)が必要、というのが共通認識になってしまいました。

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 ※ちなみに、億劫(おっくう)の言葉はこの「やる気すら失うような永い時間」が語源とかw

 

でも、幾度も輪廻を繰り返す中で修行を重ねてようやく「明」が得られるとは・・そんなじゃ誰も救われないじゃん;しかし、釈尊には「真実語者」という尊称もある・・そして、

 

いかんが衆生は仏道を去ること甚だ近くして、自ら悟ること能わざると。故にこの因縁を以って如来、(中略)不思議法界を用いて、(中略)自在に加持して真言道を説き給う】(大日経疏)

 

真言道によって、仏道の「明」は一気に身近に開かれることになったのです。皆さんの目の前にも。すぐお気づきですね、そうです、不動明王の『明』です。そもそも「明王」とは何?・・これは真言のこと、真言の威力を強烈に体現する仏を明王と呼びます。
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真言の訳語の一つに「明呪」と言います。これはvidyaの訳語で、古代インドでは学術や知識技術や呪術は一体のものとされ、その集約の明呪とは、人間の智恵を明らめるもの、でありました

 

そして既述のように釈尊は「真実語者」とも呼ばれたように、仏の智慧も明呪として構成されます。その展開によって、掴みどころのなかった「仏の智慧」は修行者のみならず、一気に大衆まで救い得る力となった。それが仏道で「末世極悪の衆生を救えるのは陀羅尼門=真言道のみ」と説かれるワケです。

 

  ※と言いましても、真言門は仏道のアクロバット技みたいなもので、機根がない人には謂わば、小学生にウルトラC級技をさせるようなものでリスクが大きい、彼此共に。ですので密教は、古代インドでは大乗の諸仏教を修めて更に修行年数を重ね、その上で機根を認められた僧侶だけに許可された法門で、修行なき在家の人に易々と開かれたものではありませんでした。それを思うと今、真言を授かってお唱え出来ている、とはそれだけでも実には「会い難い」縁ですよ。

 

 ところで真言は、お祓いに祈願に供養にとご利益があるのは皆さん経験お有りでしょうけれども本質的には、申し上げた『明』、仏の智慧が込められた、悟りの理を明らめる呪であります。ご利益は副産物みたいなもので、仏果へ通達する為の威力こそメインの力。

 

古代インドのvidyaには学術知識など集約された意があると申しましたが同様に、明呪にも膨大な意義と力が込められています。正御影供に、真言の持つ大きな功力6つを紹介しましたが、総じて弘法大師は「一字に千里を含む」と申されました。ゆえに、本来的にはその真言を唱えつつ文字を観想する、のが行のスタイル。

 

唱えるだけでも験は得られますが、その梵字をイメージしながらお唱えされるなら仏智にも通じやすくなる。そしてそれは、難しいこと分からなくても、仏道という「明」を得る道でもあります。

 

如何に勉強したって全て頭に入るワケなどないですし、どんなに学んで分かった気になっても、偉そうなことを言っても、迷い、間違い、失敗を繰り返すのは自然なことです、人間だもの(^^; やることに全然ミスが無い人ってのも逆にコワいw
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ですが、無明に覆われたままでは、それは人生の苦しみで不幸であるという、釈尊の言葉もまた真実。無明では、名誉も栄華も、逆に己を追い詰めるファクターでしかなくなってしまう証明を世界的ニュースで今、見せられています。

 

知恵にも行動にもそんな賢明になれるわけじゃない私らですが、真言という明呪に出会っている、用いて祈っているという縁があるというだけで、皆さんには「無明」を無明のままにしておかない、意識せずともそれを打ち破り「明」へ向かう力を得ているのです。それだけでも幸運というもの。お参りされている皆さんには、少なくとも水原ばりに目は冥く倫理感まで崩壊する人はいないでしょう。それが信仰の有難みでもあります。

 

どうにもならない場面でも、冥みに突き進まぬように、明を得るように。当山では高野山式に則ってお葬式の棺にも真言を書きますが、明呪の力とは有り難いものです。皆さんにおかれましても、真言に霊験や救いを祈るのは結構ですが、それだけではなく、己の目を開くように、仏の智慧を頂けるようにとも観じてお唱えされてみてください。
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仏道に近いのに迷いの闇に溺れるのはナゼ?、その壁を破るために説かれたのが真言道です。あなたの引き出しに隠れている日輪を引っ張り出し、覆う雲を吹き飛ばし、闇を消退させるもの、それが明呪

 

曰く、真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く (弘法大師)

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いつもお唱えされているご真言でしょうけれども、少しこういう視点も加えてみてください。されば一層のご加護に、日々の生活に更なる「明」も開けてくるに違いありません。そうして新たな知見視野を得られまして、心身ともにより充実した新年度にしていただきたく、願います。

 ※これは3月28日の法話のなんとなく思い出し書きです;

2024-03-12 22:01:00

真の延命はダイヤの如く

十二支の年毎に「守り本尊」が設定されている、のはご存じでしょうか。神仏に縁の薄い人は生年の守り本尊を信仰すると良いとされ、昔の人は盛んに言ったようです。が、今時は知る人も少ないようですから、一寸ご紹介。

 

 ・子年/千手観音 ・丑寅年/虚空蔵菩薩 ・卯年/文殊菩薩 ・辰巳年/普賢菩薩 ・午年/勢至菩薩 ・未申年/大日如来 ・酉年/不動明王 ・戍亥年/阿弥陀如来

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 ところでこれは何が根拠なのか?調べても不明でしたが、宿曜道講習の最後に付随して習った占いに、これが根拠と知りました(私も忘れていましたが宿曜講習ノートを見直し中に、書いてたのを発見;) 江戸時代まで主流だったというこの占い、一応学んだものの煩雑に過ぎて私は用いていませんが、「十二支守り本尊」にはヤミクモではない一応の理があるようです。

 

 ところで、昨年末の新聞広告に不動明王座像。も、首から上が竜、尻尾もある奇怪な姿・・辰年に辰不動尊/護摩祈祷済/開運厄除に!の宣伝句を見て、仏も大衆もバカにした商売、不動尊には倶利伽羅という竜身もあるのに、辰年は普賢菩薩だろうに脈絡もない、と憤慨してブログに記して、ふと気づくことが。

 

 そういえば普賢菩薩、当山では大きくお祀りしてるよ・・(^^;でも祈祷などでPRした事なかったなぁ~と。太元堂の脇仏である普賢延命菩薩、それです。この仏は、普賢菩薩が延命の三昧に入った姿であり成仏した姿、であります。

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 と言いましても普賢菩薩自体、釈迦仏の脇侍程度のイメージしかない・・ですが、実は仏教ではとても重要な役割を担っている仏様でして。辰年は語るに好い機会ですネ。

 

 全ての仏さまは「誓願」という、各々「悟りと救済の誓い」を持っています。そして、そのあらゆる仏の誓願とは、普賢菩薩の十大行願に集約される。つまり、仏の誓いとは普賢菩薩の誓いに他ならない。その誓いを身に体していくのが仏道修行。皆さん何気にお唱えされている仏前勤行次第の前半ラストの三昧耶戒真言は、他ならぬ普賢菩薩の真言なのであります。

 

 この菩薩の本領を発現した姿が普賢延命。釈迦涅槃のもう一つの物語には、降三世尊に踏殺された大自在天を蘇生し潅頂して曼荼羅に引き入れたのはこの尊であり、金剛界曼荼羅を一身に具現するのもこの仏。また、生老病死という釈迦が喝破した四苦を調伏して、不壊なる生命の境地=金剛寿命を得せしめんとするも、この尊の働きです。

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 世間的にはあまり知られない仏と思われますが、弘法大師がこの尊を重視されていたのは知れます。真言宗の最高厳儀・後七日御修法にはその真言を用いることが定められていますし、この尊の体現する金剛寿命=【不壊なる仏の生命で活動する境地】を、大師は「虚空尽き、涅槃尽き、衆生尽きなば、我が願いも尽きなん」と申して断食断水の肉体改造を行ない、人生の仕上げに入定という形で具現されました。

 

 余談ですが、以前にも記しましたが、愛知のお坊さんの著書の【大師の梵字<ユ字>は弥勒でなく、普賢延命の梵字と考える】説には全く同感です。

 

 悪趣に俗死した者を、新たな命に蘇らせて仏智に引摂し、普賢行願による自利と利他の菩薩行に向かわせる・・生者にも死者にも亘る弘法大師の入定の誓願は、まさに普賢延命の働きそのもの、と言えましょう。

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 日本仏教には各宗に祖師が居られます。しかしその誰もが、日本で自己解釈で宗派を立てて病気老衰で死んだのに対し、インド仏教の最高権威が到達した大乗仏教の頂点の系譜を直に引継ぎ、肉体滅びた後も普賢行願に活きなん誓願し、準備し、定に入ったのは、日本仏教に祖師多しと雖も弘法大師ただ一人であります。

 

 則ち、弘法大師を祈るのと他宗の祖師を祈るのとは、全く別物なのです。大師に祈るとは、その不壊不死なる誓願に、死者には金剛寿命の光明を、生者には普賢行願による同行二人の寄り添いお助けを得ること、です。

 

 仏道を歩みゆけば往くほどに、その志す先は「往生」なんて漠然とした願いではなく、仏の生命と同一化(顕現)した「不壊自在なる金剛寿命」という境地たるべき、と思うのです。金剛界曼荼羅は我らが仏へ昇華する過程も示していますが、普賢延命が金剛界を一身に表すとは正にそのことでしょう。与えられた命を漠然と安っぽさに預けるな、こういう高貴自在な境涯があるのだ、と。

 

 釈尊は成道して何と言ったか・・【不死が得られた】です。肉体的な延命はそれはそれで結構でしょうけれども、そんなこと以上にこの「ダイヤの如く不壊にして輝き、時空を貫く生命の境地の体解」それこそが悟りであり、真に生き永らえる延命であり、普賢延命尊のいざなう所。

 

 信仰とはそこに辿り着く、せめてそこに触れようとするものであってこそ、真の価値たると思ったりしますね。仏教に限らず古代インドの修行者たちは、誰しも延命することにも気を配っていたそうです。それは【命長らえて出来るだけ多く修行を積み重ね、生きているうちに境地の成就を、たとえ今生では無理でも、生まれ変わったら速やかに神位を成就する為に】であったのだとか。そういう視点があってこそ「延命」は意義を持ち、輝くのではないでしょうか。

 

 しかし金剛寿命の境地が容易なことではないのは、普賢延命尊の扱いを知るだけでも伺えます・・でも、そういう仏を知り得た、それだけでも彷徨いの壁は一つ破られたことになりましょう。でも、まだ遠い・・しかしその距離を縮める術があります、他ならぬ弘法大師その人です。

 

【ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ居わしますなる】と詠んだのは天台宗のトップ、天台座主慈鎭(慈円)僧正でした。普賢延命をその身に顕現して誓願し、千年以上も全国各地で宗旨に関係なく霊験を顕し続ける大師が居る。その差し伸べられた手に掴まろうとするならば、私達もご先祖達も安心立命は近くなる、というものでしょう。

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3月21日は大師が予告し入定した日にして、その恩に報い、誓願に祈りを託するに尊き日です。後世を救い摂りたいというお誓いは今に活きています。ご自身への同行二人、そして先祖・故人への同行二人の援けを祈るに如かず、です。

※この記事は寺報73号より転載加筆

2024-01-11 22:49:00

至誠動天

後七日の愛染王祈祷、一人黙々と修していて、ふと「そこ、違うだろう」と語りかけられ。

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びっくりしつつ、よく考えると、あ゛~確かにそれでは理に適わないわ!と気づき。

 

ソコを修正して行じると、何か通りが良くなったようなお護摩となりました。

 

密教の法は、インド由来の儀軌を編集した「お次第」と言う、修法のテキストに基づいて行ないます。このテキストは伝授によって教わるもので、授かった通りに行じ、授かった通りに弟子へ伝える、ということが厳しく定められています。

 

自分の都合や思惑で勝手にいじることが許されない、そういうもの。

 

 

ですが、人間だもの~(^^; 明らかに間違っているよね、という部分もあるのです。それも伝統だからと引き継がれる世界;

 

江戸時代の傑僧・浄厳律師はそういう在り方を是とせず、あらゆる次第を儀軌と梵字悉曇に照合して間違いを修正するという大事業をなしましたが、結局それは一つの流として扱われるだけ、でした。それほど「受け継がれたこと」自体を重視する伝統があるのです。

 

たしかに、感得などの口伝である場合もあるので、正規と違うから間違い、とは言えない部分も多々あります。そこが難しい所ですが原則、授かった通り。※私的には、明らかな間違い箇所は他流と照合して修正して行じてますけど

 

話が逸れましたが、上述の今日示された「違うだろう」とは、お次第に記されているある部分。一瞬、何のことか分からなかったのですが、よくよく考えると確かに記されている様では理が通らないわ、と気づかされたのです。

 

しかし、私が授かったいくつかの法流に於いても愛染王次第のこの部分は皆、共通している・・;

 

愛染法は難しい、と言われます。それは、煩悩即菩提が悟りの更に奥の深旨であることや、観想が難儀など思われますが、それだけじゃなかったね~

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それじゃ届かないよという部分が、伝統のお次第に、愛染の拝み方として記されてしまっている・・そりゃ難しいワケです。

 

愛染王から示されたのですから、私的には今後この部分は変えて拝むことにしました。

 

太元帥明王は私的には頻繁に修していて、折にいろいろお示しをくださる事があります。一方、愛染は密教の最奥の仏。拝んでいて難しいし、そうたやすくはない仏さんだよな、と思っておりましたが・・後七日愛染は、願主祈願も行ないつつの、7座の集中祈祷。

 

難しい仏であっても、丹誠を凝らして正しく祈る所には、必ず感応を現実に与えてくださるものです。

 

祈願の願主には「どうか本年の願い、成就を援けてくださるように」でありますが、私的には正月早々から大利益を頂いた気分です。

 

「至誠天地を動かさん」と我が母校の校歌の文言を思い出しました。至誠動天、は母校の1スローガンでもありました(^^;

 

ところで、あなたのその祈り/行ないは「丹祈」というに、ふさわしいものでしょうか?

真っ当なる祈りに於いて適っているならば必ず通じ、何かしあなたへの必要を援けてくれる働きがあるものです。

 

2023-12-08 23:26:00

臘八

12月8日はお釈迦さまの成道日、ということになっている。

 

今日は阿閦法にしようか~と考えたが、釈迦法で行法をお勤め。降魔成道の禅那波羅蜜に思いを馳せて。

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釈尊は12月1日から不眠不休で禅定に入り、8日未明の明星に得悟した、という伝承が一般的だ。

 

そういえば禅宗では「臘八接心」と言って、12月1日から8日まで座禅三昧と聞いたことがあるが、この故事に倣っての事なのだろう。※臘八とは臘月=12月、の8日

 

当山では12月頭から年末施餓鬼として、希望された施主には昨日までの一週間、ご自宅でも特別なお勤めを同行して頂いたが、まさに仏道を行じて頂くには好機であると思う。施主各位には功徳増長あれ。

 

ところで、私共仏門が祈るのは歴史上の人物の釈迦ではない。「釈迦如来」である。坊さんでも分かってない人が多いようだが。

 ※歴史上の釈迦を祈る涅槃会や降誕会などは、追慕や慶讃をメインとする法式で、三密行とは異なるスタンスで行なう。

 

何が違うのか。「釈迦如来」とは、釈迦=ゴータマシッダルタが成道を果たしてその身に顕現された「悟りの法」そのもの、のこと。

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それは釈尊が「来て見よと示される法」=私達に遍く内在する法にして仏性、後に「如来蔵」と称されるもの、と理解してもよいだろう。

 

釈迦如来を祈るというのは、自身に秘められた光明を祈り顕さんとす、そのことに他ならぬのかもと思う。

 

ちなみに「釈迦」と呼んでいるが、釈尊は気安く名を呼んだかつての修行仲間に「悟りを得た者をかつての俗の名で呼んではならぬ、仏陀と呼びなさい」と諭したという。※これが戒名を用いるべきという由緒でもある

 

なので、歴史上の釈迦として扱うならば、「釈迦」の言いは失礼な話になるのだ。あくまで「釈迦が悟った法」に人格を与えたのが「釈迦如来」ということ、だ。

 

すなわち、南無釈迦如来と言う時、そこには歴史上の釈迦だけではなく「仏法そのもの」と「仏教を伝えきた数多の仏道修行者」そして「自心」までにも、帰依讃仰するものだ。

 

ちょうど南無大師遍照金剛と唱える時、そこには弘法大師だけでなく「真言密教を受け継ぎきた数多の行者」と「密法そのもの」への帰依讃仰が込められるように。

 

仏教は広大無辺な変化展開を遂げて来たが、他宗教と違ってどこまでも「人本位」でなく「法(ダルマ)本位」というのは堅守されている。

 

それは、釈尊の悟りの光明は、特定個人にだけ与えられたものではなく、誰にでも伏蔵していて本気になったら見出し得るもの、であるから。

2023-11-23 22:49:00

霊系

なんじゃコリャ?

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辰年だから龍とお不動さん合体させてみました~~ってことらしいが。

 

あくまで【オブジェやアクセサリーです】ならば何を作ろうといいのですが、ここでは【厄除け/守り/護摩祈祷済】と言っている。

 

それは、いただけませんね~この祈祷した寺も分かってないね。というのは。

 

密教では【儀軌=インド伝来の仏尊のテキスト=に無い仏】は【仏本体として拝めない】ことになっています。

 

というかその気になれば、キリストだろうとマリアだろうと天照大神だろうと、一尊法を作って拝めちゃうのが密教の行法。

 

逆をいえば、仏ならざるモノまで仏本体として扱いかねないリスクの方がデカい。末世愚鈍の輩がやりかねないそういう事態を予見してのストッパーが「儀軌外は無し」なのかもですが。

 

でも~という想定対応に、御本地供というものがあります。インド由来じゃない=儀軌の無い神仏を拝む時に、その本地=本体の仏を設定して、その本体仏の法を用いるというやり方です。教科書でも習った両部神道というのはその根拠として発達するのですが、異国神や日本の神様を拝む時のみならず、日本人であるお大師さんを拝む時も同じ。

 

ネット祈願

私ら真言行者がお大師さんを拝む時に、修法では中壇弥勒とか宝珠法などを用いるのですが、直にお大師さんじゃなく、そういう回りくどいやり方をするのも、インド伝来の「仏の在り様/扱いよう」を極めて尊重するがゆえ。

 

決して霊異相承や感得などによる佛神を否定するつもりなど毛頭ありませんが、【儀軌にない仏を作ってみました】なんて、少なくとも密教に関わる人間ならば認めて受け入れてはならないのが常識。

 

辰年だから竜を絡めたいにしても、そもそも、不動明王にはバトルモードとしての【倶利伽羅竜王】という龍身が存在しています。

サイト内記事には何度か書いていますし、太元堂では出現もしていますのでご存じの方もおられるはず。

 

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↑倶利伽羅竜王(花巻)

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↑お護摩に出現した倶利伽羅龍王(太元堂)

 

なのにあえて何故、お不動さんの頭を龍にして作って販売する必要があるのか。だいたい、辰年の守り本尊は普賢菩薩ってなってるだろうに、脈絡もない。こんなモノに祈祷を施すなど分かっていない寺だ、とはそういうことです。

 

霊系に全く根拠も繋がりもないこんな創作物に、どんな仏神が何の力を貸すというのでしょう?

 

経や儀軌を含め、インドから真っ当に受け継がれてきた仏の法には、俗な言い方をするなら「霊系」なるものが存在します。

 

正しく継承する者が伝え、正しく授かる所にこそ法に秘められた力は開封され、護法神も付き従う。だから密教は伝授を重視する。

 

日本を代表する書の達人「三筆」に挙げられ、筆の製法も伝え、日本初の字典まで作った文字の達人・弘法大師にして

「文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。真を棄てて偽を拾うは愚人の法なり」と申されている。

 

そこには、文字づらだけでは決して受け継ぐことのできない「仏の力を開封する系譜」の在り方がある、のです。

 

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ネットや本なんかで見聞きした真言や経など真似てみた所で、その霊系に繋がる(=仏に感応する)わけなど無いし、晒した方も真似した方も越三昧耶という成仏の妨げとなる法罰を蒙りかねない。私がネット上に真言を記さないのも、youtubeに理趣経をフルで垂れ流さないのも、そういうワケ。

 

宗派流派によって若干、真言の読みなどが異なったりする場合があります。例えば発音の違いは、真言系は中インド、天台系は南インドの系統の差などと言われます。が、どちらが間違いという訳ではない。

 

仏教の正統なる系譜から正しく自分が教えられたものならそれで正解。他と違っていようとも霊系の力は働くものです。

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正しく受法の機縁に恵まれた人は、それを持しているだけで仏法冥護に遇っていることを喜び自覚し、適う生き様を意識されるべきでありましょう。得体の知れぬ仏像なんぞに惹かれている場合じゃありませんよ。

 

話が脱線してしまいました(^^;

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