寺ブログ by副住職
タイトルに悩みすぎ;
お護摩を焚くというのは、傍目以上に周辺物品の消耗が激しいです・・お経だけ唱えている寺には存在しない、出費が。
このド不景気と物価高騰で苦しんでるのは皆さんだけじゃない、拙寺も同じ( ;∀;) も~グチになるから書きませんけど。
でも一寸だけ・・護摩木も塔婆も2 年連続で原価値上げ、送料も値上げと来た;住職判断でとりあえず【盆供も護摩木も据え置き】としましたが、正直キツイ。
当山の護摩木はヒノキを使っています。護摩木として一般的なスギにすれば原価は下がりますが、ハネやすいので壇も内陣も狭い当山では危険すぎ。【供養物】でもありますから質を落とすってのも・・せめて日々焚くに要る分量くらい申し込みがあると助かるんですが;
不足をすぐに仏具屋を呼んで買えるお寺はイイですが、檀家なき祈祷寺は、可能な事は自力でやるっきゃない(^^;
散杖。水を灌ぐ棒。護摩壇で毎日使っていると、折れたり焼けたりで時々交換。
乾燥させておいた梅の枝。曲がりを矯正します。
が、これが半端なく堅い!
クソ暑く湿度の高い中ですが、ファンヒーターで温めながら曲げ続け。
真っすぐなったら、節を削る。が、これまたとんでもない堅さ!彫刻刀で攻め。
そして変色した表皮を削ります。
最後に、流派別の加工を施して完成!
ちなみに市販品を買えば一本3000~15000円(;'∀') これ、密教寺院相手に商売した方がイイんじゃねww
破れた袈裟の修理。
どういう訳か、紋白はやたらと糸が細く破れやすい・・
昔、普段使いにしていたことがありましたが、すぐボロボロなって挙句衣屋は「修理できない」って。
それ以降、普段使いには簡素で頑丈な袈裟を用いています。
破れたら新しいものを!ってさ、簡単に買えないお値段だよ・・檀家らに買わせる前提だよねェ;
まあ、糞掃衣が本義ですから、自分が糸通して修復してやっと本物になるのかもと、思ったりしつつ。もう、糸二重にしてガッチリ縫う!
で、袈裟を布施したり直したりするのは積善功徳になると申しますが、コレって己の福田に己で功徳積んだことになるのかしら?
仏教の一つの捉え方としては、僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もあるので。
いや、春先に本堂用お参り椅子10脚をご奉納くださった御人がおられますが、こういう人は稀でして。
功徳を積ませて欲しいなんて人は、今時ほぼお目にかかりませんから、気にすることじゃないか(失笑
って、書いててなんか哀しくなってきた・・。
まあ、一部の上級国民を除いては、厳しく苦しい世情であるのは皆同じということ。こういう時代に生きねばならぬのも私達の業でしかない。
そういう時代の業に飲まれ流されるまま行くか、信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行くか。
経費高騰で毎日の寺護摩も厳しい状況となってきていますが、こんな世情だからこそ【信仰と仏の力を以って己の業をその中から救い出しに行く】人には、何としても霊験と救いを与えて頂かねばならぬので、祈る部分はケチらずに、その他削れる所は自力でなんとかしているワケです。
苦しい時こそ、人の本性が表れると申します。何を取り、何を捨てるか、の選択が迫られる生活ですが、肝心な事や心は捨ててしまわぬよう、貧すれば鈍すとならぬよう、この夏は意識したいものです。
飯の食い方でバレる⁉
ご飯食べた後、なんて言いますか?
・・「ごちそうさま」
当然だと思っていましたが、ネット上ではそのコトでちょっとザワツキがあったようです。
問題はツイッター(9年前に投稿されたものが何故今?ですが)で、【牛丼屋で、所得の低そうな人ほど、食べ終わった後に店員にごちそうさまを言う】という趣旨。
これに様々な意見の応酬があったようですが、2ちゃんねる創業者のひろゆき氏が「収入億超えてるけど低所得なのかな?」と次いでXjapanのyoshiki氏が「ごちそうさまって言います・・収入億あるけど」と反応して、趨勢は決したようなもの。
これは「所得」の問題ではなく、「育ち」の問題(笑
近年のyoshikiは上品になり過ぎて・・30年以上ファンやってる身としては;いや天皇即位曲作ったりしてるし、ヘビメタの中の上品さがウリだし、呉服屋の息子だからいただきます言うのもyoshikiっぽいが、昔の過激さは~やれる歳でもないか~
そもそも「いただきます/ごちそうさま」ってどういう意味か、ご存じですか?
いただきますは「命を頂きます」なんです。
私らが食べているものは全て「他の生命」です。動物は言うに及ばず、植物だって生き物でしょう。他の命を喰らわねば生きられないのが、私たちの宿命。化学合成で出来た食材などもありますが、そればかり食っていたら健康など保てやしないのは自明。他の命を食らうことで、我々は生かされている。
「いただきます」とは、その事へのねぎらいと思いを呼び起こす言葉。
では「ごちそうさま」とは?
ごちそうは「御馳走」。日本史をされている人ならお気づきですね。馳走とは「供応の為に走り回る事」、料理をするためにあちこちを走り回って手間をかけること。
おにぎり一つとってもそれが食卓に出て来るまでには、配膳する人がいて、握る人がいて、ご飯を炊く人、食材を加工する人、運搬する人、調達する人、売る人、生産する人、生産者の材料や機材を作る人売る人etc・・と、どこまでも際限ない人の手がかかっている。今それを口にすることが出来るのは、天地の恵みと数多の人々の手を経てこそのコト。
※密教で言う四恩の衆生恩とか三力の法界力もコレに準じると分かりやすいかな。
食べ物が貴方の口に入るのは「自然なこと」じゃないのです。限りない手間をかけて、最終的にはお母さんお父さん/飲食店員の手で貴方の為に誂えられたもの。その事への感謝が「ごちそうさま」の一言。
食材とその提供への手間に感謝を込めるのが、いただきます/ごちそうさま。
そして、このように食事に感謝とを込めるのは、人の人たる道でもあると思うのです。
と言いますのは、食事にかくも敬意を想うのは「動物の中で人間だけ」ですから。食を【エサ】としか認識できない他のアニマルとホモサピエンスの決定的な差の一点は、ここにある気がします。
つまり「いただきます/ごちそうさま」は、人間としての「育ちと品格」が表れる言葉。
ちなみに仏教では、いただきますに相当する、食事の前に唱える文があります。五観偈として有名なのでご存じの人もおられるでしょうけれど、軽く紹介しますね。※宗派によって若干異なりあり
1 功の多少を計り 彼の来所を量れ
2 己が徳行の全か欠か 多か減かを忖れ
3 心を防ぎ過を表すは 三毒に過ぎず
4 正しく良薬を事とし 形苦を救わんことを取れ
5 道業を成ぜんが為なり 世法は意に非ず
堅苦しい文章なので、分かりやすく私訳しますと、
1 この食事にどれだけの命や手間がかかってるかを想え
2 この食事を頂くだけの価値が自分にあるか考えよ
3 少ないのマズいの無作法と煩悩をたぎらすな
4 身体を保つために頂くという分際を忘れるな
5 目指す所に励む為に食うのだ、世間体とかダラダラ生きる為じゃない
思いますに「いただきます/ごちそうさま」の言葉には、この五観が濃縮されていますね。これほどの感謝と自戒がこもっている、と思えば、いただきます/ごちそうさまの一言は、人として如何に重みをもつ言葉か、と思います・・
以前に「給食費を払っているのにいただきますなど言わせるとは何事だ!」と怒鳴り込んだアホ親のニュースがありましたが、今や、公共の場で食材を穢してネットにアップするバカ共がワンサ;食事に対する感謝と敬意が躾されていたら、こんな真似はやらないはず。食を蔑ろにしたサルみたいな躾のツケは検挙と巨額の賠償金。しっかり懲りるがいい。食の持つ重みを侮った報いだ。
習慣は言って聞かせたからと、身に付くものではありません。見るように慣れるのです。そして慣れるように慣れる。親たちが率先していつもやっていれば、それが当たり前になります。五観偈は行中でもなければ普段は唱えてませんけど、思い出すとスラスラ出てきて我ながらビックリ。身に付くとはそういう事でしょうね。
子供たちが外に出て、そういう挨拶が自然に出来ているかどうか、で、見られるのはその親の質です。そしてその子の品格です。
先ず隗より始めよ、ご自身は出来ているか、そしてお子さんお孫さんに見せているか、意識されてみてください。
挨拶なんて減るもんじゃない。食事の言葉、感謝の言葉、ねぎらいの言葉、日常に発していれば食べるものからも関わる環境からも、更なる恩恵が受けられるに違いありません。それこそ貴方に加えられる法界力です。
※6/28の法話を整理したもの。先にこう文章に整理してから話せって毎度;
魔所
前回の水死霊の記事は、先日御礼参りの話をたまたま記しただけであったが、その日、皆さんもご存じの通り水難事故のニュースが相次いだ。
アメリカではタイタニックを観光の潜水艇不明、日本では沖縄でスキューバダイビングの7人が一時行方不明と。
沖縄の事故は幸いに全員無事で済んだとのことだったが、続けて次のニュースは「ヘリ墜落殉死自衛官の合同葬儀が行われた」。何とも言われぬものを感じたのは私だけではあるまい。
そう、陸自ヘリが沖縄海上で墜落して10人死亡4人は未だ見つからず、の件だ。
スキューバの一行は気にもかけなかっただろうが、沖縄の海に10人が散って発見すらされぬ隊員がいる、その葬儀の日に沖縄の海でダイビングに興じて遭難するという・・
タイタニック遊覧事故。米海軍が実は連絡遮断直後に爆発音を感知していた、と悲劇で幕が下りた。深海4000mに眠るその船を見に行くツアーがあるとは驚いたが・・
報道では、以前に安全性に疑問を呈した従業員がクビになった、からの、ルール違反をした/やってはならぬカーボンで製造した/ルール違反をする者こそ歴史に名が残る云々と、CEO自ら神経を疑う発言をしているようで・・寸部の狂いも命取りになるという観点自体を欠いた潜水艇であったかもしれぬ。
それはそうとして、私的には「タイタニックを観光ツアー」という神経自体が理解できない。
そこは、自分が死ぬことになるなど微塵も思いもしなかったセレブら1500人が、怨嗟のなかで死んでいった墓場だ。死ぬ覚悟が出来ていた軍人軍艦どころではない「恨念」が強く残っているであろう「魔所」だ。
たとえ慰霊や調査という目的であっても、リスクの方が遥かに大きいと思う。それを【観光】とは・・
海の藻屑と消えた1500人のセレブの残骸を、3500万円かけて観光に行ったセレブの果て。潜水艇操縦士の妻は、タイタニック号乗客で最後まで船に残り海に沈み、映画タイタニックの中でもモデルになった犠牲者の夫妻の子孫であったという。これがただの偶然、と思う人など果たしてどれ程いるのだろうか・・
爆縮というそうだ。凄まじい水圧で一瞬に潰れてしまうらしい。水死は断末魔の苦しみが激しいという。一瞬死ならその苦は無いかもしれぬが、自身が死んだ認識も無いのではないか。あまりに深く暗すぎる深海で肉体を喪ったその魂は、どこへ行くのだろうか・・
とっくに爆縮していた時間以降に、30分おきにキャッチしたという「船体を叩くような音」とは何だったのだろうか・・
【魔所】は存在する。面白半分に踏み込んではならぬ場所はある。アナタの知らない世界のような番組が姿を消し、どこでもスマホが繋がる。日常からも畏れが消えたのでしょうかね。聖域やいわくつきの場所、また大勢が失われた地にも平気で土足で踏み込んでも、何とも思わないのかも。
ですが、こっちを見ている「向こう」は存在する。生き物にはテリトリーがある。見えないだけで神にも鬼霊にも。そこを忘れちゃいけない。
ついでにかつては【山中他界/海中他界】という言葉があった。山や海は【向こう側】が優勢な領域だ。そして前回ブログに記した通り。ことに、水に業苦を受けし霊魂など軽んじては危い。怖い話に触れたことがある皆さんなら、溺れかけた人の足に手形がついていた話など、幾度となく耳にされているはずだ。いくら大富豪だろうと冒険家だろうと、向こうには関係ない。
【触らぬ神に祟りなし】人として最低限の敬虔さは持っておきたいものだ、と思わされるニュースでした。
ついでに、潜水艇の名「タイタン」は、ギリシャ神話で「地底に封じられた巨人」のこととか云々・・この事故はどこまでも救いがなかった、魅入られてしまっていたのか、と世界中がため息をつくしかないのかもです・・
あなたの知らない、月とスッポン
難病になって口を開けば「死にたい」とばかり言っていた子供が、供養してからそう言わなくなったんですよ!と御礼参りの人。
鑑定時に「お宅に水死のホトケあるね?」と住職が尋ねると、お祖父さんがそうだと。山から材木を切り出し川で運搬する仕事中に堕ちて、とのお話。この人の鎮めがなってないのがまず問題だね、と当山で供養されました。
供養法要の後、お話をさせてもらっていると施主さん、唐突にこんな話を「私、小さい時からいっつも同じ変な夢見るんですよ。水の中で泣いている竜とか、切株のところに一杯ローソクが立っているとか、寂しい夢ばかりで、なんでこんな夢みるんでしょうか?」
って今、供養したお祖父さんの死に様そのままじゃないですか!と言うと、そこで本人も初めて気づかれてビックリされて。亡くなって数十年、浮かばれずに孫である施主さんに見せ続けてきていた、のでした。
この施主さんも勿論菩提寺があり、葬式から供養も滞りなくされているはず、でした。しかし、数十年経っても鎮まらぬホトケがあるという事態。
それが鎮まらずに障りになっていたことは、当山で供養されて障りが治まった、というのが証拠です。
菩提寺の供養と、当山の供養、何が違うんでしょうね。
それは、その祈りの作法=供養の法が亡者に届くものであるかどうか、です。
わが真言宗には「水死者の供養作法」というものがあります。水死者と言うのは末期の苦しみ甚だしく、得脱は容易ではないとして、ある特殊な作法も用いるのです。
※沿岸部に行って来てから調子が変とか不審事に遭遇など、12年経って未だにあるのも無理ない話・・
思いますに、仏教では煩悩や苦悩や業や障りを病に例えます。それに準じますなら、人の数だけ病は異なりますし、同じ人にいくつもの病を抱えているのもごくある事でしょう。
では、それら病を治すに一種の薬で全ての病に通じますか?
風邪やスリ傷程度の人から手術が要る人まで、同じ治療法で済みますか?
様々な病気を抱えているけど、一人の個体だから一つの薬で治りますか?
んなわけないわww、と失笑しますわな。
で、どんな人でも「念仏/題目だけ唱えてりゃ浮かばれる」と思ってるアナタ。
人間の差異/病の差異を考えもせずに一つで用足りる、というのは、今あなたが失笑した「一種の薬で全ての病はOK」と同じ思考ですよ(笑
仏教は八万四千の法門といいます。人それぞれ志向も負ったもの苦しみも異なっているのですから。真言密教は数多の障りの有り様に向き合ってきた教えですから、対峙するに様々な仏があり法があり、種々の陀羅尼がある。1種で足りるなど非現実な事は言わない。
ですから当山では、特別な供養には、この亡者には何が必要なのか/何が適切なのかを占断して、様々な加持法や陀羅尼を組み込んだ供養法で鎮めを行ないます。でなければ、ならないのです。
それは、経を読んで念仏するだけの供養なら、菩提寺でずっとされて来た。
それでも障るというのは、菩提寺で積んできたはずの、経を読んで念仏するだけの供養など全く役に立っていない、という証。
同じような供養を繰り返したってムダ、って話です。
その故人に特化した「薬と手術」を施さねばならぬのです。それが真の供養というもの。
私が教えを受けたある僧正さまは「供養とは、言うなれば死者の祈祷であるから、祈祷の出来ぬ坊主に供養など出来るわけがない」と申されました。
しかし、世間の認識は全く違いますね。「仏教など、どこも皆同じ」と思っている。歴史や由緒があるのが有り難いと思っている。そんなのが目の前の問題解決に何の役に立つ?念仏や題目唱えればどんな死者も救われると思ってる・・てかそれで済むなら、自分でやったらいい。寺も坊主も仏教も不要でしょ? 内科医が出す薬とおなじ市販薬で骨折も痴呆も癌も心臓病も皮膚病もお産もみんなOK、と言うようにね。
普通に考えればオカシイ有りさま・・お気づきされたでしょうか。
医者だってピンキリなように、寺だって坊さんだって用いる法だって、ピンキリなのです。
不可能を可能にするスーパードクターも居れば、治らずひたすら通わせるとか診立て違いで死なせるヤブ医者もいる
患者と向き合いベストを計算する医者も居れば、患者をお金としか見ていない医者もいる。
最先端技術を導入している病院もあれば、古びたお決まり処置だけな病院もある。
看板や歴史など、そこの腕とは関係ない話。
寺だって同じです。傍目は同じことのようにしか見えないかもしれませんが、
中身や質は【月とスッポン】。
病院や老健施設の占断をしていますと、【どこを選ぶか?】は本当に深刻な選択だ、と感じさせられる事が多々あります。ここはマズいよ、と申し上げた所に行って、悪化したり亡くなったりした事例も見てますから。寺だって同じこと。
檀家制という半強制な縛りがありますので、日本人多くが仏教に関しては【井の中の蛙】。止む無きでもあります。ですが、外の世界や他の選択肢を知らぬというのは、多大なる損失です。祈りに関して言えば、ご自身そして先祖そして家族にとっても不幸でしかない。幸せに死ねる人ばかりではないのですから。ついでに、難病には先祖が関連していることが多いですが、対処にすらその供養を想う人は少ないですね。愚。
貴方のそのお寺のその拝みは、本当に先祖を救っているのでしょうか。それは貴方自身も救われているのでしょうか。ましてや障りを認識しながら「拝んでます/供養してます」など笑止千万。
医者は選ぶべきモノ。寺だって同じです。
先祖もろとも井の中で「腐ったカエル」のまま朽ち果ててしまわぬように。
上述の施主さんは「秋頃になったら余裕が出来ると思うので、その頃にまた別のホトケさんの供養をお願いしたいと思います」と。こういう気持ちがある人には、先祖さん方もなんとかしてあげよう!と思うに違いありません。
井の中から抜け出して先祖ともに救われた人のお話を紹介しました。
出来すぎな転生⁉
6月15日はお大師さんの誕生日。
お母さんの玉依御前が、【天竺(インド)のお坊さんが懐に入る夢を見て】懐妊したと伝えます。
であるから生まれた時から【貴物とうともの】と呼ばれていたそうで。マジか~
聖者が生まれる時には、洋の東西を問わずに奇瑞がありますね~ 生まれてからも数々の奇瑞、伝説になってますね。
さてご存じの通り、海を渡った大師は大唐帝国の密教を率いる恵果和尚のお目に適い、
【汝を待つこと久し、来ること何ぞ遅かりつる、生期まさに終えなんとす、早く受けよ】
《汝をずっと待っていた、来るの遅すぎやで!ワシにはもう寿命がないんじゃ、早く我が教えを受けよ》
と告げられ、瞬く間にその全てを受け継ぐことになります。
※格調高い文章に触れて頂きたく、大師の原文を【】に記します。続く《》の、品の無い現代語訳は私訳;漢字は現代語。
そしてその年の12月、恵果和尚は大師に対し
【わずかに汝が来れるを見て、命の足らざらんことを恐る。今則ち法の在るとし有るを授く。経像の功も畢ぬ。早く郷国に帰り、以って国家に奉り天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば即ち四海泰く、万人楽しまん、(中略) 汝は其れ行矣く之を東国に伝えよ、努めよ努めよ】
《汝が来て、我が余命が間に合うか心配したが、密教の全てを授けることが出来た。汝に持たせる経や仏像仏具も出来上がった。かくなる上はすぐに日本に帰り、この教えを朝廷に奉っては天下に広めて、衆生の福益を大いに増せ。されば天下は穏やかに、全ての民衆は生きるに喜び楽しみを得るであろう/ それ行け!早く日本に伝え、広めよ!》
と告げ、入滅してしまいます。
大師が出会ってからわずか半年。今やって来たばかりの異国の若僧に、己の死期を察しながら和尚自ら死力を振り絞って全てを託した思いは、一方ならぬものがあったでしょう。
それは恵果和尚の入滅の日、大師が蒙った以下の告げにも伺えます。
※境界(=三昧)の中に告げて、とありますが、入滅当日は泣き腫らしているに加えて寺内慌しく、瞑想や睡眠など不能かと思しきより【夢うつつに告げられた】と読むのが宜しきかと。
【汝未だ知らずや、我と汝と宿契の深きことを。多生の中に相い共に誓願して密蔵を弘演す。彼此代わるがわる師資となること只一両度のみに非ず。この故に汝が遠渉を勧めて我が深法を授く。受法云に畢ぬ。我が願いも足んぬ。汝は西土にて我が足を接す。我は東生して汝が室に入らん。久しく遅留すること莫れ。我、前に在って去なん、と】
《お前はまだ気づかぬか、私とお前には過去世の約束があることを。輪廻転生を繰り返す中で、互いに誓って密教を広めて来たのだ。お互いに師となり弟子となるのは今回限りではない。だからお前を遠き国まで引っ張って我が法を授けたのだ。法をお前に託し、我が願いは達成された。お前は唐に来て我が弟子となった。我は日本に生まれ変わってお前の弟子となろう。この地に留まっていてはならぬ。我は先に行っておるぞ》
いかにも不可思議な告げとは言え、我が事であるから公にするには大師も躊躇ったようです。しかし「最勝王経」の妙幢菩薩の夢見金鼓故事のように仏教は不可思議を認めているに引き寄せて、同門の人々に示そうと考えた、とあります。
ところで、この告げには壮大なプロローグがありました。
恵果和尚の師である不空三蔵(真言第6祖/大唐3代の国師と称された/日本の全宗派で唱える舎利礼文の作者)は、唐の代宗大暦9年6月15日に入滅しています。
※この時皇帝は喪に服す為3日政務を休んだという(◎o◎;)
ん・・この日は日本では宝亀5年6月15日⁉
そうです、不空三蔵の命日に大師が生まれているのです!
大師の誕生日を聞いた恵果和尚は、おそらく驚愕したに違いありません。オマケに、噂に違わぬ非凡なる才を備えている。この者は、わが師不空の生まれ変わりに違いない、と。
であるからこそ千人の弟子をさておいて、大師に【東国で密教を】託したのでしょう。恵果の慧眼に狂いはなく、大師は日本史上屈指の偉人となり、真言密教は日本においてこそ命脈を保っているのであります。この告げは、大師の夢うつつでは済まない真、でありました。
ついでに、不空三蔵は南インドの生まれ、と見られています。(中東生まれ説もあり/父は北インドのバラモン、母はソグド人と云々)
さて、大師懐妊の際、大師の母はどんな夢を見ましたっけ?
・・天竺(インド)のお坊さんが懐に入って来た、でしたね。そう、こんなところまで符合しているのです!なんとまあ~
仏教における輪廻や解脱の話を持ち出すと長くなるので止めますが、密教にいたってはこの【済世利人の仏法】を世に留め広める為、普賢行願の一術として、濁世の目指す所にあえて転生してくると言う次元まで、悟りが深化しているのであります。
袖触れ合うも他生の縁、という言葉があります。鑑みますと、同じ時代の環境に生まれてくると言うのは、知れずの共業に引き寄せられてくるものもありましょうし、一切は縁によって形作られるという観点からも、近しい関係に生じるとは前世で何らかの繋がりがあったのでしょうね。
ことに、存在の深み(魂)や神仏など「時空を超越した」絡みの縁とは、恵果-大師の「相誓願して」には到底及ばずとも、過去世に何かそういう縁があったと思うが自然でしょう。
さすれば、本日お参り頂いている皆さま方と私も、前世では何かしの縁がきっとあったのでしょうし、お大師さんはもとより、愛染さんや太元帥明王という珍しい仏さんとも今今に限らぬ、過去世でも多分出会っているのだろう、と思います。
だからどうこう、ではないのですけれど(^^;それはそれで終わり。ただ、そういう知り得ぬ不思議な縁もある、という事。ソレを知った風に言う奴とかソウルメイトだのと言うのは大体、イカレた向きですけど(笑
でも、目の前の仏縁が前世でも出会っている神仏ならば、自身に秘められている仏神とのパイプは他の人以上に大きいはずです。
ご縁があることに感謝し、足を運ばれてその縁を祈られますなら、貴方と仏を繋ぐパイプはより強く太く、そしてそれ自体が己自身を救い得る柱にまでなるでしょう。
また、【この故に汝が遠渉を勧めて我が深法を授く】この言葉を受けて大師はこう記しています。
【進退我が能くする所にあらず】
《唐に来たのも帰るのも、私の意思に似て私の意思ではなく、恵果和尚の計らいに過ぎなかったのだ》と。我を引き寄せ引き戻すは、大いなる力によるものだったのだ、と。
仏縁とは、そういう一面もあるものなのでしょう。現に、太元帥明王に関しては非常にソレを感じる所が多分にございました。
お参りされます時は、願いも結構ですけれども、自身の持っている仏縁もお考えされて、ヒョっとしたら前世から頂いてる縁かも、私がじゃなく、仏さんが私を引っ張り寄せた縁かも、と思案もされてみて、お大師さん仏さんとのパイプを太く、生死を超えた支えとまで大きくしていただきたいなと思います。
※6月11日別院法話の整理掲載
恵果和尚の臨終に、大師の原文を載せました(私の駄訳は不要だったかも;)。格調高き文筆を味わって頂きたいに加えて、今際まで己が使命と後世の為に死力を尽くした「恵果和尚」の生き姿に、老いてなお案じるは目先のみとか後生すら考えぬ今時の老いの様を憂い、読まれる縁があった人には生き様への一刺激となれば、と記しました。