寺ブログ by副住職
臘八
12月8日はお釈迦さまの成道日、ということになっている。
今日は阿閦法にしようか~と考えたが、釈迦法で行法をお勤め。降魔成道の禅那波羅蜜に思いを馳せて。
釈尊は12月1日から不眠不休で禅定に入り、8日未明の明星に得悟した、という伝承が一般的だ。
そういえば禅宗では「臘八接心」と言って、12月1日から8日まで座禅三昧と聞いたことがあるが、この故事に倣っての事なのだろう。※臘八とは臘月=12月、の8日
当山では12月頭から年末施餓鬼として、希望された施主には昨日までの一週間、ご自宅でも特別なお勤めを同行して頂いたが、まさに仏道を行じて頂くには好機であると思う。施主各位には功徳増長あれ。
ところで、私共仏門が祈るのは歴史上の人物の釈迦ではない。「釈迦如来」である。坊さんでも分かってない人が多いようだが。
※歴史上の釈迦を祈る涅槃会や降誕会などは、追慕や慶讃をメインとする法式で、三密行とは異なるスタンスで行なう。
何が違うのか。「釈迦如来」とは、釈迦=ゴータマシッダルタが成道を果たしてその身に顕現された「悟りの法」そのもの、のこと。
それは釈尊が「来て見よと示される法」=私達に遍く内在する法にして仏性、後に「如来蔵」と称されるもの、と理解してもよいだろう。
釈迦如来を祈るというのは、自身に秘められた光明を祈り顕さんとす、そのことに他ならぬのかもと思う。
ちなみに「釈迦」と呼んでいるが、釈尊は気安く名を呼んだかつての修行仲間に「悟りを得た者をかつての俗の名で呼んではならぬ、仏陀と呼びなさい」と諭したという。※これが戒名を用いるべきという由緒でもある
なので、歴史上の釈迦として扱うならば、「釈迦」の言いは失礼な話になるのだ。あくまで「釈迦が悟った法」に人格を与えたのが「釈迦如来」ということ、だ。
すなわち、南無釈迦如来と言う時、そこには歴史上の釈迦だけではなく「仏法そのもの」と「仏教を伝えきた数多の仏道修行者」そして「自心」までにも、帰依讃仰するものだ。
ちょうど南無大師遍照金剛と唱える時、そこには弘法大師だけでなく「真言密教を受け継ぎきた数多の行者」と「密法そのもの」への帰依讃仰が込められるように。
仏教は広大無辺な変化展開を遂げて来たが、他宗教と違ってどこまでも「人本位」でなく「法(ダルマ)本位」というのは堅守されている。
それは、釈尊の悟りの光明は、特定個人にだけ与えられたものではなく、誰にでも伏蔵していて本気になったら見出し得るもの、であるから。