寺ブログ by副住職
瞑想すりゃイイってもんじゃない!
ドイツ×日本のハーフの坊さん、ボロ寺を立て直すネット記事がありました。キリスト教の洗礼を受けながら禅寺で修行して、しがらみがないという理由でボロ寺に入山するとは、大したもの~(◎o◎;)
で今後の展開について【企業向けの座禅指導】みたいのがありました。そういえば「企業の研修として禅寺で座禅」とはたまに耳にする話で、そういう機会が社内環境や社員のアイデアに一役買っている、と見られる点もあるとか。
たしかに、今や常識となったタッチパネルは、アップルのスティーブ・ジョブスが禅から着想を得て開発したモノ、とは有名な話ですね。
心身が休まることの無いせわしい今を生きる私達にとって、外部と切り離した寂静の時間とは「憧れにして贅沢」かもしれません。ただ同時にそれが高じて「禅に対する期待過剰」もしばしば見受けられます。心落ち着けるために瞑想/座禅します、なにか変わるかも、目覚めるかも、と。
ソレを悪いとは申しませんが、瞑想とは、素人やり方では「リスクを伴うものでもある」ことを知らずに、簡単に考えている人が多いよう。コレが問題。
座禅の仕方は宗派流派によって多岐にわたりますが【誰でも何時でも構わずにやって良いというモノではない】この点は共通しているようです。然るべき師僧について指導を仰ぎながら行なう、が絶対基本。
何故か?前提となる心身の整え方や呼吸法にもコツがあり、感情やヴィジョンには受け流し方があり、交感神経系に関わるので動きにも注意が要る。更に言うなら、霊的な存在の影響を受けやすい場面でもある。ただ座ればいいというモノでは決してない、危険ですらある。
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で、座禅の手順の一例として、真言密教の阿字観をちょっとご紹介。
阿字観は最近はメディアなどでも取り上げられるので、ご存じの方もおられると思います。
コレは梵字の「阿字」を観想する禅。【阿字】とは何か?を語れば長くなりますので端折りますが、大乗仏教が最終的に行きついた『悟りの極限』を現す字、とご理解いただければ。
で、番組などではイキナリ「阿字」の観想をさせたりしてる所もあるようですが、コレは間違い、分かってない寺と言ってるようなもの。いきなりやれるのはプロのみ。
一口に阿字観と言いましても、最初は数息観から行なうもの。
数息観とは、出入りの息を数える呼吸法。コレが出来ないと瞑想なんぞままならない。
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慣れてきたら、阿息観。過日のBS日テレの高野山特番で取り上げていましたので、ご覧になった方はお分かりでしょう。「あ」と言葉を息に乗せて発しながら行なう瞑想。
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こなれてきたら月輪観。あたかも満月のような光輪の観想。
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そしてやっと阿字の観想へ、と至ります。安全に深い境地に進むには、コツと環境と手順が肝要なのです。
座禅瞑想をただ一時「そんな気分を味わった」で終わりなら簡単でも良いでしょうが、心身の鎮静などを期待してとりあえず安易にやってみるなど、決して勧められません。
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以前に鑑定にお見えになった、心身を患った人。住職は「貴方にはお祓いが必要だね」もお話しし、ご本人も祈祷を希望されましたが、同伴の親御さんは「菩提寺で座禅させてもらっているから大丈夫」の一点張り。名刹の菩提寺で和尚に指導を受けて折々に座禅しているのだという。
心療科の薬飲んで座禅なんて危険、その挙句が今のそんな状態でしょ?だいたい、葬式ばかりの寺で瞑想なんてリスクしかない、と申し上げた記憶が・・親御さんはご祈祷して欲しいという本人の手を引っ張ってお帰りになり。その後行き会った時に彼は精神病院に入院したとの話。しばらくして風の便りに彼は亡くなった、と聞きました・・あの時お祓いしていたら、そんな結末はなかったかも、と思いつ。
心身が疲れ果てている状態や、精神疾患のある人などが瞑想など、逆効果どころか危険でしかない。まともな禅の指導を受けているならば、こんなことは周知なはずです。あなたが知った気で「瞑想する」なんて言うそのやり方は、まともな指導者から教わった、まともなやり方ですか?
最近はスピ系の得体の知れぬ者がさせたりもあるらしい。下手したら心身を壊しかねない、それは野狐禅ではないか?よく確かめて欲しいですね。
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心身安定には瞑想だの禅だのと持ちはやされ気味のようですが、上述のように実際は難しいものです。ですので、心身の鎮静を求めるなら「真言念誦」こそ、お勧めしたい!
辛い時、苦し時、勝負の時などは心の中で真言を唱えられたい、とは常にお話していますが、その延長でやるだけ。
出来れば念珠で珠を繰りながら、何も考えず気の済むまでぶつぶつ真言を唱えたらイイ。数珠とは本来そのように使うべきものですし。
※数珠は画像のような数を繰れるもの(コレが本来の数珠)を用いてください。開眼済のものが望ましい。※授与品として差し上げている人もいますが、繰り方を訊ねる人は稀、まったく;
声に出すと、疲れる上に周囲がいると変な人と思われますからww、舌先を少々動かす程度の微音で息に乗せる感じでやると良い。
仏に感応する聖語ですから厳密には、時や場を選ぶべきともされます。烏枢沙摩明王とか準胝尊や如意輪尊などは時や浄不浄も選ばないとされますけれどもね。
しかし、授かっていて日々に唱えている真言ならば、お不動さんでも愛染さんでも、時や場を選ぶ必要はないでしょう!仏さんだって大目に見てくれるはず!
※真言は授かって効力を発揮するものです。本やネットで知った真言を唱えるなど越三昧耶という罪を犯すことになります。自身が直に僧侶から授かった真言のみ用いてください。
ソファに横なりながら何も考えず誦じたらいい。布団の中に数珠を持ち込んで、真言誦じるに任せて寝たってイイ。
真言は一字一字に仏の力が込められている。ある経には「悪を覆い善を揚す」ともある。その日の計らずの悪業や不祥を落とす一助にもたぶん、なる。
真夜中に姿勢整えて瞑想だ無想だのとやるより、よっぽど楽で、仏の加護までついてくる。
仏教の教えの分類に五蔵とあります。それは経、律、論(これらを三蔵と呼ぶ、三蔵法師の三蔵はこれに通じた者の意)、般若、陀羅尼。機根のある者は三蔵に依って解脱出来る。がそれじゃムリな者には「般若」で解脱へいざなう。それもムリな末世極悪の衆生を救うには仏の力が込められた【陀羅尼】に依るしかない、とは経に説かれているところ。
※ちなみに法然上人はこの【陀羅尼が究極の救い】との経を引用して、念仏は陀羅尼のようなモノとの(それは違うんじゃ?の強引な;)理屈を一根拠とされています(^^;
大乗仏教の総本山であったインドのナーランダ寺の奥伝として育まれ、日本に伝わって更に1200年伝え継がれてきた法力は、真言という形で皆さんの手元にも既にあるのです。スピだの波動だのエネルギーだのと、癒しを標榜するものが溢れているようですが、玉石混交の正体不明者がおっぱじめたモノより、余程信用なるもの。
古代インドでは密教は、大乗仏教を修めた上で年数を経て、更に機根者のみに許された教えであったそうです。真言を授かっていること自体、救いに出会っているようなもの。活かしてください。
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そして、心身が疲労の極致にある場合は、休むしかない!仕事も家庭も家族も一切を放り出して、何のしがらみも無い時間を取る、ことも大切です。
鑑定で【あなたはもう、ムリヤリでも休みを取らなきゃダメ!】と申し上げた方が先月、数名あります。温泉に行ってきたとの報告の方々からは、スッキリしてきた/また頑張れそう/傷も少し楽になった/また行ってこようと、などなど。
心を変えるのは難しく、限界があります。ならば環境を変えたらいい。心と環境はリンクしてるさ、とお大師さんは言ってるでしょ。家族を言い訳にしない、仕事を言い訳にしない。疲れたから休むわ!と言えばいい。一緒に来るって?いいけど完全に別部屋で別行動ね、と言えばいい。
踏み出さないのは「こんなにも頑張って疲れ果てている自分に酔ってる」から。苦しんでいる自分が好きだから。嫌よイヤよも好きのうちでマゾな自分に執着してるから。バカです!
今すぐ温泉検索して予約とって、会社には休みを入れて、手添え無しの飯を食って2~3泊湯治したらいい。アクティビティの予約を入れて、行ってきたらいい。反対する家族には私が壊れるのを待ってるの?と遠慮など止めたらいい。金が無いならカード払いで泊まったらイイ。壊れる寸前の心身と些かなお金、どっちが大切ですか?
そこまでやらないと自分が壊れてしまう状況、という人が先月は少なからず見られました。一回飛び出すことが出来れば、その行動しない壁は壊せたも同然。次回の休養に限らず、自身を縛る環境ストレスからの脱出も容易になるものです。そしてリセットしてくれば、また日々を健やかに効率を上げて頑張れる。
日々の細かな事は、真言の力を頼んだらよろしいでしょう。不測の事態にはご祈祷で改善を祈ったら良いでしょう。どうにもならない滅入りには環境を変えて、心身をリセットしてくるべき。
ただでさえ、庶民の生活を追い詰める悪政で鬱屈とした世情です。内に向き過ぎないように、外部に出るように、出来れば何も気兼ねせずダラダラできる環境に浸ってくる、そんな時間もムリヤリ作って、寒さ厳しいと予想される年末に向けて心身を整えて頂きたく思います。
※10月不動尊ご縁日の法話を整理記述。しかし、思い出しながら書き起こしてみると長すぎm(__)m