寺ブログ by副住職
供養物!
春分秋分を真ん中に挟んだ一週間は、お彼岸。「昼夜の長さが等しくなる」のと、仏教の「中道」を重ねて、仏道修行に適ったシーズン、という訳です。
と言いましても今や、在家の人には仏道行といっても何のことやら、でしょう。挙句に「心があればそれで充分!」なんて杜撰が罷り通っているのが昨今のよう。
いや、ちょっと待て、と言いたい。逆に問う、気持ちだけあれば、アンタは飯を食わずとも学ばずとも稼がなくても不足なく満たされるのか?と。
自身に引き寄せたらすぐ分かるはずの「形を欠くことが如何に至らぬものであるか」・・しかし先祖には平気で「心で十分だろ、合掌してんだから沢山」と扱う・・仏事に関してはこの杜撰ぶりは加速する現状;
そこで彼岸という時期でもありますので、その【供物】に見い出され込められている意義を、簡単にご紹介します。これを知って意識するなら同じお供えでも、先祖ご自身ともに頂く功徳は違ってくると思いますよ。
※以下の記事は、副住職の個人ブログ(5年ほど前の記事)からの転載です。6回分を3回に分けて記します。
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欠くべからず!(連続1回目)
「貧しい人でも欠くことなかれ」と弘法大師が説かれた、仏を供養するのに必須な6種の供物があります。
これは儀軌にも書かれているので大師の創作ではなく、通仏教の常識。これを欠いては功徳を得ず、とまで言う。
しかし、合掌だの気持ちだのと、お金はおろか手間すらかけずに「供養」と言ってのける、愚の骨頂が罷り通っている現在。
そこで、彼岸でもありますので、その供養に欠いてはならぬモノが何かを6回に分けてご紹介。そしてそれらは「供養する」に留まらぬ行力にもなるもの。この件は最後にでも。
☆【閼伽】 ※あか、と読みます
要するに「水」。水は天地に循環して行き渡らない所無く、あらゆるものを濯ぎ、潤し、命を養う源です。渇きを潤して安らぎを与える働きは水の功徳。ですから、供養物として「水」は欠かしてはならないもの。
仏前に「お茶をあげてます」という人もおりますし、勤行式によっては「水あるいは茶湯」としているものもあります。ですが茶では厳密には違う。何故か。
そう、水には「濯ぐ」という重要な意味もありますから。お墓に行って先ず水をかけるのはこの意。濯いで次いで潤す。仏壇では水をかけることはしませんが(^^; その両義をもって供える、とお考えされたら良いでしょう。
ついでに、同じ水分でも墓に酒をかけるのは論外デス。
仏の供養に必須な第一は「水」。たまには、お金をかけてミネラルウオーターをお供えされてもイイんじゃない?
※もっと深い意もありますが表立ってはこの程度でとどめておきます、残り5物も同じ。
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スッキリ~♪(連続2回目)
必須な供物2つ目は
☆「塗香」
ウチでは位牌造立や仏壇開眼には施主様にさし上げていますし、お参りの信徒さんにはおなじみですが、そうでない方には珍しいかも。聞いたことないかも知れませんね。「ずこう」と読みます。
読んで字の如く「体に塗る御香」です。
(今はどうなのか分かりませんが) 古代のインド地域では、種々の香薬を擦り練り合わせたものを体に塗る習慣があったそうです。日本人には解り難いですが・・想像してみれば灼熱と雨の地域ですから、身体の防御かな?とは窺えますね。
そう、体に香薬を塗るとは、①解熱 ②防臭 ③防虫 ④殺菌などの効果があるようです。つまり、心身の清涼を得るのが塗香の効用。
チョットした異臭でも気になりますし、虫刺され一つでも「かゆいカユイ」となりますでしょう?座しっぱなしで瞑想に集中する行者にとっては、熱も臭いも虫刺されも大敵。しかも希少な香木類が原料なので高価;
だからこそ、心身清涼を要とされる仏に修行者に供えるべき、功徳になる供物、であります。ま、現在は「熱冷まし虫よけ」の実効ではなく、その清浄力を大切にするわけですが。
常には「自身の手」に塗って用いるのが普通です。それじゃあ供えたことにならぬ、と思われるでしょうか?祈りの場では私達の祈りが【供え物】でもありますから、祈る者が用いることでも充分です。我が身を浄めることも供物の一部ということ。
必須と言うのに大方用いられていない供物。仏具店あるいはネットでも手に入ります。最低ランクのモノは避けて、上質のものをお求めされて、ぜひ仏前にはお使いください。祈りが変わるはずです。
舎利礼文
※この記事は寺報77号からの転載です。
舎利礼文という短いお経があります。当山でも常用ですし、葬儀法事には宗派を問わずに用いられていますので、皆様も聞き覚えがお在りでしょう。
一心頂礼(いっしんちょうらい 万徳円満(まんとくえんまん 釈迦如来(しゃかにょらい
真身舎利(しんじんしゃり 本地法身(ほんじほっしん 法界塔婆(ほうかいとうば
我等礼敬(がとうらいきょう 為我現身(いがげんしん 入我我入(にゅうががにゅう
仏加持故(ぶつかじこ 我証菩提(がしょうぼだい 以仏神力(いぶつじんりき
利益衆生(りやくしゅじょう 発菩提心(ほつぼだいしん 修菩薩行(しゅぼさつぎょう
同入円寂(どうにゅうえんじゃく 平等大智(びょうどうだいち 今将頂礼(こんじょうちょうらい
舎利とは釈尊の遺骨の事で、その礼拝功徳を説くお経です。以下現代語訳。
【一身に礼拝致します。万徳を円満に備えた釈迦如来と、その御身の舎利と、悟りの真実体である法身と、その真実体が形と現る塔婆を、等しく敬礼します。仏は我が為にその身を現じ、仏は我に入り、我は仏に入るのです。
この仏の加持の故に、我は悟りを証し、仏の神力を以って衆生を利益し、菩提心を起こさしめ、菩薩への行を修し修せしめ、完全にして清らかな境地に皆同じく入ることを得るのです。かくなる平等にして我らを導く仏の大智を、今まさに礼拝します】
ちなみにお米を舎利と呼ぶのは、その釈迦の遺骨は悉く細粒となり、形状が似ている&価値甚大との意味等々、と云々。
釈尊はその入滅に際して、遺骨は塔にして祀れ、その塔を見た者は「如来が現世に居ました証」と知り、浄心を起こす契機となろう、と指示したと言います。それに従って荼毘に付され、残ったその舎利は【塔】にして祀られました。
塔は、インドでは土饅頭のような形だったのが中国では石造りの高層物へ、日本では木造建築の精華を尽くした多宝塔や五重塔という、度肝を抜く建造物として出現します。そう、塔の本義は【舎利を祀る為の仏閣】。
※ちなみに「塔」という漢字は古代中国には無く、舎利を祀るstupaの音から作られた漢字らしいです。stupa≒卒塔婆、なんとなくお分かりかと(^^;
写真は京都東寺の五重塔(H22年撮
なお、仏像とは、釈迦入滅後しばらく経って、ガンダーラで造形美術が発展を遂げて登場したもので、それ以前は仏陀の姿を描くなど畏れ多いことで、法輪や仏足石(太元堂にあり)などの象徴物で表しました。つまり、仏陀の舎利を祀った塔自体も、仏像の登場以前には仏そのもの、であったのです。ただの目立つ建物じゃない、んですね。
仏陀の悟りの境地は塔の姿で表される・・則ちこれが【法界塔婆】です。曼荼羅に大日の三昧耶形は「塔」で描かれるのはそのこと。それは釈迦自らが、
【続きの本文は、自分で書きながら自身が気付かされた(;'∀')一寸深めの読み解きとなりますので、ネットでは以下略。全文は遍照院寺報77号に掲載しております。】
つれづれ・・
大船渡の大火、それにしても全く収拾がつかない大惨事になっているようだ・・
先週の山火事が一週間かかって鎮火した直後にこれでは、疲弊している消防の方々や大船渡の人々にはかける言葉すら見当たらないような有り様・・
昔、近所の火事に出くわした時、なんとも言われぬ恐ろしさと悲しさを感じたのを思い出した。大船渡の人々には夜も眠れぬ日々が続いていると察する・・
しかし、山の近くとはがけ崩れだけでなく、こんなリスクもあることを改めて思い出した。消火活動がままならない環境と言われてみれば、確かにそうだ。そういえば山中の高野山の歴史は、何度も大火に見舞われていたな、と。
雨や雪は、こんな欲しい時に限って降らぬようで・・まもなく311が来るというこの時に、壊滅からようやく復旧した地域にどうしてまた大災禍・・兎にも角にも鎮火を願うしかない・・
そして、対岸の火事ではない。先ほど山梨でも山火事とニュース。火の始末には改めて念入りに注意しないと。
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計算して呆然の節分経費、仏具屋授与品屋に儲けさせるために一生懸命拝んでるんだっけか?と我を疑いたくなる支払いをして(カード決済分はまだ残が;)、やれやれと思いきや、また護摩木の値上げ通知が(-_-;)もう何度目だろう、数年前から5割は原価上がってる;
もう値上げは喫緊だが、お供えをあげて参拝される方々が主なので申し訳なく躊躇;檜から他寺で一般的な杉にかえれば幾分安くはなるが、火が撥ねるので狭すぎ内陣では危ない;とりあえず、ネット護摩木の値上げと太元堂での寄進者優待を終了して、くらいか・・
おまけに続けて、セキュリテイからも値上げします、と来た(~_~;) こんな物騒なご時世じゃ、じゃあ辞めます、って言えないのを見込んでか;
いや、経営の立場からすれば、そうせざるを得ないのは本当によく分かる。こんなムチャクチャな物価高で、全ての経費が膨れ上がっている。そこに人を雇っていれば、労働基準で定められた保障と規制&社会保険料の負担&世情が押し付ける好待遇&会社の運営維持、火災保険料一つだけでも眩暈する額・・ただ「所得を上げなきゃいけない!」とぬかせる人には決してわからない、大変な責任とお金工面を日夜背負っている。景気が失速してるのに経費と人件費ばかりが高騰、何としても利益を確保しなければ、会社など潰れるしかない。誰が儲かってんだ?まず国だな⁉
利益を確保するのは本当に切実、という経営者の苦悩は分かるから仕方ないよね、と受け入れるしかないが、拙寺はいまだ値上げと言えずでどうする⁈(◎_◎;)
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知り合いのお寺さんとの話に「幣束あった方がいいかなと思って買おうとしたら、すごい値段でびっくりして、作る事にした」と。
売っているんだ⁈とそこにビックリですが案の定、高額らしい。星供の銀銭も市販もあるが、買うと一座分で一万円を焼くに等しいお値段、銀銭だけで。作るのも大変な手間、それが出来ない寺は星供などテキト~になってしまう訳で。
幣束は傷んで来ますのでたまに作り替え。花巻のサイズで作ったら一寸長かった・・ですが、まあ問題なし(^^;
そういえば、先代が幣束をもって写っている写真、幣束の上にすっかり人面が現れていて(((;゚Д゚))、この写真、昔は飾っていましたが怖くて閉まっちゃいました;にしても、たかが幣束、されど幣束。
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先日のご祈祷で、五宝が焼ける事態;コレは護摩壇の上に祀っておくものですが、焼けるなど稀・・記憶にあるのは、令和になった元号祝祷の時、その時に瓶華まで燃えてしまい;まさに令和の今を暗示でした。
尋常ではない事態にどうしたものか・・と、祈祷後に願主さんからポロッと出た話に、それが原因か⁉ そうだといろいろ筋が通る。
人の念とか関わる業とか一見、些細な事ですが、その環境度合いによっては恐ろしい邪気となって、ご自身に影響している事もあります。ヤバい環境にあるもの、ヤバいと感じるモノには手を出さない。仕事柄など已む無いならば時々にお祓いをしておくなど、案外に大切な事ですよ。
で、新しい五宝を注文・・コレも値上がりしてるわ(-_-;) 挙句、一向に届かない・・どうやら土日完全休み、この前までそうじゃなかったはずが;高野山からは3日かかる、じゃ届かないわ。高野山は月曜休みが基本だったが世俗化か~ しかし週休2日、稼がずとも給与ガッチリ人以外に、得してる人などいるのか?
はともかく、今日到着で奉製。明日のご縁日には間に合い~!
ソレ、餓鬼畜生道まっしぐら・・
挨拶はムダ、合理的じゃないから必要ない、仲の良い友達の間だけでイイ、という風潮が小学生の間で広まっている、とラジオ番組で聴いた。対するパーソナリティのコメントは肝心なコトには触れないでしまったと思う。「挨拶は人間関係の潤滑油だ」ということに。
先の寺報に【感情論バカ】の話を書いた。感情論に終始する愚かな世情が、この息苦しく薄気味悪い空気感だ、合理性を声高に言う者がやってる行ないこそ、とことん感情論じゃないか、と。
挨拶は、動物から進化した人間が、社会的コミュニケーションを円滑にする術として手にした、簡易にして偉大なるアクションであろう。それだけで、他者との接触は一気にソフトランディングになる。社会を構築する動物として、極めて合理的かつ高度な智恵だ。
それを非合理だという。物事の分別もつかないような幼童がそんな言質を出来る訳もないから、その黒幕は親達だ。挨拶という行為が合理性の塊と言うことすら理解できない、感情と権利だけが絶対信者のスピーカー、それがかの小学生界隈なのだろう。
そうして他者との接触が常にハードランディングとなるように仕向けられた子供たちの将来は、どんなものになるのだろう。礼節を欠いた彼らの未来は、どれほどその才能と引き立てを貶めることになるのだろう。その狭い校区の中で一生を過ごすなら別にいいだろうが。
そういえば、おはよう/行ってきます/ただいま/おやすみ、程度の挨拶すら無い家庭があるとは聞くが、各々がスマホを持ち、家に居ながらも外部と繋がる方が易く多ければ、家族というシステム自体が崩壊するのは、今騒いでいる法律の制定を待たずとも明らかだ。
既に命のよりどころとなる先祖も墓もいらん、葬式も要らん、という。時代の趨勢だろうが、切り離された個々が勝手に生きていけ、という時代は、人間にどういう在り様を示すのだろうか。
寺報には、不満だ面白くないという感情の赴くまま怒り争い→ただ本能の求める快不快を生きる基軸とし→満たされぬをひたすら他人に求めるばかり、という感情論世情の有り様は、修羅道→畜生道→餓鬼道と、六道の人界から堕ち往く過程、そのままではないか、と書いた。人品卑しくなるは動物への退化だったのね、と。散骨が急激に流行って来ている、という。肉体が終われば全て終わり、終わらせたい、とは、生活と寿命に疲れた現代人の感覚、というのは分からないでもない。が、あなた方が感情論で放棄させた受け継がれ来た生きる為の合理性、それを欠かせるとは後世まで退化させる気か。
ちなみに、墓も要らん葬式も要らんとスマートぶって全てを終わらせた気になっても、全ては終わらないのをご存じか。釈迦の直弟子らが目指したのはいわゆる魂まで全てを滅する「灰身滅智」の境地。ここに至るには「修行して解脱」しなければならない、そうでなければ、身が滅んだ所でまた何かに生まれ変わって、再び苦を味わうのだ、と。
弘法大師の曰く「死に死に死に死んで死の終わりに冥し」。幾度も輪廻を繰り返し、死を繰り返しているにも関わらず、性懲りもせずまた暗愚のまま輪廻の闇に堕ちいく愚かな我らよ・・
感情論で己の作る業も知らず、未来を担う者達の人品を貶め、自身の身勝手に先祖まで巻き込んで蔑ろにする・・感情論のその生き方は餓鬼畜生にも劣るのではないか、と言われているようではないか。
挨拶は言葉にすれば一瞬だが、人が人たる尊厳としての「愛情と敬意」が、いかんなく込められている。そのただ一言に、人はどれほど安心を得、安心を与えているか。
以前、ブログに施餓鬼の離怖畏仏について書いた。https://henjoin.info/diary/74903 恐れこそが餓鬼道の最大の足枷だ、と。挨拶や返事一つも離怖畏となる、相手を自身を有益たらしめるのだ、と。このページの閲覧数は結構なものの、全然理解されていないなァ~のメールやLINEにつけ、容易いようでさすが餓鬼道の最大障壁、と思いを新たにする・・
愛情の反対は無関心、とは夙に言う所だが、ロクな挨拶も返事もしないばかりかその無用を主張する大人たちは、子供に「あんたの事など無関心だ」と言っているようなモノだ。そういう環境の子供がどういう精神疾患を引き起こすかは、既に知られる通り。己が無関心扱いされるは自業自得だろうが、巻き込んだ後世への責任はタダでは済まない業となると思うが。
「死んで死の終わりに冥し」手のひらのSNSで毎時他人の動向チェックに人生の時間を浪費しながら、かたや怖れを増長する現代、大師の嘆きは大概の人に当てはまるに違いない。せめて当山にご縁のあった方々の人生はこうあって欲しくないと拙くも話してきたつもりだが、果たしてどれだけ・・
ずめチャンが⁉
施餓鬼に、今までに無い状況が。
夕方の早い時間にやったので、拝んでる最中に施餓鬼壇にスズメがやって来た。
早い時間にやるとたまにある光景だが、今日は違った・・
目の前で陀羅尼を唱えているにもかかわらず、ガキ飯をついばみ続けて立ち去らない⁉
常には、飛んできても経も聞こえ私の姿を見てアッ!とビックリしたかのように立ち去ってしまうのに、声を出してる私の方を見ながらもしばらく食べ続け、お腹一杯になってか飛んで行った~それまで発遣待ちました(^^;
よっぽどお腹すいていたのか、それともただのスズメじゃなかったとか⁈
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そうそ、待てと言われたから一か月待ったのに反映されてないじゃないか!とgoogleに改めて問い合わせると、返信が来た。
※私の送信↓
この度は、クチコミの返信の件につき、大変ご心配をおかけしてお
本件につきまして、担当部署へ確認をいたしましたところ、
現在発生しているシステムの不具合により、一部のビジネスにおか
該当の事象が発生しているとの回答がございました。
(同様の事象のご報告が多くあり、不具合の発生となっております
ご担当者様のアカウント自体に問題が発生しているという事ではご
その点については、何卒ご安心いただければと存じます。
この事象につきましては、担当部署にて早急に対応中ではございま
大変恐縮ながら、現時点で、問題の解決までにかかる時間の目処が
明確な期日をご案内する事が難しい状況との報告を受けております
したがって、本事象についてお問い合わせいただいたお客様へは、
問題の解決までお待ちいただくよう、ご案内をさせていただいてお
本件、お困りのところ申し訳ございませんが、不具合が解消され次
改めてご連絡させていただきますため、何卒ご理解いただけますと
頼まずとも企業は勝手に掲載しておきながらコレか、googleよ(# ゚Д゚)