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遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
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2024-09-15 19:39:00

餓鬼道なめんなよ⁉

彼岸施餓鬼へのお問い合わせがありまして、これまでも何度も話しておりますが、ご理解にはいまだ不十分な点があるようですので、簡単でございますが改めてこの機会にお話ししておきましょう>o</

 

施餓鬼供養と申しますと、先祖は餓鬼道なんかに堕ちてないはずだ/施餓鬼なんか関係ない、と言う方がたまにあります。

 

アナタの先祖が浮かばれて極楽に行ってるのなら、霊現象や災いが多発してる訳などないでしょ、って(失笑

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また一方で「供養したい先祖が餓鬼道にいなかった場合、施餓鬼の意味はあるのですか?」という疑問が出るのは、自然なことですね・・

 

では、餓鬼に施すとはなんぞや?

 

そもそも餓鬼道とは、インドの原義では【彷徨える死霊の次元】に過ぎません。餓鬼という言いでは、死んだら成仏を信じたい日本人にはショックが大きすぎると考えたのかどうか、俗にいう冥界・霊界、現世に重なっている霊的次元にとどまっている幽霊のこと。※禅宗などで施餓鬼でなくあえて施食と言うのは、そんな感覚が窺えます;

 

障りとして現れる霊とは、ハッキリ言ってしまえば餓鬼道に堕ちている魂、ということ。

 

生前に積んだ、或いは残された親類の積む功徳力によって解脱への道へ進入するか/神仏に導かれるか/転生するか、または地獄行きか、のいずれにも該当しない魂はこの餓鬼道にいる、と思ってよいでしょう。

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ちなみに、この餓鬼の中にも多くのレベルがあり、鬼神に等しい自在力を持つ餓鬼から、ただひたすらに他の餓鬼に虐げられる弱餓鬼まで、あるのだと・・人間界と変わりないですねぇ;供養を施してくれる人がないと所謂浮遊霊とか、執着が酷いと所謂地縛霊というレベルか。

 

それはそうと【餓鬼供養】という典拠は、仏教では釈尊の時代にまで遡るものです。お釈迦さまの直弟子である阿南目連の両尊者に由来する話は、あまりに有名ですので端折りますが(これは中国で作られた話だとの説もありますが)、釈迦の言葉に一番近いと目されている原始仏典の中にも、餓鬼に関わる話がいくつも出てきます。

 

その中に、あるバラモン(古代インドのバラモン教の僧侶)との問答があります。

 

餓鬼供養の意義を説くお釈迦さまに、それでは?それでは?としつこく食い下がるバラモンは、最後にこう問います。

 

亡き親類縁者が誰も餓鬼道にいない場合、施した功徳は誰が受けるのですか?

 

お釈迦さまは答えます。

【亡き親類縁者が誰一人として餓鬼道にいない、なんてことはあり得ないその餓鬼道にいる者が、享受するのだ】そして【しかもバラモンよ、施主もまた、その果報を必ず受けるのだと。

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これが施餓鬼の疑義に対する全ての答えといえます。凡人の思考では窺い知れぬ、巡り廻って彼此が救われる霊的施しがあるのだ、と。

 

それでも後世は不安があったのでしょうねww ここから密教の施餓鬼は(というか日本仏教各宗での施餓鬼は、真言密教第六祖不空三蔵の本に基づいています)、個別の餓鬼指定よりは広く有縁無縁の餓鬼衆に施し、その功徳を縁故の精霊に向ける、という方法論で行なっております。

年末施餓鬼のお知らせ

これによって「供養したい先祖が餓鬼道にいなかった場合」も「功徳はその精霊に向けられる」システムになってます!その死者が餓鬼道にいるかどうかは関係ない、のです。ご安心を(^^;

 

そしてまたこの精神に基づき、密教行法では必ず最後に【回向】を行ない、祈りの功力を施す範囲を広く指定して振り向けることになっています。たとえ個人の為の祈祷であろうとも。その功徳のおこぼれにでも縁じて、救われる人や霊や鬼神がありますように、と。

 

&かくなる言葉がございます。「回向せざるは魔業なり」と。成道した後もお釈迦さまは「私ほど功徳を求める者はいないであろう」と申されたそうですが、その感覚ではこういうことに関心も行ないも無い人は魔業にしか見えない、かもですね。

 

施餓鬼という行について、その外郭を簡易に解説してみましたが・・分かったかな?

 

にしても、上述の釈尊の言葉・・直葬墓じまい念仏で成仏したはず、と言うメデタイ日本人にこそ浴びせるべき言葉のようです(;^_^

 

2024-09-10 18:50:00

ローソク占い⁉

今日のお護摩で、祈願護摩木が焼け残り・・こういうことは滅多にないのですが。

 

それは先日お参りされた方が、奥さんの名義で書かれた護摩木

 

まあ~この方の奥さんは当山との約束を破った人で、本人はそれ以来、お出でになっていない・・

 

何気なしにお不動さんはちゃんと見てるのね~、です。

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それを思いますと、当山の仕事は全て【仏さんの力を頼んで】のことですから、お客さんは私ら寺の者にご依頼されているつもりでも実には、その地点で当山のお不動さんお大師さんに声をかけているに等しい、のでしょう。

 

とすれば、お参りに来ての態度言動はもとより、電話かけた地点から【当山の仏さん方には見られてる】と思っておくのが、たぶん正解。

 

当山では、ご参拝者に立てていただけるように祈願ローソクを用意していますが・・ここには不思議が見られます⁉

 

同時に並べて立てたローソクでも、普通に燃えるのと一気にダラダラと溶け切ってしまうのと、あからさまに差が出ることが多分にあります・・どうやら、急激に溶け切ったローソクの願意が、その人への警鐘や問題であるようで。

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何が不思議って、扇風機や暖房をつけていようと、お勤めの時などはほぼ変に溶けることはありません。誰か死にホトケが来てるな~と感じる時などを除いては。

 

ところが、お客さんがいらした途端にベロベロ溶けだしたりもします・・無風状態だろうと。

 

経験された信徒さんは多いのでご存じでしょうし、あまりの有り様にショックを受ける方もおられますが・・作為な事象ではないもので;

 

正にお参りされた地点で、お不動さんが参拝者を見ている証拠でしょう。

 

そして、燈明を献じただけで、その方への注意喚起のサービスまでされている⁉のです(^^;

 

お釈迦さまは「我が滅後に遺骨をストゥーパ(塔)として祀れ、さればその塔を見た人に【これは如来の在ました証なのだ】と浄心を起こさしめ、解脱への誘いとなる」と申されたそうです・・

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が、大乗の仏の働きは起浄心に留まらず、殊に当山の御仏は当山へ縁じただけでも何らかの示唆まで与えてくださるらしい⁉

 

と、そういう示しがあっても、ソレを活かすか殺すかは本人次第ですけどもネ。逆に理に適わぬことをしている人には、冒頭に述べたように見てらっしゃるんでしょう~(((;゚Д゚))

 

また、足を運んで参拝する人には、来ない人には得られぬ救いがプラスして向けられている、実例とも言えるのでは。焼香や献燈明すらしない人は知らんですけど。

 

正五九は四天王帝釈が見て歩いて閻魔帳に書いてるってよ!とは申しましたが、当山の仏さん方は、信徒さんをいつも見ているようです。その意識を頭の片隅に置いておくと、頂ける験もまた違ってくると思いますよ。

2024-09-04 20:21:00

不動金縛⁉

そういう事もあるのか⁉~とお不動さんの力を見せられた先日の話。

 

過日に、泥棒に入られてお祖母さんのカバンが盗まれた、と。いわゆる偽点検詐欺で目をそらした隙にやられたらしい

 

そういう訳で、家にお祓いに来て欲しい、とのご依頼。

 

その状況では現金は諦めるしかないにしても、免許証悪用されてはまずいし、せめて犯人は捕まって欲しいと思い、家祓いの依頼を受けたことでもあるしと急遽、不動金縛りを行じました。願主には告げずに。ninja_kaginawa.png

それから少し経って、捨てられていた空の財布と免許が見つかった、と報告。悪用されずによかった;

 

しばらくして、犯人が捕まったとの報告>▽<ノ そういう被害に遭われた思いは消せないでしょうけれども、一応の区切りがついて私共も胸をなでおろし。

 

そして先日、「犯人から詫び状と盗まれたお金が送られて来たんです・・」って⁉⁉ ご本人たちも喜んでいいのか当惑しきりであられたよう(◎_◎;)

 

しかし、人に迷惑をかけても謝罪すらないような「人でなし」が蔓延している現代に、そんな事もあるのねぇ・・と驚き、

 

また、ひょっとしてソコには、犯人が詫びずにはいられない事態を蒙ったのかも(((;゚Д゚))⁉

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普段には物理的な動きとしては見え難いですが、祈りの験力は厳然とある。信心の通じている先には必ずや威力を示してくださるなぁ~と、ウチのお不動さまの霊力を改めて思わされました。

 

にしても、岩手のような田舎でもそういう犯罪は横行しているようです、現行法はとかく罪が軽すぎのようですから・・皆さまも「自分は関係ないわ」と思わずにご注意を。

 

2024-08-31 21:40:00

ゼロまで引き上げよ!

ご祈祷は、その方向によって大雑把には4種に分けられます。それは、息災/増益/敬愛/調伏

 

簡単に言えば、

息災は、マイナスをゼロに引き上げる。

増益は、ゼロからプラスを足していく

調伏は、プラスをマイナスへ引き落とす。

下図に示すのが、分かりやすいかも。

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修行は原則、息災法で行なわれますので、普通に修行を終えただけでは息災法しか学びません。その他は、改めて明師を尋ねて授けてもらわないと分からない、手間もかかるし難しい、そもそもそういう縁がなければ叶わない法です。

 

こう書くと増益調伏のほうがスゴイように思えますが・・密教ではこの4種の内、『息災』を上とし、増益調伏を中下の法、とするのです。

 

儀軌にそう書かれているから、と言ってしまえばそうですが、そこには人の生きざまに照らして、まことに適った道理を感じるのです。

 

マイナスをゼロに持ってくる、とは言い換えれば、基礎の不利を埋める/弱点を補強する、こと。言うのは簡単ですが、実はこれこそがあらゆる事案の肝心かなめにして、最大の困難!だったりします。

 

そう、『弱さの穴埋め』ほど、難しいものは無い。

 

思い起こしてみてください、苦手科目の克服勉強にどれほど泣いたことか、手術から回復までにどれ程の時間と心労を要したか、好きな人に振り向いてもらう為にどれ程の陰なる努力とお金を使ったか・・(^^;

 

そして実問題がそうであるように、祈祷でもマイナスをゼロまで引き上げる、というのはなかなか至難なことです。自分のことですらそう、祈祷とは他人の事を扱いますから;

 

※溺れる人を助けに行った人が犠牲になるニュースはよく聞きますが、あれは溺れる人の力ってのは想像を絶する力で、掴まれると簡単に水に引き込まれてしまう、との記事を読んだことがありますが、祈祷も推して知るべし(;'∀') 鎮めの供養とはそういう次元です。

 

逆に、プラスマイナスゼロになれば、大体のことは何とか出来るようになるものです。そこから先の伸びるか留まるかは本人が決めるコト。弱さが埋まれば、自在が効く地平に立てる

 

祈願となるとプラスを願う人が多くなります。それは自然なこと・・でも、自身の基礎の弱さを省みずにプラスばかりを願ったところで、そんなモノは得られない、間違って得られたってそんなプラスはすぐに失われるでしょう。奇跡的入学した大学で勉強についていけなくなるように、軟弱地に建てたこだわり住宅が傾くように。

 

土用に世間ではウナギうなぎと騒ぐ中、当山ではきうり封じをしました。ウナギは確かに精が付くかもしれませんがその一時のこと。きうり封じは業に踏み込む祈祷ですからその人の潜在的領域に関わること。例えるならウナギは「増益法」で、きうり封じは「息災法」と言えるかもしれません。

 

はみ出したプラスなど簡単に崩れやすいもの。己の抱えているマイナスや弱さを埋める在り様こそ、何よりも心得るべきコト。それは奪われることのない自身の強化。付け足しなんかとは質が違う。

 

ですから、肝心なのは『マイナスをゼロに』なのです。息災は行の基本の法と書きましたが、人生の基本基礎とも通じていますね。当山で増益祈祷には先に息災祈祷を条件とするのもそういうワケ。

 

釈尊は『この世は苦の娑婆である』と喝破し、説かれたのが仏教の原点です。まず苦へ引き寄せ留める自身のマイナスをどうにかする! 「頑張ってより以上」以前に大切なこと、振り返ってみた方が、前進は早いかも。

 

ついでに、アナタのその不足は「先祖」というのも多分に見受けます。そりゃ、先祖はアナタの根っこ=基礎ですから。ちゃんとした先祖供養を継続している人は、拝む気のない人は知らない得られない功徳利益がありますね。先祖が満たされないのに自分は富貴、なんて無い(笑

 

盆供にご供養された施主皆さまには冥護多からんことを。

2024-07-30 20:21:00

咸!

窓を開けると、朝なのに熱風~

も、自分一人で拝む&換気扇まわすのに、高電気代かけてエアコンなどかけていられぬ;;

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6月からそうだが、如何に夏衣だろうと全く涼しいなんてことは無い・・半袖短パンでいる時期に重ね着ですから・・ホノルル以上の気温だってのに仏教会には衣を何とかせねば命がヤバい、なんて提言はないのか・・他宗はやらんでも護摩焚く我ら密教界はホント、袈裟一丁のインドスタイルへの回帰が必要だろう~

 

そんな熱風に加えて日輪観想の護摩ww物心両面の灼熱のせい?か卒然、氷解したことが。

 

供養に用いているとあるやり方、どうしてその真言にその書き様を用いるのか、長年行じつつも理解できなかったが、それが今日の護摩中にいきなり諒解した・・愛染法とは関連ない作法なんだがww愛染さんありがとう、だ。

 

と、自身もきうり封じをしたおかげかも。

 

きうり封じほうろく灸第一弾は一昨日行じたばかりだが、願主さんからは早くも、痛みが気にならず/和らいだ/驚いた/不思議なことが/祈祷の有り難さを痛感、などお蔭を頂いた報告を相次いで頂戴している\(◎o◎)/有り難い限りだ。

 盆供&きうり封じ&ほうろく灸!

 

また、そういう変化をたまたまとか偶然とせずにお蔭と受け止められる人は、そういう加護も頂きやすいというもの。

 

かたや病気だ不調だとグチグチ言うくせ、案内を受け取りながらこういう祈願をしない人もいる。アホやと思う、己の身体以上に大切なモノなどなかろう。やれることをやってみる気もないなら、感応などある訳もない。

 

易に「沢山咸」という卦がある。向き合えば激しく動き出すのに背中合わせのままで鈍感、という意を持つ。チャンスに動かぬ失機ともいえる。神仏とは、己から向き合ってこそ感応するものだ。向こうから動いてくるのではない、こちらから向き合ってナンボだ。向き合い続けて機が調ったならば、何らかの感応は必ず頂ける。

 

祈りでも何でもやれる事はやってみる、と向き合う人にはお蔭が多きことを>o<ノ

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