寺ブログ by副住職
今の流れが・・⁉
信徒さんにはお話ししていることだが、翌年の運気には、どうやらこの【年末近くの流れ】が影響している。
年末と言っても、秋10~11月くらいから年内いっぱい。
この時期がツイているとか忙しいと、翌年もそういう感じに向くものだし、逆にこの時期が苦しいとか落ち込んでくると、翌年も難しかったりしがちなもの。皆さんも振り返ってみられるといい。【そう言われてみれば、】と心当たりは、きっとあるはず。
【今の時期がどういう状況か】は、【来年を占う大きな要因】の一つと考える。
秋から調子が上がって来たゾ、という人は、その流れを大切に育むようにしたら、きっと新年もいい。
逆に、秋から調子が落ちてきたとかツイていない感じのある人は、早めに手を打って、年内に状況改善を図っておきたい所だ。それをせずに、新年になれば何かが変わると対処せずなら、きっと新年も下降線の延長となる。
「今年の汚れ、今年の内に♪」というCMがあったが、今の時期の不調はナメてかかると来年1年、泣く種となる。祓いは新年になってからでは遅い。年越し前に状況改善の努力はしておきたい。払うべきは祓い、供養すべきは供養しておくべきだろう。
またそういう点からも、今の時期は徳を積むにはお得シーズンとも思える。信徒さん向けに今年も始行した年末施餓鬼もその一端だ。
以前にも記したが、釈尊は【私ほど功徳を求める者はいないだろうよ】と申されたという。現代人は、欲は深く、幸せ探しと聞くと余念が無いが、その【私】を構成し取り巻く【縁や運】は功徳力による、その徳力を育む易行の最たるは施行による、とは思いも至らないようだが。
今回の施主様方には、自宅でもお勤めをしてもらう。せわしい時だからこそ、目先にただ流されるだけでない善行と時間で功徳を志す。
釈尊が求めて止まぬと申された功徳力、志ある施主様方には必ずや、その生き様の根っこを洗い、強化してくれる冥護功徳を得られるであろう。
翌年をアゲアゲにするには、12月の今、時の流れのままでなく何をしておくか、今をアゲアゲに向けることも肝心だ。
お見通し(((;゚Д゚))
恐山の本堂裏山には、不動明王が鎮座して奥の院となっている、そうだ。
その不動尊像の前に腰かけたその人は、後ろからやって来る足音に振り返り、女性が来るのを見て、席を動いた。
ところがいつまでも女性は来ない、姿もない。場所柄そういう類か?と祈りを済ませて山を下る。
と、下からさっきの姿の女性がやってきて声をかけてきた。「もしかして行者さんですか?」
戸惑う彼に、彼女はこう語った「さっき、奥の院に近づいたら【今は来るな】と声が響いて。」
「気のせいかと踏み出したら再度【今は来るな、この者と話している】と響きがして、ビックリして」山を駆け下りたと。
だからどうしても行者なのか?と確認しておきたく、声をかけたらしい。
ありがたい話にみえるが、この体験をされた怪談作家さんは、とんでもない恐怖に震えたという。ただ、手を合わせて拝んでいただけなのに仏は【話をしている】と語った。「神仏は何でもお見通し」を如実に思い知った、と。
**************
以前に読んだこの話を思い出すことがあった。
何年も問題なくやれてきた仕事でトラブルが発生。とんでもない客に関わってしまった、という。そのあおりで誹謗中傷もされて他客まで飛び火して相談。お祓いをされることになったが、ふと思う所があって申し上げた。
・・そういえば、授与した懐中守り、もう何年も祈祷されていませんよね。最低でも1年に一度はお護摩に入ってお加持し直しが必要ですよ、と申し上げたはずですよね?、と。
懐中守りとは、御守りの仏像というか、仏像タイプの御守りのこと。常の御守りは1年で納めてもらうが、こちらは一代守りとして一生の御守りとして持してもらう。
彫りこまれている仏像には、常の仏像同様の開眼を施してお渡しするが、形態としては御守り。なので、家庭で仏像をお祀りするに必須の、年一度の祭礼や厳重な扱いまでは必要ないが、普通の御守り同様のホッタラカシであってもならない。ゆえに、授与は余程の人に限っている。当山では数人のみ。
この人は、その余程の人であった。本人の気質のせいもあったが仕事も家庭も問題だらけ。心身も再起不能や命の際まであった。ご相談されてお祓いや供養などを重ねられ、当山での鑑定アドバイスは全て実行された。ゆえに懐中守りを授けた。そして、提案した鑑定通りに転居し資格を取り再就職し、家庭も円満となり仕事も引き立てを得てトントン拍子【おかげさまで、本当に何も苦が無くやっております!】と口癖のように話をされる。
それは結構だが、人というのは調子が良い時ほど肝心なことを忘れるものだ。いや、手間や金がかかることは忘れた振りをしたい、のかもしれない。
住職からこの話を聞いた時に、パッと脳裏に【全然拝んでねえぞ】の言葉が浮かんだ。私も懐中守りのことはすっかり忘れていたが、この言葉で思い出した。お不動さんからの通告だろう。
皆さんは普段感じることは無いと思うが、御守りは【身代わり】であって、障礙を除けさせながら持した人の業も負う。あまりに強烈な障りや業に耐えなくなると割れたり、腕輪数珠だと切れたりするが、そうならずとも負い続けている。鳴り護摩をやると判る。であるから、御守りは最大でも1年で終わり、切れた数珠は焚き上げ、感謝を込めて納めて新しい守りをお求めを、という。本当は数か月程度で替えるべきと思っている。
常の御守りにしてこの様であるから、半永久的な御守りならば、少なくとも1年に一度は感謝して祈祷し直し、仏の威力を復活させる必要があるのだ。時折には取り出してお供えと読経をするように、と言っているから、その程度はされているだろう。しかし、業を落とし威光を復活するのは俗人には不可能だ。専門の祈祷でなければならない。
ちょっと覚えるとか与えられると自分は特別、とイイ気になるのは人の常。だから余程の人じゃないと、なのだが・・。仏さんも手元に居るし、全てがトントン拍子だし、とりたてて祈祷などせんでもいいだろう、という気持ちがあったのではないか。現にご自身のことは新年祈祷以外はされなくなった。
そうした長年にこの人の業を負い過ぎた「懐中お不動さん」はもう限界、抑え込んできたトラブルが噴き出した、と私は感じた。いや、とっくの昔に約束を破った延長だからこの程度では済まないはずが、参拝だけは欠かさずにされているから、仏さんもそこに免じて耐えて頑張ってこられたのだと、想う。今回お祓いを申し込まれなければ、懐中仏は回収する腹だった。仏さんに申し訳が立たない。本当なら詫びの供養だけで1座行なうべきところだ。
神仏は声や動きで見せることは滅多にない。ゆえに、身近になればなるほど、敬意も謙遜も忘れて気にも留めずとなってしまうのかもしれない。しかし、我が脳裏にひらめき語りかけたように、神仏は見ている。先の怪談作家の話を借りれば、ただ【手を合わせてお参りをしているだけ】のつもりでも、神仏は【アナタと話をしている】というのだ!
意識では知り得ぬが、深層意識=マナ識アラヤ識アンマラ識という、煩悩や業、仏性や輪廻をつかさどる領域と話をしている、のだろう。我々の意識では制御も隠しもできない、あなたの心の奥底に秘めた部分と神仏は会話をしている。だから懴悔/三帰三帰竟/十善戎/発菩提心/三昧耶/を日々に繰り返し、深層意識にそれらを薫習させておくのは、仏と向き合うのに欠かせぬことだ。
そしてこの人はお参りを欠かしていない。違約をしながら何年も好調を持ちえたのは、仏が「参拝は欠かさぬ心」と会話し、仕方ないなァ~と、限界まで耐え下さったに、きっと他ならない。
見えぬから、聞こえぬからと義理を欠いては、それは身に返る。祈祷や相談で本堂に上がりながらも、焼香合掌一つせぬ人もいるが、礼儀知らずの愚の骨頂と常々思っている。そんな有様では、鑑定しても妙手が見えないとか祈祷しても難しい、は当り前。信仰以前のマナー問題だ。
参拝は、そこには【仏から<全てお見通し>の上で、会話を持ち掛けられている】と思うのが、どうやら正解であるようだ。本堂に入って来た地点から、いや、玄関を入った地点から、いや、電話をかけて来た地点から、既に見られているのだろう。
願いを叶え、災いをはらい、死者を導くのは、私ども寺族ではない。私共にキレイごとや泣いたり吠えたりしても、応えるのは貴方の心を見通す本尊以下、当山の仏衆である。
祈祷供養はもとより、鑑定とてそこに応えるのは神仏の意。与えられるのは貴方に見合った応えである。
恐れは必要ないが、畏れは忘れてならない。親しくあってはいいが、礼を欠いてはならない。これらをお読みいただき、力添えを頂くには如何にお参りをされるか、の心得とされたい。
ちなみに【死者もお見通し】らしい。事例はいずれの機会にか紹介する。
【注意喚起】
構うのもバカみたいですし、寺の恥でもありますので躊躇いますが、もう言っておくべきか、と副住職の勝手で書きます。
【遍照院に昔関係していたと語り、坊主/拝み屋/占いをしている者は全て、先代による破門者/絶縁者/あるいは無関係の嘘つきです】
とりあえず、コレは覚えておいてください。
「××さんからこちらと確執があったと聞いたが、それは本当なのか」と先月、朝7時に唐突に隣町から来たという女性。今アナタに答える義務などない、話をしたいなら予約をして来なさい、と返し、音沙汰無し。
かつては当山の弟子/師匠/本家/分家などと称して商売をしている輩が結構いたようです。名を言われても誰それ?な全く見ず知らずの賊らも往々でしたが、中には確かにかつて、先代の時に当山に関わりがあった者たちも。しかし当時幼き私から見ても、よりによって身の程を弁えぬ自己顕示欲の塊みたいな者ばかり。人手がどうしても欲しい時代だったにしても。
そしてそういう者たちが、他所で何を語りやっていたか、と言うと、
自分の哀しい境遇を語り、当山のあること無いこと悪口を言い、自分は偉いんだ凄いんだ拝んでやる占ってやる、花巻なんかに行ってはならない、というのが大方のパターンだったようです。おかしなもので、こういう話は尋ねずとも漏れ聞こえてくるもので笑。呪い潰すの云々と言い放った奴もおりましたね。恩を仇で返すザマ、を多々見聞きしました。
それはそうと、こんな【他のゴシップ話が十八番の寺教会に、信仰を寄せる信者達】の神経自体、イカレてると思うのですが。ゲスってこういう人達なのでは。
現住職は、先代の末っ子にして女性。ただでさえ年功序列男尊女卑の時代に上述の輩の取り巻き、若い女の子が早くから後継指名を受けたのですから、周囲からの誹謗中傷の風当たりは火を見るより明らか。先代に破門された者達も住職が絶縁した者も、執着だけはいつまでも執拗で。
住職就任から数年後、助法のお寺さんが「よく残った、お寺無くなってしまうじゃないかと思った」と言った程の、露骨で過酷な邪魔にも、現住職は寺を護り抜いてきました。
上述のような族らの話が聞こえても住職は「放っておけ、仏さんは見てるから」。知り得たうち一人の末期の姿は正に、天罰か報いか、あるものだなァ、と感じましたが、徐々にそういう問い合わせも少なくなり、大方死に絶えたのだろうと思っていましたが。
そこに冒頭の件。未だにそんなこと語っているバカ居るの?、なさけないにも程があるわ(失笑
寺教会というのは祈りを説き、安心立命を導くところであるはずです。仮にも宗教を生業にしているなら、仏の教えや祈りを通して己が感得した事など、いくらでも話には困らないはず。それを未だ、昔に当山に関わりあるの、可哀そうな身上だの、当山の悪口って・・飲み屋のホステスかよ。嘘はつき続けると自身も本当だと思い込んでしまうと言いますが、そうなのかも。長年仏を祀って宗教家をやってきても何んにも、宗教体験の自負すらも、得るモノはなかったんでしょうね。
そんな者に信仰を寄せる信者の質などゲス、と述べたように案の定、冒頭のような非常識。
住職がずっと黙ってきたのをイイことに、相変わらず言いたい放題・・冒頭の「本当なのか?」って、本当のことを喋られたら、窮地に追い込まれるのはアナタの先生サマですよ。どれ程どんなコトをやっていったのか、その一端は幼少だった私の脳裏にもしっかり焼き付いていますから、本人も忘れたはずはあるまい。
当山に居れなくなった=ウチのお不動さんに睨まれて居られなくなった、が正解。破門にされたワケを考えてみたら?ですね。
というわけで、未だに「昔当山に関わっていた/弟子/師匠/本家/分家等と称して、拝み屋/坊主/占いをしている者は、破門者か無関係のホラふき」です!
もし、出会ったりしましたら【破門かホラふき】と認知して、お気を付けください。
雄弁にモノを語る奴ほど、その真はいかがなものか。私たちは政治という場でサンザン懲りてきたはず、ですけれどもね。
無など無い!
こんな記事を目にした。
このJ尼に関しては、去年訃報ついでに個人ブログに書いたが、記事を読んでやっぱり腑に落ちないモノがあるので一言物申しておきたい。
記事中に彼女の言葉として
「いざ死んだら、怖さも懐かしさも無になると私は思います。もちろん、まだ一度も死んでいないから、本当のところはわかりませんが、死んだら無という気がしますね」
という。
どう思うかは個人の自由だが、少なくとも仏教を奉じ行じた者には、こんな言葉は出てくるはずが無い。
端的に言えば、「死んで無になるなら、釈尊は仏教など説かなかったはず」だ。
以下、語弊を承知で簡単に述べる。
仏教の根本理念とでも言うべきものに三法印がある。無常&無我&涅槃だが、忘れてならないのは一切皆苦であり、コレを加えた四法印が正解だと思っている。
で、これらの言葉から仏教は「空しい儚い教え」と捉えられ、どうやら坊さんにもそんな理解が少なくないようだ。
だが、無常は読んで字の如し、常なるは無い=一切のモノは絶え間なく変化し続ける存在である、に過ぎない。自分に引き寄せて体一つとっても、日々に細胞が入れ替わり変化し続けるもので、昔の自分と今の自分は同じようで別物。
その変化し続ける自分は、歳喰いたくないと思っても老けるし、病気したくなくても病気になる。自分の事なのに望むように出来ないコトばかり=コントロール不能=意のままたる不変の「我」など存在しない=無我。
そして、インドでは「行為には潜在する作用力が伴い、形がなくなってもソレは作用する」と考えるのが普通らしい。これが業力だ。これを信じるか否かの問題はあろうが、釈迦は悟りにおいて是を語っている。少なくとも仏教者には事実である※1。行為による業力に引かれてまた存在が形成され、そのまた行いで業力が生じる。つまり、際限がないループ。我なくして輪廻とはこういうこと。存在とは「業が形を纏ったもの」というのが正しいのかもしれない。
※1 生前キリスト教信者だった人や神官さんだった故人も鎮めた経験から、個人的には業力とは普遍な真実であると思う。
仏教で語られる「苦」とは、本来の意味だと「不満足」と訳されるが正解らしい。変化し続けるということは一時、満足を満たしても、そのまま満ち足りが続くことはない。満腹でもまた腹は減り、素敵な家も高級車もイケメンも美女も老朽化し崩壊する。コントロール不能な我の欲するまま、際限なく変化が繰り返されるだけの世界の中で、その時その時を満たそうと追い続ける所、どこまでいっても「完全満足維持で完了」など、ない。
果てしなく繰り返される変化の環境に、我欲の赴くまま渇愛を追い続け、そこで作った業力でまた輪廻して、命もつ境界では生老病死の苦しみを永劫に繰り返す。
この苦しみから解き放たれる道、として説かれたのが仏教だ。
生を苦しみとするか?のインド中国日本での背景思想の差異等の視点はくどくなるので止めるが、釈迦は【生を何度も繰り返すのは苦しいことだ】と語っていることは、知っておいて欲しい。
つまり、私らを含むあらゆる存在は、終わりなき変化の中で、形を変えながら生滅を繰り返し続ける存在である、というのが釈尊の悟りの見立てではないか。
確かに物理的にも、微細なる数限りない素粒子が様々な縁力で結合離散し、生成消滅を繰り返し、あらゆる存在を作り上げているではないか。
形として滅したように見える物も、分子レベルでは分解されただけで、それらはまた別のモノを構成する要素となるのは、今は常識的な話。分子素粒子レベルで完全消滅ということは、無い。
長くなってしまった、ここらで。
すなわち、
【存在とは永遠に「無」にはなり得ない、業力と縁によって形を変えながら、どこまでも生成消滅を繰り返し続ける】
いわゆる無機物だって然り、だから、命を持つ存在には絶え間なき再生によって、完璧満足などない苦しみが繰り返される。
仏教を学び、行をしてきた者ならば、この認識は得て然るべき、と思うのである。
死んだ者のことを今更とやかく言うつもりは無いし、彼女のような影響力の微塵もない田舎坊主の分際で、と思われるかもだが・・記事には「Jさんの生前の言葉に学び、これからを前向きに生きるヒントにしたいものですね」とあり、こんな仏教に非ざる言葉を【前向きに生きるヒント】なんて、仏教としてたまったもんじゃない、と書いた次第。
先日、「テレビではこういうの見た事あったけど、まさか自分が目の当たりにすることになると思わなかった」と同伴の方がショックを受けられた、激しい供養があった。死者の念が強烈すぎるとこういうこともある。そうでなくとも、当山で供養して事態が変化する方は少なくない。多かれ少なかれ、死んでも想念は残る、これは事実。コレの宜しくない執着→悪しき境涯への輪廻を戒めるのが、大乗の教えの概要だろう。無になるなどありえない。
もっとも、南伝仏教では【灰身滅智】を理想とすると聞くが、これは正に再生しない【無】を目指すもの。目指して修行して解脱しなければ到達出来ないのが【無】なのだ。
私が霊符を授かったY僧正は「祈祷の出来ぬ坊さんに、真の供養など出来ませんよ」と仰った。祈祷という「実際にコトを動かす祈りの現場」に関わらない坊さんには、釈尊が説いた存在の微細さなど、知る由もないのかもだが・・やはり、あくまで作家さんだったのね、である。
いや、悟ったから軽々しく「無」と言えたのだったら、批判は撤回せねばなりませんね。まあ、それは彼女が所属の天台宗=大乗仏教の目指し、得る所じゃない筈ですけれども。
ピカールとミョウガ⁉
お釈迦さまに周利槃特(チューラパンタカ)という、お弟子さんがいた。
ところが、あまりに物覚えが悪すぎる。いや、自分の名前すらも憶えていられぬ有り様、修行仲間からも蔑まれ、悲嘆にくれる毎日。
そんなパンタカを見かねた釈尊は、「塵、垢を除け、と手でこの布を撫で続けなさい」と一枚の布を与えた。
どうなりますか・・キレイだった布は、だんだん汚れてきます。
「仏陀が繰り返し説かれていた無常とは、こういうことか!」
それを契機に、今まで全く理解できなかった説法がほどける様になり、それを見た釈尊は更に「心の垢、塵を除くことが大切」と教え、最終的にパンタカは阿羅漢果を獲た、という。
この周利槃特の話、仏教に親しい人にはおなじみですが、アレ?と思う人もおられるかと。
そう、箒を与えて「塵を払い、垢を払え」というのが有名ver.ですよね。また、布で靴を磨かせた、という話でもあったりします。
が、私が読んだ本では「布で手を撫でさせた」のがメインで、箒や靴磨きは別の伝扱いでした。
2500年間の伝言ゲームじゃ、話が統一していないのは自然ですけれど;「無常を認識した」視点からはこの「布を与えた」のが実際なのかな、と思ったりします。
そう思うと、今日もした「真鍮磨き」は、原始仏教の教えの一部門でもあるのかも笑
真鍮はひと月も経つと酸化してクスんで来ます。密教は法具がとても多い&護摩壇磨きまで入れて「2時間、あ゛~;」と思いますが、日々に用いるもの。磨かざるを得ません(^^;
ピカールつけて磨くとすぐ真っ黒になりますので、いちいち「無常・・」とは感じませんが、くすんだ法具がピカピカなるに「磨いたら光る!」の「無常」とは向き合っているかも!そして復た、くすんで行く、という「無常」とも;パンタカとはちょっと視点が違いますけどね。
そう思うと、真鍮磨きは「無常」から、図らずも「如来蔵」に気づく、修行なのかもです。
他寺さんはご奉仕の名のもと檀家さんにさせたりするそうですが、ウチでは信徒さんにさせることは無い・・やれるコトは何でも自分でやってしまうのが拙寺のサガですが、上述を思うと基本信徒には頼まない、ってのは教化的にはダメなのかも・・
ところで、薬味になる「ミョウガ」風味がイイですよね~で、これ、上述のパンタカさん由来⁉
なんでもパンタカの墓に生えた、得体不明の植物であった、らしい。
彼は自分の名前すら忘れる有り様で、見かねたお釈迦さまが名を書いた幟を背負わせて、名を尋ねられたら幟を見よ、とさせたら、釈尊の書いた字に惹かれて来る人々からパンタカは托鉢に多量の布施を頂いたという。名を背負った=茗荷、というワケ。
ミョウガを食べるとバカになる、という一部の俗説もそんな理由~。でも、パンタカは最終的に「阿羅漢」になりましたから、むしろ有り難がるべきじゃない?
人は変わるもの。過去を引き合いにバカになるって言いは、周利槃特にもミョウガにも名誉棄損だよねェ、と思うのです笑