寺ブログ by副住職
餓鬼道なめんなよ⁉
彼岸施餓鬼へのお問い合わせがありまして、これまでも何度も話しておりますが、ご理解にはいまだ不十分な点があるようですので、簡単でございますが改めてこの機会にお話ししておきましょう>o</
施餓鬼供養と申しますと、先祖は餓鬼道なんかに堕ちてないはずだ/施餓鬼なんか関係ない、と言う方がたまにあります。
アナタの先祖が浮かばれて極楽に行ってるのなら、霊現象や災いが多発してる訳などないでしょ、って(失笑
また一方で「供養したい先祖が餓鬼道にいなかった場合、施餓鬼の意味はあるのですか?」という疑問が出るのは、自然なことですね・・
では、餓鬼に施すとはなんぞや?
そもそも餓鬼道とは、インドの原義では【彷徨える死霊の次元】に過ぎません。餓鬼という言いでは、死んだら成仏を信じたい日本人にはショックが大きすぎると考えたのかどうか、俗にいう冥界・霊界、現世に重なっている霊的次元にとどまっている幽霊のこと。※禅宗などで施餓鬼でなくあえて施食と言うのは、そんな感覚が窺えます;
障りとして現れる霊とは、ハッキリ言ってしまえば餓鬼道に堕ちている魂、ということ。
生前に積んだ、或いは残された親類の積む功徳力によって解脱への道へ進入するか/神仏に導かれるか/転生するか、または地獄行きか、のいずれにも該当しない魂はこの餓鬼道にいる、と思ってよいでしょう。
ちなみに、この餓鬼の中にも多くのレベルがあり、鬼神に等しい自在力を持つ餓鬼から、ただひたすらに他の餓鬼に虐げられる弱餓鬼まで、あるのだと・・人間界と変わりないですねぇ;供養を施してくれる人がないと所謂浮遊霊とか、執着が酷いと所謂地縛霊というレベルか。
それはそうと【餓鬼供養】という典拠は、仏教では釈尊の時代にまで遡るものです。お釈迦さまの直弟子である阿南目連の両尊者に由来する話は、あまりに有名ですので端折りますが(これは中国で作られた話だとの説もありますが)、釈迦の言葉に一番近いと目されている原始仏典の中にも、餓鬼に関わる話がいくつも出てきます。
その中に、あるバラモン(古代インドのバラモン教の僧侶)との問答があります。
餓鬼供養の意義を説くお釈迦さまに、それでは?それでは?としつこく食い下がるバラモンは、最後にこう問います。
「亡き親類縁者が誰も餓鬼道にいない場合、施した功徳は誰が受けるのですか?」
お釈迦さまは答えます。
【亡き親類縁者が誰一人として餓鬼道にいない、なんてことはあり得ない。その餓鬼道にいる者が、享受するのだ】そして【しかもバラモンよ、施主もまた、その果報を必ず受けるのだ】と。
これが施餓鬼の疑義に対する全ての答えといえます。凡人の思考では窺い知れぬ、巡り廻って彼此が救われる霊的施しがあるのだ、と。
それでも後世は不安があったのでしょうねww ここから密教の施餓鬼は(というか日本仏教各宗での施餓鬼は、真言密教第六祖不空三蔵の本に基づいています)、個別の餓鬼指定よりは広く有縁無縁の餓鬼衆に施し、その功徳を縁故の精霊に向ける、という方法論で行なっております。
これによって「供養したい先祖が餓鬼道にいなかった場合」も「功徳はその精霊に向けられる」システムになってます!その死者が餓鬼道にいるかどうかは関係ない、のです。ご安心を(^^;
そしてまたこの精神に基づき、密教行法では必ず最後に【回向】を行ない、祈りの功力を施す範囲を広く指定して振り向けることになっています。たとえ個人の為の祈祷であろうとも。その功徳のおこぼれにでも縁じて、救われる人や霊や鬼神がありますように、と。
&かくなる言葉がございます。「回向せざるは魔業なり」と。成道した後もお釈迦さまは「私ほど功徳を求める者はいないであろう」と申されたそうですが、その感覚ではこういうことに関心も行ないも無い人は魔業にしか見えない、かもですね。
施餓鬼という行について、その外郭を簡易に解説してみましたが・・分かったかな?
にしても、上述の釈尊の言葉・・直葬墓じまい念仏で成仏したはず、と言うメデタイ日本人にこそ浴びせるべき言葉のようです(;^_^