寺ブログ by副住職
彼岸の話④いっぱい食べて大きくな~れ!宇宙規模まで⁉
④【広博身如来】
③で仏へと成長できる心身を得たなら、モリモリ食って大きくなぁ~れ!がこの仏。
②に書きましたように、餓鬼の喉は針のように細い。オマケに食べようとすると口から火を吐く。ゴジラみたいに意志で火を吐くならともかく、ご飯食べようとすると火炎放射って・・そんな身体イヤだ;
という訳で施餓鬼には、餓鬼の火を鎮めて喉を開く作法があるんです。これで供養が届く状態になる>▽<
施餓鬼の偈文には、この広博身如来は「口と喉を大きく開かせて、たらふく食わせる」とありますので、それはそうなのでしょうけれど、ならばこの名前よ・・?
「博」も大きく広い意。乃ち「大きく広くとってもでっかい身体の仏」と言う名前(^^; 一杯食べておおきくな~れ!にしても過剰すぎやしないか⁈ ギャル曽根だってそこまで言われたら恐縮するレベルですわ。
と常にはそこはお寺さんも気にせずスルー、するトコですが、実はこの仏名、理に適った名前なのです。
私がとある伝授で習いましたのは、偉大なる体にして偉大なる精神は宿る。心身偉大であれば甘露なる物も仏法もよく受け入れ、修行し悟りに至ることが可能となる、と。
にしても、広大無辺な身体って話がいきなり宇宙レベルに飛躍し過ぎ、なんだか訳分かんないヨ~
にふと、お大師さんの言葉。
仏とは「法界をしかも体となし、虚空を以って仏心と為す」「もし大身を現ずれば~礼拝を生せず、ゆえに擁権に小身丈六の相を示す」
・・仏の本体とは宇宙そのものみたいなものだから、それでは衆生は拝むも出来ないから、丈六※という小さい仮の姿をされている
そうでした、仏の本体=悟りの世界ってのは、宇宙大なるもの。真の悟りに踏み込もうとするなら、その規模の心と身体を求めねばならぬのは、必然なことなのです。餓鬼の身からせいぜい人間の身体程度になって満足していては、仏の世界には遥かに道遠し~
悟りを求めるなら、その身その心を肉体で限られる程度で満足すな!心も体も己を超えて偉大になれ!
という導きなのです。ここに来て、肉体に囚われる範囲からいきなり宇宙次元に観点が飛ぶので、施餓鬼をやる坊さんも大概認識が「喉開いて一杯食わす」止まりなのも、ムリない話ですが;
しかし、私らの努力や目標とて大きな成果を掴まんとするなら、同じ観点が要るのではないでしょうか?
【どこかで、大きくジャンプする】という冒険が要る、と。
コツコツ努力は、それは何事にも大切です。ですが、ひたすらそれだけでいつまでも日の目を見ない、という現実が多い事も知っているはずです。
ある程度積み重なったものが身に付いたら、飛び出す!いつまでも安全枠に留まっていては、その先など知れたもの。
鳥の雛は否が応でも巣立ちしなければなりませんね。そのままそこにいたら親は見捨てますから、死んでしまいます。飛べないかもと恐れても飛ぶしかない。成長とはそういうことでしょう。一度飛んでしまえば、恐れていた世界、憧れていた世界は、日常となる。
餓鬼が仏になるには、ここで一気に宇宙に飛び出すほどの勝負をかける必要がある。
人が更なる高みに至るには、どこかで日常や常識の枠の一線を飛び越えねばならない。
そして、その時は、心と身体がしっかりと養われていることが肝心だ、と。
弘法大師が、他宗の祖師のように寿命に任せて老衰で死ぬのを拒否し、入定を急いだのは「後世のため」でした。肉体改造を行なって加持力を残す為には、老いてヨボヨボの体では出来ない、心身が万全なうちに成し遂げねばならなかった。
まことに「偉大な体にこそ偉大な精神は宿る」そのことを熟知しておられたのです。
よく生きるには、心身のバランスが大切だ。もっと善く生きたいなら心身を鍛え上げて、どこかで大ジャンプすることが必要だ!
ご飯いっぱい杯食えよ仏は、食事とは「命の在り方、を養うもの」だ、と教えているようですね。
そして生き物は、その形態によって摂る物は異なりますが、いずれも食によってその命を繋いでいます。
食なくして命=存在無し。
たかが食、されど食。
ゆえに仏典でも、釈迦に説法を乞う人は、お招きしたら釈迦と連れ添う弟子数十~数百人に食事をお出しして、それから説法を受けたらしい。※坊さんをお招きしたり法事にはお斎という名で食事を出すのはこの名残。ここまで含んで供養の一環となるのが本来。
涅槃の際に釈迦は、(傷んだ食を布施したチュンダに)仏が成道する最初の食事(スジャータの乳粥)と、涅槃前の最後の食事を布施した功徳は等しいものだ、とチュンダに伝えよ、と言い残した話。
②に記したように、弘法大師が庶民学校の開設に「食の給付」を1条件としていたこと。
食というモノが、命にとっていかに重みを持つものか・・食えないということがどれほど酷の極みであるか・・
中世のある高僧曰く、仏法には施を第一とし、そこには様々な施の形があるが、その中で最上たるは施餓鬼である。と。
生あるもの、食える有り様たれ!という広博身如来の誓いは、命に対する筆頭の慈悲かもしれません。
何気ない日常である食ですが、扱い方次第で喜怒哀楽を生む場所。与える与えられる共に、そこは喜びの場と出来たらそれだけでもきっと功徳モノ、ですね。
以前に記した五観の偈の話もあわせてどうぞ。
※丈六=1丈6尺。約4m80cm。いわゆる大仏とはこれを基準にしていることが多い。これで小さいんだって;
<一寸オマケ>
※餓鬼が要求したご飯は【マガダ国の升でヨロシク】。古代インドにあったマガダ国の升は、他国の升より大きかったそうで。どうせくれるならと欲張りな・・(;'∀')
※食事作法にはしょっぱなから「平等行食」と出てきます・・上座も下座と差別なしね、って。食い物の恨みは恐ろしい、ですねww
※お釈迦さんのお父さんの名は漢訳で「浄飯王」。禅那波羅蜜に飯食が当てはめられ、施餓鬼には飯と、お米が主食の地域柄が見えます(^^;