寺ブログ by副住職
彼岸の話⑤黒歴史に戻らぬ道!
⑤【離怖畏如来】
④で仏に成れる心身を手に入れたなら、後は修行あるのみ!
・・ですが、そんな意気込みも堅い決心も、一発で引きずり下ろす「ヤバい感情」があります。
何でしょう?・・
それは【恐れ】です。
恐れがあると、防衛本能が働きます。それは生き物として当然のことで非難されるべき事ではありません。むしろ、大切にされるべき感覚です。
しかし、自分の身や未来の安全を確保しようとした時、どういう行動をとりますか?
可能な限りの安心を手に入れようと必死になりますね。
そうです、慳貪がむき出しになるのです。
そうです・・餓鬼道に舞い戻りです;
【恐れがある限り、慳貪は逃れない=つまり成仏は叶わない】のです。
その恐れを除くのが離怖畏如来。名前まんまです(^^;
ここにおいて、餓鬼が仏へと昇転する道筋が完成する。
と、考えてみますと、確かに「恐れ」の感情こそが私達の日常を支配している・・
人が社会を作り生活するように進化したのは、お互いに身の安全を確保するため、と言われますね。
密教は四恩に報いよ、と言いますが、内の「国王の恩」とは国家統治の恩のこと。野性時代と違って常に命の危機にさらされずに生きられるシステムに対する恩。
事件事故が起きれば、その原因を事細かに分析して抑止へのデータとし・・
病気への不安で病院は連日繁盛、生活を削って保険をかけ、数多の薬とサプリをのみ、安全と言われると見境なく、マスコミで不安が報じられると買いあさり、将来の為にひたすら節約、SNSのイイね数を自分の価値とし、ただ己の不足を追いつづける・・
生き物の本能としてそれは自然なこと。でも書き連ねてみるとまことに「貪欲」でもあります・・しかも終着点が無いという・・災害は必ずやってきますし、身体は必ず衰え死す。
終わることの無い「恐れ」に振り回されて欲をたぎらし、限りある時間を「恐れ」の穴埋めの為に費やす。確かに餓鬼道ですわ・・
恐れにおびえるのは真っ当であるにしても、どこかでソレに怯えぬ「安心」の境地も得なければ、生きるとは一体何だったのか、となってしまうのも真でしょう。
俗にあって俗に振り回されない立命の境地を、安心と書いて仏教では「あんじん」と呼びます。荒れ狂う世俗の中にあって、仏心で恐れを離れた境地。こうなれば俗世の悟りですね。
信仰の目指す所はこの「離怖畏」を得る事なのではないかと思ったりします。それは、生きる事を「もっともっと欲」の餓鬼道に縛られず自在を得ること。成仏への足枷を外すことでもありますから。
動じない事の強さを教える不動明王がおり、人々に不安恐怖をもたらす輩を降す太元帥明王がいるのもゆえ有ることです。
恐れと言う感覚、それが備えや警戒を超えて欲しがるだけの餓鬼道に堕ち入っていないかどうか。どこかで一息入れて見直す。それだけでも、心の安定はだいぶ保ちやすくなるのではないでしょうか。
また、現状に嫌だイヤだといいながら、踏み出すこともせず、いつまでも同じことを繰り返す、よくある光景です・・人の事ばかり言えない;
これは、未経験の地へ踏み出すことの「恐怖」ですよね。苦しく辛くても慣れた地獄の方が実は安心しているという・・恐怖故に餓鬼道の堂々巡りを繰り返すというのは、この点でも理解できる話かと・・
恐れ感覚ついでにもう一点。
お寺のメールやLINEをしていて、常々思うことがあります。言葉遣い云々もありますが、手紙と違うのでそこはあまり気にしない。
ですが、その反応のしかたで、この人は好かれないよな、とか、引き立てないよな、と思わされること多々です。中には、コレでよく今まで社会人務まって来たなぁ~(◎_◎;)という人も。お参りされた時には見えない素顔が、やり取りにはむき出しになる。
一時、既読スルーが話題になったことがありましたね。コレ、言うなれば「恐れ」の感覚です。読んだのに返事が無いってどういうこと⁉っていう恐怖。
それって過剰反応すぎない?とも一面思うのですが、何でも是か非か決めつけなきゃ気が済まない今時の風潮。そういう中では、平気でスルーする人は、相手に「恐れ」を与えていることに気づかない。いつまでも開かない=既読がつかないのも同じ。尋ねておきながら返信に無反応な人も。返信に対する反応が見えないのも「恐れ」となる。
反応が無い人=相手に恐れ/不安感を抱かせる=相手から好意を寄せて来るとか、引き立てられるわけがない。
当山では確認次第、出来るだけ早めの返信を心がけ、無理な場合はとりあえず確認した旨だけでも伝えるようにしています。LINEはスタンプという便利なモノもありますし。※意味不明とか非礼には文句とか無視しますww
恐れ感=この人は大丈夫なんだろうか?を日常のツールで撒き散らかしていては、そこで人を見られてしまいます。
言葉遣い一つ、電話のかけ方一つ、メールに対する反応の仕方一つで、そういう人なんだ~と決められてしまう。ホントの自分はそうじゃなくても、そうじゃないと言っても、相手はそのように決めつけてしまう。それが【恐れ感】のコワさです。
面と向かい合う場面が極端に少なく、不要な時代になりました。ですから余計に「恐れ感」は大きくなるでしょう。
そういう世情であれば尚更、姿が見えない程に「離怖畏」感を意識することは、コミニケーション上の大要因とも言えます。
成仏へのステップにおいて、振り切らねばならぬ大案件とされる「恐れ感」。いわんや、人の世においてどれほどの妨げになるか、言うまでもないでしょう。
不安多き風潮の中、「離怖畏」感は相手にそして自分にも有益でしょう。それが自然に為せるとは、そこには相手を慮るという心があってこそ。慈悲のありよう=アナタという仏の有り様も、にじみ出ている場面かもしれません。
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にしても、働いて国を支えている国民からただただむしり取り、ひたすら将来の憂怖不安を掻き立てる=餓鬼道へいざなう政治なんぞ、魔道そのもの・・その輩の罪業の深きは如何ばかりぞ。