寺ブログ by副住職
易々?ww身体張ってます!
祓いや供養など私らの業界には「かぶる/うける」という言葉があります。要するに、願主や故人の障礙を被ってしまう事態。
相手の状況に入れ込んでしまったり、神仏頼みで任せきるべき所を行者が力み過ぎたりと、祈祷にかかる主体を行者自身にしてしまうとそうなる、とは古来言われるところ。
ですので、祈祷に関わる者の基本としてその点はよくよく心得ているつもりですが、それでも時として、被ってしまったか( ;∀;)の事態は起こる。
戦後、「加持を行じること」を力説布教された高野山の三井英光師は「全てを仏さんに預けてしまう、されば行者が障礙を受ける道理はない」と申されていてそれはご尤もですが、本山職員であられた師が向き合われた数は遥かに超えるであろう案件に対処してきた現実としては、そうキレイにスルーならないことも往々。
なぜか・・私が未だ未熟なせいもありましょうけれども、【他人の業に触れる】とは【無関係ではいられない】ということなのでしょう、と思うのです。
善くないコトに関わってからロクな事がない人、死人に関わってからオカシクなった人等々、それはご相談に来られた数多のお客さま方の話や鑑定からも、夙に思わされてきた事実。
ですから<全ては関わる【縁次第】だ、縁は選ばねばならない>と、信徒さんには繰り返し強調して来たわけですが。
と言いながら自らは、他人の業に触れるのが仕事、という(^^;
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釈尊は「来世の苦しみは自業自得だ、己の業は修行して生前に片を付けろ、他人の業に構っている人生の時間など無いはずだ」と話されました。
でもそれって自己満足じゃ・・修行できないその他大勢も救われる道こそホンモノだよね!と登場したのが大乗仏教。
すなわち【他人の業に触れる】ことに転換した大乗・・しかしそれは如何なる事態を生むか。
これ、衆生と共に病むという【菩薩の衆病】なんて言葉も生まれるわけです( ̄▽ ̄;)それは 無関係では済まない証明。
更に密教では、表面に触れて教える程度を超えて、個々の差異にまで踏み込むレベルまで用いる・・医者に例えるなら、他大乗が市販薬で終わりならば密教は手術もする、という感じかと。
ゆえに効きが早いわけです。一方で、行者は【他人の業に触れる】度合いも大きくなる。加えて当山など【鑑定】という、まんま【他人の業に触れる】業務もやっていますから(;'∀') 一般の人には分かんない/気づきもしないかもですが、祈祷/鑑定とはリスクに身をさらし続ける勤めなんです・・行者あるあるww
いくら上述の基本心得ていようと、ただでさえリスクは大きい・・更に気を付けるべきは「情けをかけすぎない」ことでしょうね。
そんなのお寺として非情だとか文句垂れる輩とか居そうですが、先に述べました、「行者は入れ込んではならぬ」が祈祷の禁忌だと。
コレを犯して先日、危い目に遭いました。
お盆中の拙僧の運気にゾクっとする得卦・・交通事故必至の卦。自身には長らく得たことがなかったのに、今なぜ?
ともあれ、普段以上に気を遣って運転していましたが、その危機はイキナリ。
あと1秒アクションが遅かったらテレビニュースに登場疑いなしの、あ、終わったかも、レベル・・間一髪で無事回避はホント、護られたとしか言いようがなかった・・
いつも以上に拝んでもきて、盆中にとは何がどうしたのか⁈思いを巡らせました。そして←自体がヤバかったか、と。
ご承知の通り、今年の盆廻向は8月1日から始めました。それは、既述の通りの事情と、終戦八十年という節目に鑑みて。
しかしコレはやり過ぎだった・・盆法会の回向として承った分でしかないのに、実質半月以上に及ぶ廻向・・仏を恃むのに相応の布施が要る、が、祈りの多さに布施は全く足りないレベル。
拝みと授与品に照らせば盆供養料とて不足気味なのに、ホトケと施主方が一層報われるようにとの思いが余計過ぎた、か。
それは拙僧らの力でどうこうするものではない、仏様に預けてしまうべき案件。
それを一方的に祈り過ぎて、担い手たる仏様へ託すに布施が足らぬレベルになった、布施応分を超過した分は祈った行者が何らかの形で負うことになる・・情けで身を亡ぼすのも、行者や占い師によくある話。
もっとも、布施として寺=本尊がお受けされて、それに見合う祈りのレベルと利益を計らいくださるのに、従業員に過ぎない坊さんが、ヘタな情けで本尊任せ以上のことをやってやろうなど、おこがましいにも程がある、と書きながら気付きました・・
盆過ぎも8月末まで気力体力すぐれず・・この夏の護摩三昧、熱中症気味を何度も経験したせいか、善かれで出しゃばってしまった影響もあったかと。
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布施は基本的にはその人個々の状況に応じてとされますが、易々と出せる位では施にならず、ちょっとキツい位が宜しい、とも申します。その人の気概をも見られるということでしょう。願掛けしながら願解き/御礼参りしない人は通らない、のも同様。祈りが通りにくいと感じる人は、こういう面もお考えされては。
痛い目と危い思いをしましたが、ある意味、「お前は布施応分に祈るだけで良い、願主に要らぬ気を遣ったり、情けをかけたりするな、その者に見合ったレベルの救いと加護はワシが決めて与えることだ、お前は坦々と向き合えばそれで良い」とお不動さんに教えられたような(;'∀') 何気にこの文、スラスラ書かさったなww 何かいろいろフッ切れたわ。
どれ程のことをしているのか、行者ではない一般の人に察して欲しい自体が無茶な話ではありますが、祈祷や祓いや供養や鑑定とは身を削るリスクに身体をはりながらの勤めであり、一般葬式法事のような軽々ではない、だから効くのだ、ということ。この機に知って頂ければ嬉しいですね。
事例を知りたい?強烈なのを一件、次回にでも紹介しますか。鑑定が占いが如何に【リスクと隣り合わせで行なっているものであるか】を(((;゚Д゚))
そして重ねて、善くない人/コト/モノには出来るだけ関わらないように。何度も言います、【縁】は選ばねばなりません。縁が貴方を将来を創るのだ、とは仏の教え。占いは縁を知る為にあります。活かさないのは愚でしょう。