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2024-03-12 22:01:00

真の延命はダイヤの如く

十二支の年毎に「守り本尊」が設定されている、のはご存じでしょうか。神仏に縁の薄い人は生年の守り本尊を信仰すると良いとされ、昔の人は盛んに言ったようです。が、今時は知る人も少ないようですから、一寸ご紹介。

 

 ・子年/千手観音 ・丑寅年/虚空蔵菩薩 ・卯年/文殊菩薩 ・辰巳年/普賢菩薩 ・午年/勢至菩薩 ・未申年/大日如来 ・酉年/不動明王 ・戍亥年/阿弥陀如来

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 ところでこれは何が根拠なのか?調べても不明でしたが、宿曜道講習の最後に付随して習った占いに、これが根拠と知りました(私も忘れていましたが宿曜講習ノートを見直し中に、書いてたのを発見;) 江戸時代まで主流だったというこの占い、一応学んだものの煩雑に過ぎて私は用いていませんが、「十二支守り本尊」にはヤミクモではない一応の理があるようです。

 

 ところで、昨年末の新聞広告に不動明王座像。も、首から上が竜、尻尾もある奇怪な姿・・辰年に辰不動尊/護摩祈祷済/開運厄除に!の宣伝句を見て、仏も大衆もバカにした商売、不動尊には倶利伽羅という竜身もあるのに、辰年は普賢菩薩だろうに脈絡もない、と憤慨してブログに記して、ふと気づくことが。

 

 そういえば普賢菩薩、当山では大きくお祀りしてるよ・・(^^;でも祈祷などでPRした事なかったなぁ~と。太元堂の脇仏である普賢延命菩薩、それです。この仏は、普賢菩薩が延命の三昧に入った姿であり成仏した姿、であります。

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 と言いましても普賢菩薩自体、釈迦仏の脇侍程度のイメージしかない・・ですが、実は仏教ではとても重要な役割を担っている仏様でして。辰年は語るに好い機会ですネ。

 

 全ての仏さまは「誓願」という、各々「悟りと救済の誓い」を持っています。そして、そのあらゆる仏の誓願とは、普賢菩薩の十大行願に集約される。つまり、仏の誓いとは普賢菩薩の誓いに他ならない。その誓いを身に体していくのが仏道修行。皆さん何気にお唱えされている仏前勤行次第の前半ラストの三昧耶戒真言は、他ならぬ普賢菩薩の真言なのであります。

 

 この菩薩の本領を発現した姿が普賢延命。釈迦涅槃のもう一つの物語には、降三世尊に踏殺された大自在天を蘇生し潅頂して曼荼羅に引き入れたのはこの尊であり、金剛界曼荼羅を一身に具現するのもこの仏。また、生老病死という釈迦が喝破した四苦を調伏して、不壊なる生命の境地=金剛寿命を得せしめんとするも、この尊の働きです。

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 世間的にはあまり知られない仏と思われますが、弘法大師がこの尊を重視されていたのは知れます。真言宗の最高厳儀・後七日御修法にはその真言を用いることが定められていますし、この尊の体現する金剛寿命=【不壊なる仏の生命で活動する境地】を、大師は「虚空尽き、涅槃尽き、衆生尽きなば、我が願いも尽きなん」と申して断食断水の肉体改造を行ない、人生の仕上げに入定という形で具現されました。

 

 余談ですが、以前にも記しましたが、愛知のお坊さんの著書の【大師の梵字<ユ字>は弥勒でなく、普賢延命の梵字と考える】説には全く同感です。

 

 悪趣に俗死した者を、新たな命に蘇らせて仏智に引摂し、普賢行願による自利と利他の菩薩行に向かわせる・・生者にも死者にも亘る弘法大師の入定の誓願は、まさに普賢延命の働きそのもの、と言えましょう。

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 日本仏教には各宗に祖師が居られます。しかしその誰もが、日本で自己解釈で宗派を立てて病気老衰で死んだのに対し、インド仏教の最高権威が到達した大乗仏教の頂点の系譜を直に引継ぎ、肉体滅びた後も普賢行願に活きなん誓願し、準備し、定に入ったのは、日本仏教に祖師多しと雖も弘法大師ただ一人であります。

 

 則ち、弘法大師を祈るのと他宗の祖師を祈るのとは、全く別物なのです。大師に祈るとは、その不壊不死なる誓願に、死者には金剛寿命の光明を、生者には普賢行願による同行二人の寄り添いお助けを得ること、です。

 

 仏道を歩みゆけば往くほどに、その志す先は「往生」なんて漠然とした願いではなく、仏の生命と同一化(顕現)した「不壊自在なる金剛寿命」という境地たるべき、と思うのです。金剛界曼荼羅は我らが仏へ昇華する過程も示していますが、普賢延命が金剛界を一身に表すとは正にそのことでしょう。与えられた命を漠然と安っぽさに預けるな、こういう高貴自在な境涯があるのだ、と。

 

 釈尊は成道して何と言ったか・・【不死が得られた】です。肉体的な延命はそれはそれで結構でしょうけれども、そんなこと以上にこの「ダイヤの如く不壊にして輝き、時空を貫く生命の境地の体解」それこそが悟りであり、真に生き永らえる延命であり、普賢延命尊のいざなう所。

 

 信仰とはそこに辿り着く、せめてそこに触れようとするものであってこそ、真の価値たると思ったりしますね。仏教に限らず古代インドの修行者たちは、誰しも延命することにも気を配っていたそうです。それは【命長らえて出来るだけ多く修行を積み重ね、生きているうちに境地の成就を、たとえ今生では無理でも、生まれ変わったら速やかに神位を成就する為に】であったのだとか。そういう視点があってこそ「延命」は意義を持ち、輝くのではないでしょうか。

 

 しかし金剛寿命の境地が容易なことではないのは、普賢延命尊の扱いを知るだけでも伺えます・・でも、そういう仏を知り得た、それだけでも彷徨いの壁は一つ破られたことになりましょう。でも、まだ遠い・・しかしその距離を縮める術があります、他ならぬ弘法大師その人です。

 

【ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ居わしますなる】と詠んだのは天台宗のトップ、天台座主慈鎭(慈円)僧正でした。普賢延命をその身に顕現して誓願し、千年以上も全国各地で宗旨に関係なく霊験を顕し続ける大師が居る。その差し伸べられた手に掴まろうとするならば、私達もご先祖達も安心立命は近くなる、というものでしょう。

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3月21日は大師が予告し入定した日にして、その恩に報い、誓願に祈りを託するに尊き日です。後世を救い摂りたいというお誓いは今に活きています。ご自身への同行二人、そして先祖・故人への同行二人の援けを祈るに如かず、です。

※この記事は寺報73号より転載加筆