寺ブログ by副住職
何ぞ労し、何ぞ憂えん!
↑画像は年度始めの祈祷(太元堂)
心と精神は別物、と言い切ってしまった方が有意義なのかも、と思わされることが。
それは、作家の林真理子さんのコラム(週刊文春4/11号)。
ご存じのように女史は日大の理事長。そしてご存じの通り日大は大変な不祥事、卒業式の祝辞をどうするか。以下、引用。
「人生の励ましとなるような言葉を。キレイごとではなく、後々に思い出してくれるような言葉が欲しい。(中略)しかしこの後が続かない。」
「そんな時、あの斎藤孝先生(明治大学教授)が対談でこうおっしゃっているではないか。
『心と精神は違うものだと思っています。心とは喜怒哀楽があって、日々移り変わるものです。でも精神は安定感があるもの』
雷に打たれたように感動した。何と素晴らしい言葉であろうか。さっそく使わせて頂くこととした。」
この記事を読んで、私も雷に打たれたような感を受けた。心は掴みどころのないものだが、そういう単純明快な割り切り理解こそ、人を利益するのではないか。と言うのは、仏教の心の分析は煩雑に過ぎる所があるから;
この話を聞いて、坊さんなら即時に「心王、心数(心所)」を思われるだろう。早い話が、心王が心の主体、心数(心所)が心の従属作用。総体としての認識作用と個別の認知作用の別とでも言えばいいのかもだが、宗によって分類認識は異なる&細かい話には煩雑の極み、アビダルマの本領発揮かよ、で私には理解不能&その煩瑣は理解しようとも思わない(;'∀')
「本体として動じない心王」と「表層に揺り動かされる心数(心所」の関係は、「海そのもの」と「波」という例えで仏典にはよく見られるが、「心の定義」が厳密な意味では、上述のように煩雑&未確定&精神の定義とかモヤモヤが多いので、仏教に立つ者としては、心と精神は別!とは言い切るまでの自信は持てなかったが・・さすが斉藤孝、と言うべきか。
教育学者/言語学者の肩書にもかかわらず、齋藤先生の著作は幅広い視野と噛み砕かれた言葉で読みやすいが、こういうサラッと出てくる言葉も単純明快で突き刺さる~。こういう言い方だと、微に入り細に入る仏論の「心の分析」よりも断然、活きた言葉になりますわ。
↑コレも齋藤教授の著作
以下、再び林コラムの引用。
「この後、私なりにアレンジを入れ、強い精神を作り上げるために芸術は存在している、と言った(中略) そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしい・・。
卒業生の胸に私のスピーチがどこまで届いたか分からない。しかし、この『心と精神は違うもの』という言葉はそれから私の指標になっている。」
ちゃんと卒業生の心に刺さる、また、芸術など非生産的と見られがちな分野に関わる人には一層、心強い祝辞になっている、と思う。さすが作家。
先に、心の在り様は「海と波」の関係によく例えられる、と言った。心所心王の一般的配当とは一寸異なるかもだが、理解しやすい弘法大師の言葉がある。
『蔵海は常住なれども 七波推転す』
我らの深層意識の奥深い海(存在の根底となる阿頼耶識=行為の業が自動バックアップされる場所なので蔵識/蔵海という)は、深海のように動ぜず常に佇んでいるが、認識される前5識&意識&自我(という7つの認識の波)は、常に外の環境によって翻弄され変化し続けているに過ぎない・・
波とは、よく考えれば風や低気圧など外の要因によって引き起こされる一時的なものであるように、心の波もその程度のモノ。私達の本質は波ではなく湛然たる海の方にある、と。齋藤教授の論に合わせるなら、精神を心王、心を心所とみてイイ。※この点が仏論では喧々諤々ですが;
そして大師の曰く、
『爾許の無常、能く毀し能く損すれども、この本有に於いては何ぞ労し何ぞ憂えん』
・・因果の境地では壊れたり損なわれたりするが、本質の姿に於いては(壊れ損なわれるなど無い、)どうして苦しんだり憂えたりすることなどあろうか・・
波の起こる由縁を知って、一時的な波に揺さぶられ続けるでなく、大海そのものに意識を致すような心持ちで、と思ってもらったらいい。海印三昧という言葉があるが、されば自身に秘められた大海のような悟りの境地が現れてくる・・
仏教視点だとこういう話で、我が身にこの湛然なる大海あり、を全身で認識するための信仰であり修行である訳だが、通世間的な話にすれば、先の林コラムの
<強い精神を作り上げるために芸術は存在している・・そうしたものと出会う事により、精神をつくりあげ、それを盾に世の中の理不尽と戦ってほしい>は、お見事である。
↑芸術と言えば、高野山で生ライブがあったそうです※高野山のインスタ引用
そして自身、整合性とか気にし過ぎる所があるが、多少の語弊など気にせず、簡単に言い切ってしまうことも大切、と思わされた。伝わんなきゃ意味ないもんね(^^;
ついでに、強い精神を作り上げる一つの術として、密教には真言がある。仏の密意が込められ、先述の阿頼耶識にまで届き、蔵識をも変性昇化させる言葉だ。真言に縁あり信仰される人は、常に誦じて己の鉾そして盾とも磨かれたい。
そして林真理子氏はこのコラムにこう記している。
<心が擦り切れたとしても、それはそれで仕方ない。心は日用品なのだ。ボロボロとなった心の向こうに、精神というものが毅然と立っていればそれでいいのではないか。いざという時にこの精神が私達を正しい方向に導いてくれるのではないか>
それは、先に述べた大師の言葉に通じるものであろう。
「そこばくの無常、よく毀しよく損すれども、この本有に於いては何ぞ労し、何ぞ憂えん」
目先の利益を得るに翻弄される生活はやむない事態であるが、「道」と呼ばれるカテゴリにも触れて世俗とは異なる感覚を研ぎ澄ますも、「強く」かつ「力まず」生きるには大切なこと、と思う。