寺ブログ by副住職
勇者よ!!
ネットでふと、目に入って来た言葉。
「ありのままに見、あるがままに行動できる者を、勇者と呼ぶ」byチャールズ・エバレット
チャールズ・エバレット氏とはアメリカの哲学者だそうだが、これは仏教の根幹に通じる言葉だ。
煩悩に覆われて、何事も歪めてしか見ることが出来ないのが、如何ともしがたい、人の常なる性。その罣礙を打ち破って、ありのままに見、ありのままに行動出来る「目覚めた人」を仏陀という、のはご存じの通り。
しかし「勇者」とはどういうことか?
ここに胎蔵大日の真言がある。「a-vi-ra-hum-kham」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
梵字真言には数多の意義が含まれるとは既述だが、単純訳だとこの真言は「おお!勇者よ!」なる意味だという!釈尊が成道した時に神々が発した言葉に由来するとか云々。
そして大仏頂陀羅尼で如来の筆頭に挙げられるのは
「drdhasurasenapraharanarajaya tathagatayarhatesamyaksambuddhaya」
※表記の仕方が分からないので四声は略します
学者によって訳し方は異なるが、「堅固勇猛にして軍を打ち破る如来の王よ」である。これが勇者=先の胎蔵大日「a-vi-ra-hum-kham」と通じるのは言うまでもない。
原始仏典からも一寸だけ紹介。
「心が煩悩に汚されず思いが乱れず、善も悪も捨て去って目覚めている人にとって【恐れるものは存在しない】」ダンマパタ
実は自らの煩悩で作り上げている、思い煩い惑い苦しみ生きている絶対と思っている世界、それを打ち破ろうとする・・いわば自身として構築済みの世界を破壊するという、我を持ち、思惟する人間にとっては最も躊躇する恐怖に挑み、それを成し遂げた者、それこそが真の勇者と呼ぶに値する、のだろう。
敵というと外部を考えてしまいがちだが、本当の敵は己=己を縛る想い、にある。それは多かれ少なかれ、人生の様々なシーンで私達も経験して、うっすらとは分かっている。それは頭では分かっても、実際には対峙困難極まりないものだ、とも。
明王という尊格は、教令輪身という「この世に於いて教えを実現する姿」として如来が変化した姿にして、武器を持し戦う=勇者の姿である。
が、明王の持つ刀は、日本刀のような「片刃」ではなく「両刃」と決まっている。刃は己にも向けられているのだ。そこを意識して行動してこそ、明王の本領は発揮される。
不動尊は、インドにおいては修行者の守護仏というような尊格であったという。ただ守護神というでなく、「修行者の」守護神である。己に立ち向かう者を助ける、のだ。己にも刃を向けて鍛錬する者には、外部の敵は任せておけ、である。そして、己自身という敵に勝てる位なら、外部の敵など容易いもの、なのだと。
アニメやゲームの影響のせいか、勇者とは「我が身を省みずに戦う者」というイメージが大きいのではないか。だが、真の勇者とは「我が心を極限突破するまで省みて、自身という恐怖を打ち破った者」のことが正解のようだ。思惟を突き詰めた先には、洋の東西を問わずに。
その心意気と行動があれば、老若男女問わずに「勇者」へ歩んでいるのである。「そういうの目指してないから遠慮しとくわ~」も結構だが、その勇者を目指し励む者にこそ、勇者たる仏の加護も継続的に与えられる、とは覚えておかれると、人生にプラスが大きくなる、というものだろう。