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お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

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2025-07-09 22:17:00

心水

祈祷と言うと「お願いして助けてもらう」の発想が多分になると思いますが、真言宗では一寸違うんです。

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密教では「加持」と申しますが、コレがキーワード。

梵語のadhisthanaの訳ですが、弘法大師はこのように解説しています。

 

加持とは、如来の大悲衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく

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以下、もう少し分かりやすく。

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加持と言うのは、仏の大慈悲と、我ら衆生の信心の受け止め力の、双方向で成り立つものです。

 

サンサンと煌めく太陽の姿は、澄んだ水面にはクッキリ映し出されますね。

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それと同様に、煌めく仏の光形は、澄みきった我らの心の水面には、ありありと映し出されるのです。それを「加」と言います。

 

そしてまた、我らが努めて心の水面を澄ませて、仏の光形をありありと我がことに映しとる、それを「持」というのです。

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イメージしてもらったら、ご理解は容易でしょう。

 

則ち、仏の光明を受け取るには、自身の「心水」の状態がどうであるか、コレが肝心です。

 

 

自分ばかり都合よくなればいい、という我欲で「濁ってゴミが浮いている」そんな心の池水に、円明なる仏日は、欠けなく映り得るでしょうか?osen_kawa.png

憎しみや怒りで「波立って鎮まらない」そんな心の池水に、仏日の姿は、形を成して映り得るでしょうか?

 

因果や向上を考えもせず感情の赴くままの「浄化のないヘドロ状態」そんな心の池水に、仏日の形は、全うに映り得るでしょうか?

 

 

だから仏教は「懴悔」を第一に言うのです。「信心」を入門の筆頭に挙げるのです。

 

祈祷とは「仏と貴方を感応させる」もの。一方的に頼んどきゃイイ、のではありません。これを忘れては、ご利益も半減でしょう。

 

物事は因果で成り立っています。そこに絡んでいる「縁」を動かす、のが祈祷です。

 

その前提にはまず、自身の有り様であり心水である「因」を、浄めていく努力がいる。心のドブさらいをしていく必要がある。自身の基礎固めをしていく必要がある。

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だから大師は「衆生」の心水としていたのを、「持」では「行者の」心水に替えています

 

仏が照らすのは「全て」ですが、それを受け取るには「努力が要る」=傍観者じゃなく当事者である「行者」にならなきゃダメなのです。

 

 

ですが「祈るは一時、結果だけはガッツリ期待」そんな方は少なくありませんね・・

 

「手順をすっ飛ばして結果だけ得ようとする」のは、AI化の加速する時代の趨勢もあるかもですが・・

 

ただ、時代がどうあろうと、仏に祈るということは「加持感応すること」に変わりはありません

 

 

自身という土台は仏を映し出すにふさわしい、努めて澄ませている水面となっているか?

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切に成就を祈るのでしたら明鏡止水、必ず心されたい所です。

 

※何度も話しているので、いつもの信徒さんには蛇足でございますが(;'∀')