寺ブログ by副住職
心水
祈祷と言うと「お願いして助けてもらう」の発想が多分になると思いますが、真言宗では一寸違うんです。
密教では「加持」と申しますが、コレがキーワード。
梵語のadhisthanaの訳ですが、弘法大師はこのように解説しています。
「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」
以下、もう少し分かりやすく。
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加持と言うのは、仏の大慈悲と、我ら衆生の信心の受け止め力の、双方向で成り立つものです。
サンサンと煌めく太陽の姿は、澄んだ水面にはクッキリ映し出されますね。
それと同様に、煌めく仏の光形は、澄みきった我らの心の水面には、ありありと映し出されるのです。それを「加」と言います。
そしてまた、我らが努めて心の水面を澄ませて、仏の光形をありありと我がことに映しとる、それを「持」というのです。
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イメージしてもらったら、ご理解は容易でしょう。
則ち、仏の光明を受け取るには、自身の「心水」の状態がどうであるか、コレが肝心です。
自分ばかり都合よくなればいい、という我欲で「濁ってゴミが浮いている」そんな心の池水に、円明なる仏日は、欠けなく映り得るでしょうか?
憎しみや怒りで「波立って鎮まらない」そんな心の池水に、仏日の姿は、形を成して映り得るでしょうか?
因果や向上を考えもせず感情の赴くままの「浄化のないヘドロ状態」そんな心の池水に、仏日の形は、全うに映り得るでしょうか?
だから仏教は「懴悔」を第一に言うのです。「信心」を入門の筆頭に挙げるのです。
祈祷とは「仏と貴方を感応させる」もの。一方的に頼んどきゃイイ、のではありません。これを忘れては、ご利益も半減でしょう。
物事は因果で成り立っています。そこに絡んでいる「縁」を動かす、のが祈祷です。
その前提にはまず、自身の有り様であり心水である「因」を、浄めていく努力がいる。心のドブさらいをしていく必要がある。自身の基礎固めをしていく必要がある。
だから大師は「衆生」の心水としていたのを、「持」では「行者の」心水に替えています。
仏が照らすのは「全て」ですが、それを受け取るには「努力が要る」=傍観者じゃなく当事者である「行者」にならなきゃダメ、なのです。
ですが「祈るは一時、結果だけはガッツリ期待」そんな方は少なくありませんね・・
「手順をすっ飛ばして結果だけ得ようとする」のは、AI化の加速する時代の趨勢もあるかもですが・・
ただ、時代がどうあろうと、仏に祈るということは「加持感応すること」に変わりはありません。
自身という土台は「仏を映し出すにふさわしい、努めて澄ませている水面となっているか?」
切に成就を祈るのでしたら明鏡止水、必ず心されたい所です。
※何度も話しているので、いつもの信徒さんには蛇足でございますが(;'∀')