google-site-verification: google03647e12badb45de.html 布施一想 - 遍照院 へんじょういん  お護摩と占い鑑定【公式】

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お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

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2022-09-21 23:04:00

布施一想

お彼岸ですので、仏教の修行徳目について徒然に。

 

お釈迦さまの十大弟子に阿那律尊者という人がいる。涅槃絵解きにお参りされた人は聞き覚えがあると思う。そう、雲に乗って釈尊の母(マーヤ婦人)をお連れする坊さんだ。

 

ある時、尊者は「誰か、功徳を求めようとする人は、この針に糸を通してくだされ」と訴えた。

 

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 ほころびた衣体を縫おうにも、目が見えない。というのは、釈尊の説法中に居眠りしてしまい、それを咎められ深く悔いて「不眠不臥」の誓いを立て、猛修行に励んだ。「それでは体を壊してしまう」という釈尊や医師の制止も聞かず、ついに失明。(それでも修行の功徳で天眼を獲得)

 

「私がさせてもらおう」、尊者のこの呼びかけに応じたのは、お釈迦さまだった。焦る尊者「恐れ多くも全ての善と功徳を身につけられた仏陀、これ以上の善は必要ないのではありませぬか」。

 

対して釈尊は「世の中で、私以上に功徳を求めることを心がける者はいないであろうよ」と言い、糸を通されたという。

 

いつも信徒祈願ばかりなので先日、それを交えずに寺と家族の事だけで某尊の護摩を修した。行じていると、ふと思い浮かんできた。「そういえばT大僧正からはいつも護摩木を貰ったなァ」「易の某師からは築地の色々なモノを頂いたなァ」そして、唐突に上述の阿那律尊者の話も。

 

一体何の脈絡?と思いながら行法していて、ハッ!と気づいた。単に贈り物じゃなくて、私への布施だったんだ!と。

 

私(副住職)が風呂敷護摩を授かったT大僧正は、頻繁に護摩木をお送りくださった。高級和紙の杉原紙を作っている檀家さんが「和尚の毎日の護摩に使って欲しい」と奉納された、和紙製造で出るキレイに剥けた木。それを私にもお届けされた。易の大家であられた某師は、東京のど真ん中にお住まいで、時々に築地の幸をお送りくださった。

 

どちらも私が学ばせてもらっている立場なのに、申し訳ないなァ、ありがたく頂戴します、と思ってきた。が、いきなり浮かんできた阿那律尊者の話。

 

T大僧正は法を授けた私に、未熟ながら毎日その法を行じる私に護摩木という布施を通じて、ご自身も功徳を積まれようとしておられたのだ。易の某師も私が僧侶であるのは存じておられた。私への励ましとされながら、どこか功徳積みを期待されておられたのかもしれない。と、涙があふれてきた。

 

成仏に至るに必ず修さねばならない「六波羅蜜」という修行の筆頭に「布施」がある。喜捨。修行僧に施しを行なうことだ。執着を捨て、善を積む行。

 

釈尊はその功徳を至る所で強調されている。地獄に堕ちているお母さんを救う方法を示し給えという弟子に【夏安居に多くの修行僧に多くの食事を施しなさい】と言った話はご存じ、盂蘭盆の由来。町に現れた餓鬼を救う方法を問われるに【修行僧に布施して、餓鬼の名を指名せよ】と申された話は施餓鬼の根拠。坊さんのつける袈裟が田んぼをモチーフに作られているのは、それを身につける修行僧は福田であり、そこに施した者が功徳という収穫を得る、と示されたのも釈尊。

 

労働厳禁であった僧侶には生活し修行を続ける糧を得、在家にはその修行の功徳をおすそ分け頂く権利を得る。出した側も出された側もウインウインというのがその性質。それが制度化されたのが檀家。布施はつぶさには「ダーナ、檀波羅蜜」という。檀家の檀は「布施」。夫の「旦那」もこれに由来すると云々。

 

そうして寺に出入りして修行僧の生活を支え、功徳を積んだ人に与えられた名号を信士/信女という。いまでは安戒名として扱われているが、本来からするとこの戒名号すら「おこがましい」人が、ほとんどだろう。ちなみにお釈迦さまが示される功徳対象は、仏と「修行する」僧、である。少量の布施しか出来ない人は、自ら坊さんを選んで布施したという。制度化された檀家では、寺も僧侶も選べませんけどね・・

 

話が脱線した、戻る。

 

今時の人は「功徳」と言っても何だそれ?であろう。スピリチュアルな人がカルマだの言えば意識するのかもね。我らが生きる中に出会い負う、因縁や業を浄めて、より善き境涯へ向かうための善業力。悟りを得た釈尊ですら、尚も求めてやまないものだと申された。苦しみの境地を転換するに、退転なき喜楽を獲得するために、何としても必要な力用。それを手っ取り早く得るとして示された方法が、修行する僧侶への「布施」。

 

功徳なんてそんな目に見えぬもの、と思うかも。だが、空いた所に流れ込むのはエネルギーの法則。新たなるものを手に入れるには、手元の何かを捨てねばならない。廻らない人はこのことを忘れている、とは往々に感じる。自身の事にすら出し惜しむ者に、誰が手を差し伸べるというのか。

 

T大僧正が、取り立てて何もない拙僧如きにせっせと護摩木をお送りくださったのは、若輩ながら護摩行に勤しむ私への布施にして、釈尊が弟子阿那律にされて求められたのと同じこと、と気づかされた衝撃。名刹の住職にして、地位も名声も人望も弟子もお金も全てを手にされておられる御人にして、かくの如し。釈尊に然り、功徳の力用を真に知る御人はそうされるのだろう。得るばかり求めて施すを知らずんば、苦の娑婆の底は想う以上に深いぞ、と言われているようですらある。

 

その恩に報いる功徳となるほどの行を私が為し得たかは不明だが、故人となられたこのお二方は盆彼岸には卒塔婆を建てて(自分の寺ですがもちろん回向料を出して)回向している。ささやかであるが、それが布施していただいた私から、今度は冥界でも活躍されておられるであろうお二方へのお布施である。