google-site-verification: google03647e12badb45de.html お見通し(((;゚Д゚)) - 遍照院 へんじょういん  お護摩と占い鑑定【公式】

遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

Welcome to "Henjouin temple"
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遍照院へようこそ。
2022-11-20 19:32:00

お見通し(((;゚Д゚))

恐山の本堂裏山には、不動明王が鎮座して奥の院となっている、そうだ。

 

その不動尊像の前に腰かけたその人は、後ろからやって来る足音に振り返り、女性が来るのを見て、席を動いた。

 

ところがいつまでも女性は来ない、姿もない。場所柄そういう類か?と祈りを済ませて山を下る。

 

と、下からさっきの姿の女性がやってきて声をかけてきた。「もしかして行者さんですか?」

 

戸惑う彼に、彼女はこう語った「さっき、奥の院に近づいたら【今は来るな】と声が響いて。」

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「気のせいかと踏み出したら再度【今は来るな、この者と話している】と響きがして、ビックリして」山を駆け下りたと。

 

だからどうしても行者なのか?と確認しておきたく、声をかけたらしい。

 

ありがたい話にみえるが、この体験をされた怪談作家さんは、とんでもない恐怖に震えたという。ただ、手を合わせて拝んでいただけなのに仏は【話をしている】と語った「神仏は何でもお見通し」を如実に思い知った、と。

 

**************

以前に読んだこの話を思い出すことがあった。

 

何年も問題なくやれてきた仕事でトラブルが発生。とんでもない客に関わってしまった、という。そのあおりで誹謗中傷もされて他客まで飛び火して相談。お祓いをされることになったが、ふと思う所があって申し上げた。

 

・・そういえば、授与した懐中守り、もう何年も祈祷されていませんよね。最低でも1年に一度はお護摩に入ってお加持し直しが必要ですよ、と申し上げたはずですよね?、と。

 

懐中守りとは、御守りの仏像というか、仏像タイプの御守りのこと。常の御守りは1年で納めてもらうが、こちらは一代守りとして一生の御守りとして持してもらう。

 

彫りこまれている仏像には、常の仏像同様の開眼を施してお渡しするが、形態としては御守り。なので、家庭で仏像をお祀りするに必須の、年一度の祭礼や厳重な扱いまでは必要ないが、普通の御守り同様のホッタラカシであってもならない。ゆえに、授与は余程の人に限っている。当山では数人のみ。

 

この人は、その余程の人であった。本人の気質のせいもあったが仕事も家庭も問題だらけ。心身も再起不能や命の際まであった。ご相談されてお祓いや供養などを重ねられ、当山での鑑定アドバイスは全て実行された。ゆえに懐中守りを授けた。そして、提案した鑑定通りに転居し資格を取り再就職し、家庭も円満となり仕事も引き立てを得てトントン拍子【おかげさまで、本当に何も苦が無くやっております!】と口癖のように話をされる。

 

それは結構だが、人というのは調子が良い時ほど肝心なことを忘れるものだ。いや、手間や金がかかることは忘れた振りをしたい、のかもしれない。

 

住職からこの話を聞いた時に、パッと脳裏に【全然拝んでねえぞ】の言葉が浮かんだ。私も懐中守りのことはすっかり忘れていたが、この言葉で思い出した。お不動さんからの通告だろう。

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皆さんは普段感じることは無いと思うが、御守りは【身代わり】であって、障礙を除けさせながら持した人の業も負う。あまりに強烈な障りや業に耐えなくなると割れたり、腕輪数珠だと切れたりするが、そうならずとも負い続けている。鳴り護摩をやると判る。であるから、御守りは最大でも1年で終わり、切れた数珠は焚き上げ、感謝を込めて納めて新しい守りをお求めを、という。本当は数か月程度で替えるべきと思っている。

 

常の御守りにしてこの様であるから、半永久的な御守りならば、少なくとも1年に一度は感謝して祈祷し直し、仏の威力を復活させる必要があるのだ。時折には取り出してお供えと読経をするように、と言っているから、その程度はされているだろう。しかし、業を落とし威光を復活するのは俗人には不可能だ。専門の祈祷でなければならない。

 

ちょっと覚えるとか与えられると自分は特別、とイイ気になるのは人の常。だから余程の人じゃないと、なのだが・・。仏さんも手元に居るし、全てがトントン拍子だし、とりたてて祈祷などせんでもいいだろう、という気持ちがあったのではないか。現にご自身のことは新年祈祷以外はされなくなった。

 

そうした長年にこの人の業を負い過ぎた「懐中お不動さん」はもう限界、抑え込んできたトラブルが噴き出した、と私は感じた。いや、とっくの昔に約束を破った延長だからこの程度では済まないはずが、参拝だけは欠かさずにされているから、仏さんもそこに免じて耐えて頑張ってこられたのだと、想う。今回お祓いを申し込まれなければ、懐中仏は回収する腹だった。仏さんに申し訳が立たない。本当なら詫びの供養だけで1座行なうべきところだ。

 

神仏は声や動きで見せることは滅多にない。ゆえに、身近になればなるほど、敬意も謙遜も忘れて気にも留めずとなってしまうのかもしれない。しかし、我が脳裏にひらめき語りかけたように、神仏は見ている。先の怪談作家の話を借りれば、ただ【手を合わせてお参りをしているだけ】のつもりでも、神仏は【アナタと話をしている】というのだ!

 

意識では知り得ぬが、深層意識=マナ識アラヤ識アンマラ識という、煩悩や業、仏性や輪廻をつかさどる領域と話をしている、のだろう。我々の意識では制御も隠しもできない、あなたの心の奥底に秘めた部分と神仏は会話をしている。だから懴悔/三帰三帰竟/十善戎/発菩提心/三昧耶/を日々に繰り返し、深層意識にそれらを薫習させておくのは、仏と向き合うのに欠かせぬことだ。

 

そしてこの人はお参りを欠かしていない。違約をしながら何年も好調を持ちえたのは、仏が「参拝は欠かさぬ心」と会話し、仕方ないなァ~と、限界まで耐え下さったに、きっと他ならない。

 

見えぬから、聞こえぬからと義理を欠いては、それは身に返る。祈祷や相談で本堂に上がりながらも、焼香合掌一つせぬ人もいるが、礼儀知らずの愚の骨頂と常々思っている。そんな有様では、鑑定しても妙手が見えないとか祈祷しても難しい、は当り前。信仰以前のマナー問題だ。

 

参拝は、そこには【仏から<全てお見通し>の上で、会話を持ち掛けられている】と思うのが、どうやら正解であるようだ。本堂に入って来た地点から、いや、玄関を入った地点から、いや、電話をかけて来た地点から、既に見られているのだろう。

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願いを叶え、災いをはらい、死者を導くのは、私ども寺族ではない。私共にキレイごとや泣いたり吠えたりしても、応えるのは貴方の心を見通す本尊以下、当山の仏衆である。

 

祈祷供養はもとより、鑑定とてそこに応えるのは神仏の意。与えられるのは貴方に見合った応えである。

 

恐れは必要ないが、畏れは忘れてならない。親しくあってはいいが、礼を欠いてはならない。これらをお読みいただき、力添えを頂くには如何にお参りをされるか、の心得とされたい。

 

ちなみに【死者もお見通し】らしい。事例はいずれの機会にか紹介する。