寺ブログ by副住職
出会う、と、出会えぬとの距離
急ぎ、鑑定の人。住職の占には、異様なほどに【ホトケの障り】の暗示ばかりが並ぶ。
先祖さん、粗末なことになっているんじゃない?と尋ねると、首をかしげてしばらくされて「あっ、そう言えば!」
それは、普通ではちょっとありえない扱いがあった話。そういう真似をする程なら、家を出たこの人には分からずとも、どういう状況があったかなど推して知れようというもの。
この人が急遽の鑑定を求められたのは、LINEキッカケ。
当山LINE登録者にサービスしているプレゼント護摩木。お申し込みを頂いて書き、添付用写真を撮るのだが・・何度撮ってもブレる。7~8回目でやっと撮り、やれやれと護摩を焚くと、今度はその人の護摩木だけ最後までくすぶる・・このサービス護摩木でこんな事態は初めて。
なので、祈願しましたよ、の通知に「こういう事があったので身辺一寸注意してほしい」と添えた所が、体調も良くなく鑑定してもらいたいと思っていた、とのことでご来山。
顧みるに、この方の護摩木に見えた異変は、この人の負ったタダではない程のホトケの重さだったのだと思う。たまたま、何の気なしに無料サービスで拙寺に縁を結ばれたことで、この人が負ってきた苦難の背景にある浮かばれぬホトケ達が、ソレを知らしめる機会を得たのだろう。
手相は良くても、酷な目に遭い続けてきた。原因が見えれば、対処の道筋は見えて来る。拙寺に縁を結ばねば、己の負っている障碍の大きさに気づくことも無かっただろう。この人はプレゼント護摩木1本で、人生の転機のキッカケを得たと思う。
ふと、想う言葉がある。【冒地の得難きに非ず、この法に遇うことの易からざるなり】大唐の恵果阿闍梨が弘法大師に話した金言。
【今や仏教は、悟りなど輪廻を繰り返した果ての理想というが、悟りを得るなど難しいことではない。悟りへの近道の方法を持つこの真言密教に出会うことの方が、容易ではないのだよ】と。
【この法に遇うことの易からざる】だ。【優れた縁に出会うか、出会えぬか】は、人生の分かれ道でもある。広告業では【知られていないのは存在しないのと同じ】らしいが、【勝縁】はたとえ隣にあっても、自ら出会いにいく事が無ければ、存在しないに等しい。難病でもスーパードクターに出会えれば治るも可能だ。落ちこぼれ状態でもスーパー講師に出会えれば難関校突破だって現実となる。善き縁に出会うことが如何に大切であるか。
こうして感じるのは、仏事や神事へますます遠ざかる現代人の危うさだ。まともな信仰をしてきた人なら普通にあろう「神仏や祖霊が発する微細なメッセージ」など、受け止めれなくなって当たり前だ。
危機を感じれず、不幸へ転がっていることに歯止めもかけられない。仏事にすら子供/孫を連れて行かぬ今時の人達は、その子たちから「自身を護る霊性を育む機会を奪っている」と思うべきだ。それの果てが、イカレた教義の新興宗教などに魅せられる。もっとも、ナムナム念仏唱えればコトが足りると思っている寺ではそれ以前の話だが。
正に【この法に遇うことの易からざる】である。出会えた人は幸いだ。先の御人は、困った占断ばかりの中【もう足元は崩壊寸前だが、今ならまだ間に合う】占を得た。その人の異常事態を示した拙寺に、すぐに対処に足を運ばれたゆえに、易もこういう救いを見せたのだろう。
ついでに弘法大師曰く【顕薬塵を払い、真言は庫を開く】・・密教以外の仏教は宝蔵の埃を払う教えであって、密教はその宝の庫を開く教えである、と。当山が鑑定を行なって指針を示し、祈祷や供養で道を切り開く祈りが出来るのは【遇うこと易からざる法】を奉じているからである。
当山にご縁があった人は【得難きを得る】も往々にある。ご縁はどうか活かされたい。