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お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

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2023-03-10 23:10:00

見るように慣れる!

お参りさせてもらって宜しいですか?と来た、見た目20~30歳の今風の男性。

 

どうぞ、と言い、茶を持って本堂へ上がると・・慈救呪と光明真言と大師宝号を唱えてのお参り

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どちらからですか、と尋ねると「大阪から」と(*o*)

 

友人と台温泉に泊まりに来ていて、賢治詩碑(※宮沢賢治の羅須地人協会の跡地)に足を伸ばしたところが当山の前を通りかかり「あ、お大師さん!」と詩碑の帰りに寄られた、と。「実家が真言宗なので」とのお話であったが・・

 

当山は名刹でもないし、観光名所になる要素も無い。おまけに伝統的寺院建築でもないので、知らぬ人には相当敷居が高いらしい。我ながら、初めての人には「ちょっと立ち寄ってお参り」とはならない建物と思うが

 

その壁を「お大師さん」だけで軽く突破してきた彼って⁈おまけに、基本の三種真言までスラスラお唱えされて(◎o◎;)

 

おそらく、親御さんの【信仰の姿勢】が【敬虔にしてバランスのとれたもの】である賜物、と考える。家が真言宗というだけでは、こんなお参りは出来ないだろうよ。今時めずらしい、こういう環境に育った彼も、彼の親御さんも幸せな事だと思う。

 

大なり小なり、祈らずに生きられぬのが人間だ。全て失ったとしても、信仰こそは自分を救う最後の力となるものだ。

 

そして、他者をも利せんと願うに至るもの。人が人たる原始的規範(※海外で「無宗教です」という人間は危険人物扱いされる、とはそういうこと)。

 

だからこそ、バランスも肝心だ。が、日本ではどうやらこれが出来ていない。狂信的に入れ込むか、無視で蔑ろにするか。 cult_kanyuu.png

ニュース週刊誌等で明らかになってきた宗教2世、生まれながらに新興宗教を強要された子供達のありさま。社会性との乖離に、日常的虐待性と教祖ヒステリーの親に晒され続け・・そんな子供に、自他を利するまともな信仰心など持てるはずもない。人格崩壊か、あらゆる宗教を毛嫌いするだろう。

 

一方でまた、他寺様の法要にお手伝いで感じるのだが、子供や孫を連れて参拝する人の少ないこと。寺に行くこと、祈りの場に参列する機会すら与えられない子供らに、祈るという習慣など付くはずもない。

 

ついでに、見るに堪えない埃まみれの仏壇やボロボロ位牌を平気で置いておく人も少なくない。いや、手合わせて拝んでますから、と言うも【この位牌は貴方の将来の姿ですよ、納得できますか】と尋ねると【絶対嫌です】という。そこから位牌を新調される人も居られるが、車や家は新しくしても仏壇位牌をキレイにとは心向かぬ人もある。

こんなでは、墓じまいされるも当然だ。

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信仰とは【見る様に慣れる】ものであって、【見る様に慣れさすべき】ものなのだ。「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言うでしょ?

 

求めざる者に、ムリヤリ強いるべきものではない。そんなものは功徳にすらならない。同時に、何もせずに身に付くものでもない。孟母三遷を思われよ。

 

それにしても宗教家ならともかく、生活を破綻してまで入れ込むべきものではない。生き抜く為の希望となるべきものだ、それでは本末転倒だ。

 

※この点から、教えに生きる本職(仏教ならば僧侶)と在家の信者とは、スタンスは異なるべきと考える。本職が為すべき布教を、功徳だの階級だのステージだのと紐づけて我欲を煽り信者に勧誘させてるなど、ロクな宗教ではない。

※そもそも、自分達の教えを信じない人間は悪魔だ!サタンだ!仏敵だ!と言ってる地点で、頭オカシイのは自明ww でも、単純で過激で決めつけで選択の余地なく自己過大評価な者に、人間ってのは魅せられ夢中になるんですってサ・・

 

狂信的に生活や子供まで壊しても全てを捧げるバカ、子孫を祈りの場に触れさせもせず後生を嘆くバカ、先祖を捨ておくザマを見せながら我が子に見捨てられるを嘆くバカ・・人生の中に善きバランサーとして持つべき信仰を蔑ろにしたツケは、その者の人生と後生で払うしかあるまい。

 

だから、先述の彼とその親御さんは【幸せなことだ】と思う。親御さんの信仰でこういうお子さんが育ったなら、親御さんの後生も安心だ。

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また、以前のブログにも書いたと思うが、真っ当な宗教に関わることは、その人に霊的なガードを持つことでもある。お子さんを宗教から遠ざけるのは、そういうバリアを持たぬままになる点からも危険と思う。

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このように信仰への遠ざけは、心的バランサーを持たず、基本的宗教知識を持たず、霊的バリアも持さず。さりとて人は悩み苦しまずには生きられぬからそんな場面にぶつかった時、普通感覚では危いと感じるはずの「得体の知れぬ悪鬼邪教」に絡めとられる。新興宗教が跋扈していられるのは、祈りなど葬式だけで雑にしてきた、戦後日本の仏教構造があるところだろうが・・

 

長くなり過ぎた。締める。

信仰とは、己をそして子孫を、この世も来世も安心安楽ならしめるものだ。であるから、真っ当な信仰にバランスの良い程度と距離感をもちつつ、幼きから触れさせておくべきだろう。さればいかがわしい邪教に惑わされることも無く、敬虔さをもって自身は強くかつ大切に、他者も大切に思える人と成れるのではないか omairi_girl.png

そして先述の彼のように、サラッと自然かつ丁寧というスマートな信仰が身に付いていたら、人としてもカッコよく見えますわ(^^;

 

それにしても、お大師さんの名の強さったら・・ありがたい事デス。