google-site-verification: google03647e12badb45de.html 一知半解 - 遍照院 へんじょういん  お護摩と占い鑑定【公式】

遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

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2023-04-18 16:58:00

一知半解

topページにしているbingに、東洋経済オンラインの「お寺の中核は法事と祈願と思い込む人の盲点 二大事業が重視されるようになった歴史的経緯」という、記事が表示されたので読んだ。

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が、コレは酷いとしか言いようがない。行動経済学の視点から書かれたものとはいえ、俗の知識を根拠にしているとしか思えない。こんなの書いた中島氏って誰?と検索すると、慶応義塾大学商学部の教授とのこと。

 

内閣府にも関わっていたらしい日本の頭脳とも目される社会的信用のある人間が書けば、こんなデタラメな記事でも世間の人々は信用するだろうし、日本の仏教を貶めるに一役買うことになろう。

 

そこで、著者とは比較にならぬ浅学菲才ながら一矢報いておかねばと、記す。文章化すべきだが整理が手間ゆえ記事を引用のつど反論する。

 

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>以下は記事の引用部分

>このように祈願と法事はお寺の二大事業なのだが、驚くべきことに、これらの儀式は仏教の開祖である釈迦の教えに基づくものではない。

>恵まれた環境で育ったが(略)苦しみから解脱する方法を探し始めたとされる。(略)たどり着いた結論は「こだわりを捨てる」というものだった。

>煩悩を消し去るには(略)、いずれ消えてなくなる運命にあるという「無常」の概念を理解するしかない。これが釈迦の教えの基本である。

 

先に、基礎知識を。仏法とは、釈迦の言葉に近いとされる原始仏典に依れば【推論の領域を超えた微妙(繊細極まりない)もので、智者のみに知り得るものだ】とある。ゆえに説法をためらうが梵天が来りて【煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生もいる、彼らなら法を説けば理解する】と説得し、これによって釈迦は説法に踏み出したと。

 

厳しい話だが、釈迦本人の悟った仏法とは「誰でも救われる法」ではない。資質のある者ならば、修行で得られる解脱への道筋を説いたものだ。その修行に専念するには「労働と生殖」という「人間が社会を作り生きていく必須要件を一切放棄」するということが前提となっている。自給自足すらも許さない。だから釈迦自身が【世の流れに逆らうものだ】とも言っている。

人間離れした教えを実践して解脱に至る、これが仏教の原点だ

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釈迦滅後、弟子らが結集研鑽を重ねるうちに、己の解脱の優先を踏襲するグループと、【苦を免れる】法味を民衆にも得さしめる、というグループに教えは分かれ、ここに仏教のいわゆる上座部(小乗)と大乗が誕生する。

 

大乗は【釈迦が現法涅槃から説法へ=再び世俗の中に戻って来た】ことに重きを置く。そして大乗の門において解脱を果たした修行者らは、得た生死の世界を超えた体と智慧通力で追随する眷属らを率い、泥の中で遊戯するが如く、様々な手立てによって俗世の衆生苦を済度しながら、仏法へ誘うというスタイルを用いる。

 

そうした大乗の説法と救済の手立て=方便として誕生したのが、いわゆる法事と祈願だ

 

 ********

というわけで、

>これらの儀式は仏教の開祖である釈迦の教えに基づくものではない

 

そんなことは自明だ。仏教の原点は「解脱の為に非人間的な生活と修行」をせよ、である。だがその原理主義を貫き通していたら、現在に仏教など存在しないだろう。地域や時代の変化に合わせた大衆化によってこそ、広まり伝え来たのだ。

そもそも原始仏教には、法事や祈願など儀式を行なえなかった、深刻かつ決定的な事情が存在する。後述する。

 

>たどり着いた結論は「こだわりを捨てる」というものだった

 

 アホである。釈迦自ら【推論の領域を超えた微妙なもので、智者のみに知り得るもの】と言っているではないか。仏教の原点においては解脱とは、俗世の基本的生活を一切断じて得る【認知の根本的な転換】ともいえるものだ。「こだわりを捨てる」そんな教えだったら日本に伝わるも無く滅んでいただろう。今の断捨離と同じって話か⁈

 

>いずれ消えてなくなる運命にあるという「無常」の概念を理解するしかない。これが釈迦の教えの基本である

 

 ほんまにアホ、思考じゃないから【推論の領域を超えた微妙なもの】というのに。解脱智とは行によって直観と言うか直覚というか、全身を以って認知の根幹が変容する智慧である。「理解」と言ってる地点で論外だ。

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>宗教評論家のひろさちやは、これを以下の簡単な数式で表現している。 幸せ=充足/欲望

>(略)この欲望と充足の無限ループこそが釈迦のいう煩悩だ。この数式が理解できれば、煩悩から解脱するための方法も簡単に見つかるだろう。

 

仏教を語るにひろさちやを持ち出した地点でたかが知れてる、と公言したようなものだが・・だから、人間らしい生活を一切放棄して、実覚智として身に体現する難思の法だ、と釈迦が言ってるのに。人間だれしもがその【生存認知に練り込まれた欲、それによって構成されている生きているこの世界、その世界の束縛=存在から【超越した覚智】だってのに。

 

十大弟子の一人、阿難を見よ。彼は長年釈迦に侍り、最も教えを聞いた弟子であったが、釈迦入滅までに解脱することは叶わなかった。【多聞第一】と称された者にしてそうなのだ。断じて理解の問題ではないこの教授は何をもって簡単と言い切ったのか?失笑しかない。

 

>(略)釈迦がたどり着いた悟りは、「信じれば救われる」といった宗教的な意味合いよりも、時代を超えすべての人に通じる人生哲学に近い

 

 難思の法であるがこれは「来てみよ、と示されるもの」=「私の説くところを信じて修行すれば、貴方にも得られるところだ」と釈迦は言っているその法を信ずべきところから仏教は始っている。信じぬ所に宗教は存在しえない。

 

ついでに文面からにじみ出る、今の仏教が【冥衆や死者や不思議の力などを説き、相手にしてるのも釈迦と違う】感についても話しておく。それらの存在や釈迦の神通力は原始仏典で何度も言及されている。自称理性的な研究者がそんなことは無いはずだ、と勝手に除外した経典解釈を鵜呑みにするようでは、文献研究からも不誠実とのそしりを免れまい。

 

だいたい、仏教を「人生哲学」というような言い方をする人の著に、腑に落ちる論など読んだ記憶が無いが。

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>なぜ仏教が祈りと葬儀に関わるようになったのか

>(略)解釈をめぐって弟子たちの間で論争が勃発した。そのなかで最大勢力となったのが「説一切有部(せついっさいうぶ)」と呼ばれる部派で、悟りを開き仏になるためのハードルを高め、出家者のみにその資格があるとみなした。すなわち、参入障壁を設けて教団を専門家集団としたのである。

>この戦略は仏教の権威を高めはするが、信者が減るという弊害をもたらしたため、それに反対する新興勢力を生むこととなった。その新しい教えは、出家者だけではなく一般の人たち(衆生)も救いの対象とするもので、(略)「大乗仏教」と称される。

 

>参入障壁を設けて教団を専門家集団とした

だから~もともとの仏教は【出家修行者のもの】だっての。専門家集団というのが、本来の姿なの!

 

>威を高めはするが、信者が減るという弊害をもたらしたため、それに反対する新興勢力を生むことと

 

仏教が分裂したのは「釈迦の教えの解釈」が主原因だ。大雑把に述べれば上座部の説一切有部は「人空法有」を主張し、大衆部は「人法二空」を取る。ここから更に方向性の違いが広がっていった、である。「ハードルを高め」だの参入障壁」だの「信者減の弊害」だのと思考が俗、まさか大学内の学閥争いと同じと思ってるの?

※ちなみに、読んで字のごとく有をも主張する説一切有部の教義は「釈迦の意に違背するもの」との批判に堪えず、宗としてはたしか消滅したような?でも、その微にいり細に入る精緻で膨大な仏法論考(アビダルマ)は、しっかり大乗仏教の基礎ともなっている。お馴染み百八煩悩というのも、ソコから来ている。

 

>ただ、衆生は実社会で生活しており(略)、そこで考え出されたのが衆生でもできる解脱の方法である。

>①坐禅を通じて仏心があることを仏に認めてもらう方法 ②経典の力によって仏の世界に飛び込む方法 ③仏を念じて仏の候補生になる方法 (略)①と③は作法に従って実践すればよいだけなので、時と場所に縛られることはない。

>したがって、①と③が教団として生き残るには、何らかの専門性を有する祈りの作法を取り入れる必要がある。そこで目をつけたのが人間の死を扱う葬式である。

 

>考え出されたのが衆生でもできる解脱の方法である。

解脱への修行はかくも日常生活の延長では困難であるが、その功徳に与る術として釈迦は布施を説いた。更にそこからもう少し仏法へ親近させる/功徳を得る向きに展開されたのが大乗だ。が、それは解脱へのいざないであって、衆生に出来る解脱の方法などではない。だから原始仏典では、釈迦は在家に対しては【功徳を積んでの生天】を説くのが主なのだ

 

原始仏教の性質からして、教団はそのままでは維持どころか修行僧が生きることすらままならない。稼いではならない、ってんだから。ではどうやって生きるのか?釈迦の答えは【布施】である。修行する僧には解脱へと向かう行力が生じる。修行出来ぬ民衆は、布施で修行僧の生活を支えることで「解脱へ向かう力の一端に与れる」という功徳を得る。修行僧は布施を得る事で「生きて修行する」行力を得る。修行僧が解脱を果たしたなら、布施を行なった民衆も解脱力による功徳に与ることが出来る。wiinwinだ。

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ゆえに、脱社会性という仏教の中ながら民衆にどう見られ/どう思われるかは一大事であり、釈迦がそのことに神経を砕いていたことは多く知れる。戒律(厳密には戒と律は別だが)の中には「どうしてこんな定めが?」というものがあるが、「民衆からどんな目で見られるか」のエピソードや視点だと納得いくのも少なくない。人は食わずには生きられない。収入を禁じながらも業を穢さぬように収入を得る、それだけでも容易ではない行みたいなものだが。

 

それを、>教団として生き残るには >そこに目を付けたのが

 

収入を得るという面をさも醜悪な属性とでも言いたげだ。釈迦自身が布施=収入を得る為の規律を弟子らに教えていたとか、在家には修行僧には衣食住を布施するべきだとか、説法を受けるために修行者数百人分の食事だとか、土地建物の寄進に注文とか、知ったらビックリ仰天かもね。

 

そもそも原始仏典には現在の感覚からは、やり過ぎとしか思えない苛烈な釈迦の言動がいくつも出てくる。世間的な優しさの人だと思ったら大間違いだ。比すれば日本仏教などはるかに優しさに溢れているそれが解脱の視点から正しいのかどうかは別として

 

それを知った上で>釈迦の教えではない、と批判しているなら、この教授は【仏教は、素質ある一部の者だけが救われる差別的な教えであるべきだ】と主張しているのでしょうね

ついでに、明王の厳しさとは仏法に臨む釈迦の厳しさの反映ではないかとも考える。

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*******

  

>そこで目をつけたのが人間の死を扱う葬式である。

>なぜ仏式葬儀が広まったのか

>(略)死に対する恐怖は時代を超えた人間特有のものだろう。(略)信仰を前提とする宗教にとって、人間の死は格好の「商売道具」なのである。こうした経緯を踏まえれば、教団が生き残るための道として、葬式を主たる事業とするのは当然の流れだった。

>それは、念仏を奨励する浄土宗や浄土真宗は当然ながら、他宗も積極的に葬儀を宗教活動に取り込んでいったことからも明らかだ。

 

 当記事批判のメインといきますか。

まず、この教授は原始仏教と大乗の、目指す境地の違いすら分かっていないようだ。

皆さんにも聞きます。原始仏教の解脱である【阿羅漢】と大乗の【仏】の違いって分かりますか?

・・・

分からぬのに、成仏したとか簡単に言うんじゃないよッ!

って言いたいですけどね。そこらの寺にも。

 

同じなはずの悟りに仏と阿羅漢、何が違うのか。

仏は【一切智】と【大悲】を具している、端的にはそこが違う

 

一切智とは、全てを見通すあらゆる知恵のこと。すなわち、世俗のあらゆる知恵にも通じていることをいう。

大悲とは言うまでもなく、衆生の苦しみを除かんとする働き。

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解脱した世界には、束縛をはなれた風景だけがあるらしい。釈迦が始めに「自身が煩うだけだ」と説法をためらった点からもそこは窺える。解脱から慈悲を起こすかどうかはまた別の話だ。一見冷徹に思える三解脱門はその裏づけだろうし、大乗の諸師が二乗に「陥ってはならない」と口を酸っぱくするのもそこだろう。悟りと慈悲とは本来「別問題」なのだ。

 

智には悲が伴う、と言うのは大乗の論理であって、ゆえに大乗は【一切智】をも仏の条件とする。知る知恵と対処する知恵を有するからこそ、苦しみの世界に戻って大悲を起こし得る。

 

解脱から慈悲を起こして立ち上がった者達と随伴者達によって構築されたのが大乗。悟りに与れぬ者まで救いとりたい、がポテンシャルにある。

 

衆生世間を救うには、当然ながら衆生世間の智恵がいる。あらゆる衆生に見合った世間の智恵までも包括する所に、悟りの極致はある=これが「菩提」を超えた「無上菩提」の姿であり、これこそを【仏】と呼ぶ。・・しかしコレでは全知全能のスーパーマンでしかない;

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阿羅漢に留まってはならない、という大乗の運動は、ここに至って【そんな超人はどう考えてもムリっぽいから、悟りは果てなき時間の先に先送りということで、菩薩となって大悲を基調に修行しましょうか】となった。真言密教が現れるまで、成仏論が輪廻の果ての理想に形骸化した、というのもここにある。

 

※余談だが、一切智とは理想論となるも無理ない話だが、民衆にも学習で得さしめようとしたのは弘法大師であった。彼は唐の国を立つ前に、福州の観察史(県知事的な)に【人の役に立つあらゆる物を持って帰りたい、協力して欲しい】と宛てた手紙が残っているし、日本初の誰にでも差別なく教育を施す私学校を作り、そこでは仏教に限らずあらゆる学問が教授されていた。もとより、弘法大師自身が数多の伝説を生み出すほどに、あらゆる世俗智にも通じていたのは事実としてある。日本においては、仏教専門バカとならずに正しく【一切智と大悲】を兼ね備えていたのは、後にも先にも弘法大師だけだ。

 

さて、衆生を仏教という教えに引き入れるには、どういうキッカケなら適切か。仏法自体が【苦】への認識からスタートしているのだから、【苦への対処】が一つの契機となるのは自然である。

 

また、教授の言うように「死に対する恐怖」は苦の最たるものだろうから、そこへの対処こそは【大悲の術(すべ)】として然るべきとなろう。

※インドでは宗教を問わず死よりも【輪廻】が恐怖である、とも。

 

その対処の顕現は如何なる形になるか?そう、祈願と葬式である。大乗の宗教からすれば、大悲の実践として祈願葬式を担うのは自然な展開でしかない。

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そもそも日本に仏教がもたらされたのは、仏の威力に期待し、その鎮魂力に期待して、とのことを知らぬわけではあるまい。目を付けたの/格好の商売道具だの、と、後にはそういう輩も出てこようが、そういう視点でしかないのは自らのゲスっぷりではないか。

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そして原始仏教が祈願葬式をしなかった決定的な訳がある。

インドではカーストが絶対だ」ということ。

だいぶ前の記憶で名前は失念したが、インド宗教の専門家の著書で目から鱗。

 

インドにおいてはカーストという制度が根底にあることを忘れてはならない、それは日本人には想像も出来ないほど、過酷なものである、と。

簡潔にはカーストとは生まれながらに規定された、その人の生きる階層の制度。その枠組みの中で、そのしきたりに添って生きることが求められる、これを超えようとすることは最悪、死をも意味する、らしい。インド圏には逃れられぬ地盤。かのガンジーですら、カーストの撤廃には首を縦に振らなかったことは有名だ。

 

釈迦の教団自体はこれを否定し、どのカースト出身であっても修行僧に差別はなかった。解脱智が世間の枠外であるように、仏教教団もカーストの枠外だったようだ。しかし、外部世間と関わる時にはカーストという社会を無視するわけにはいかない。

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先述のようにカーストとは「その人の人生のしきたり」を規定するものだ。生まれから成人、仕事から結婚から子育て、おいては死まで。

 

お気づきであろう、インドではカーストの中で人生の通過儀礼を行わなければならないのだ。そして、通過儀礼とは宗教によって行われるものである。逆に、通過儀礼を行なう宗教はインドにおいては「カーストを形成する組織」とみなされる、と。

 

仏教教団に於いて葬儀や祈願を行なうことは「仏教カースト」を形成した、と見做されるにイコールなのだ。カーストを否定する釈迦にとって、それは何としても避けなければならない。世俗の認知を断滅し/人生に物語を持つ事を否定し/子孫など持たぬ事を前提とする教えであるから、そのこと自体は難なくだろうが、布施という生きる為の資を得ねばならぬ=世俗との関わりも死守せねばならぬ。宗教としては教えと儀礼こそが布教であるのに、社会によって儀礼をもぎ取られている、そのことを考慮せずに原始仏教を論じては見誤る、と。

 

インドで仏教が滅亡したのはイスラムの侵攻とされるが、バラモン教がヒンズーとして復活したのに対し、仏教が復活不能だったのはこの「宗教として通過儀礼に関わらないで来た」=基盤に於いて根無し草状態であったが大きな原因、との指摘には納得するしかない。

 

かたや日本では、カーストのような社会基盤に気を遣う必要はない。しかも大乗である。堂々と民衆の通過儀礼に添うことは、双方にとって利がある在り様といえよう。

 

記事からはまるで仏教が安定基盤を有することが害悪のような印象を受けるが、安定基盤を持たぬ仏教は彼の地で滅んでしまったのだ。どんな集団や企業でも、その存続に安定した収入基盤を確保する努力は道理に違わぬ限り、褒められこそすれ、なんら責めを受ける謂われなど無い。それを「聖たるべきものが」と金のイメージで悪印象を強調しようとする、そんな文面としか思えない。

 

葬儀の引き合いにそういうインドの過酷な社会制度原始仏教の過酷さ教えの差も知らず、単純に日本の仏教を比較する自体がナンセンスだ。少なくとも学者さんのやり方として認められるものではないはずだ。

 

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>江戸時代になって幕府が、すべての国民に仏教寺院の檀家となるよう強制したことにより、

 これは寺が役所の出先機関を担う故である。当時としてはまことに効率良き行政構築であろう。これで信仰の自由が実質奪われたままに今日に至っているのは甚だ問題と思うが。

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>このままでいいのか? 

>仏事の教義上の根拠は何なのだろうか。

>(略)「悪いことをすると地獄に落ちるよ」とか「嘘をつくと舌を抜かれるよ」などと言われた経験をお持ちの方もいると思うが、仏事の根拠となる『往生要集』の内容はそうしたもの

>「地獄に落ちるぞ」と言われれば、誰しも震え上がったに違いない。

 

 故・細木かず子かよ(失笑) そんな教えで仏事やってる寺なんかあるの?逆に見てみたいわ。まあ、仏の話も教えも説かずにただナムナム拝んでハイ終わり、という教えも何にもない流れ作業な寺は多いようだが。

 

>同じような儀式を同じように続けているのが日本の葬式仏教である。

 まあそれは上述の通り同感。

 

>安定的に布施を提供してくれる檀家を抱えているため、自分たちのやっていることが時代に合っているかどうかの検証もなされないように見える。

 祈願寺は結果を出さねばならぬから毎座真剣勝負だが、食うに困らぬ寺ならそうなのかもね。

 

>この「茹でガエル」状態を続けていれば、いずれは仏像や伽藍を残して日本から仏教は消え去ってしまうことにもなりかねない。この危機意識の欠如こそが日本仏教の抱える最大の問題なのである。

 まあ、それは分かりますわ。

********

 

で、全体を通してこの記事は何を言いたいのかは、全く分からないのですけど。

 

仏教界に対する提言でもないし、コロナ禍で略する一方でクソ高い布施や寄付を要求する寺に不満悶々の民衆を煽ってやろう、悠遊自適な寺を追い詰めてやろう、という行動経済学に基づいた言質でしょうか?

 

主張は勝手ですが学者たるもの、誤った情報による批判話など、許されることではないと存じますが?影響力の無い庶民がネットにデタラメを書き散らかすのとはワケが違うお立場の人、なのですから。 

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この記事にタイトルを付けるならば【お寺の中核は法事と祈願と思い込む人の盲点】じゃないね。

仏教の中核を原点との差を考慮せずに思い込む人の盲点が正解でしょうに。

 

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それでも、

>現在でも、祈願を主体的に扱う寺院は存在するが、祈願一本で経営を成り立たせるのは至難の業である。

 よく分かってるじゃん!

 葬儀と違って結果を見せねばならぬ祈祷や祓いは、その為す所も負う所も経費も葬式の比ではない。なのに葬式にはベラボウな布施が当然とされ、祈祷には微々たる料しか容認されぬ文化風潮が根付いている。中身に添えば逆たるべきなのだ。祈願一本で経営を成り立たせるのは本当に至難。

 

おまけに、葬式仏教に不満を持つ捌け口が新興宗教となり、新興宗教がヤラカして宗教不信を興すと、そのトバッチリを喰うのも葬式寺ではない、檀家も持たず【祈願や相談で現世に向き合っている】祈祷寺だ。檀家寺は痛くもかゆくもない。宗団機関紙などによると、コロナ禍で法人解散する小さな寺教会は少なくなかったようだ。原始仏教のように【通過儀礼に関わらぬ】祈祷寺は、信仰を束縛しない不安定な基盤の中で菩薩行を行じている。

 

>仏像や伽藍を残して日本から仏教は消え去ってしまう

 祈願で経営を成り立たせるのが至難とも存じていて本当にこう思ってるなら、こんな駄文より、仏法実践の場で奮闘している祈願寺の価値認識を高められるような、行動経済学に基づく指南を書いて欲しい所だわ。門外漢が口出しして恥をかくより、得意技で提言する方がお互いにとってウィンウィンじゃない?日本仏教の危機を思われるなら、その方がよっぽど有意義ではないか。

 

思うままに記したのを更に極力詰めたつもりが、読み返すと結構な文量;だが、そういう仏教への誤った偏見を正すには、これくらいは必要となった。ご了承いただきたい。

読まれた人にはお付き合いありがとうございますm(__)m 

 

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追記 昨日、高野山元管長の松永有慶猊下の訃報の通知があった。私的には専修学院や講伝でお世話になったくらい。

であるが、著書に「明治から戦後までの人間釈迦/哲学仏教/悲哀ある宗教家だのが一知半解な偏向文化人に持ち上げられる一方で貶められてきた真言密教、その復権というものを私的に課してきた」的な記述を読んだ気がするが、まことに、真言宗の意義と価値の宣揚に尽力された第一人者であられたと思う。

この記事を書いている最中に訃報を受け取ったが、この文も些かでも松長師の意に添うところがあるなら、微力ながら報恩の回向としたい。哀悼。