寺ブログ by副住職
杖の効用
前回記事に書きましたが、行き当たりばったりで急遽お参りした、讃岐金毘羅宮。
ここで図らずも「杖の効用」を心底、思わされることに。
参道の店で「ここの石段、想像の上を行くから杖を借りてった方がいいよ」といわれ、レンタル杖を片手に785段を登る・・
GW始めということもあるのか、本当に人人人;
若い人ばかりじゃない、お年寄りもいれば、まだ入園前かと思われるような子供(*_*)の手をひく夫婦や、手をつなぐカップルも。いや、デートには酷すぎだろww、と歩いていて気づくのは【手すりが全然ない】!身体を預けられる場所がない、まさに山登り。
杖無しで登る人も多いですが、登るにつれて心なしか周りは牛歩的ペースの人が増え、中には座り込んで動けなくなってる人も(^^;
もうココで今日一日終わってしまうんじゃね?という焦りと疲れで、「もう止めて帰るか」という思いに何度も駆られつつも登拝達成、雨に濡れてきた帰りの石段を急ぎ下って来て、ホントにこの「レンタル杖のおかげ」としみじみ。
身体を預けられるモノがあるというのは、なんと有難いことか。
そういえば、お遍路では【金剛杖】という杖が必須です。長距離の山あり谷ありを歩むには【杖】は欠かせない。
そればかりか、この杖は単なる【杖】ではないのです。
同行二人という言葉、聞いた事お有りと思います。一人の遍路旅であっても二人旅だよ、と。もう一人は誰?・・お大師さんです。
それは、観念だけの言いでなく、この【金剛杖】がお大師さん、なのです。
だから、遍路した人には常識ですが、宿に泊まる時は先ずこの杖の足を洗い、部屋の上座/床の間に安置します。金剛杖は道中の【物心両面を委ねる】大切な依処なのです。
ところで、杖といいますと、膝や腰が痛んできて「歩くのが/起居が大変」という人には「杖を使った方が良いよ」と常々お話ししますが、実際使う人は少ないようですね。
そうこうしているうちに、歩き格好がおかしくなったり、歩けなくなりました、という人達もいます。
どうして使わないの?と聞くと「みだぐないから/恥ずかしいから」が多いよう。高齢の人ほど、杖は年寄りのつかうもの、というイメージが染み付いているようで。
でも杖があると、膝腰にかかる負荷が相当に軽減されるのは立証されていること。頭部という重量物を最上部に置いて二本足で立っているという人間の構造自体が、そもそも生体として無理が多いという論もありますし、やはり足は3本くらい必要なのかも笑
我慢して痛い部分をかばうようにしていると、他の部位にも過度の負荷がかかって健康な部位まで痛めるという悪循環になり、痛いから変な格好となり、変形し、終いに歩けなくなる・・躓いて転んでから寝たきり、なんて話も聞きますでしょ?
世間への体裁とか無意味なプライドのせいで、自身を無駄に傷つけて、人生の自由な時間を自ら縮める真似をしているんですね。
杖を使え、布団じゃなくベッドに寝ろ、と何度も言ってようやく取り入れて「こんなに楽だと思わなかった、もっと早くやればよかった」と仰った人も何人もいます。
あなたが気にする世間サマ/プライドサマは、貴方の心身が弱り困ったら助けてくれるのか、考えてみたらお分かりですね。心と身体を以って生きねばならぬのは【自身】でしょう?何を大切にすべきや。
杖を用いるのは、【寄りかかれるモノを用いる】というのは、何も恥ずかしい事ではありません。そのおかげで心身に負荷少なく、健康を保てるなら賢明な道具でしかない、でしょう?身体が心が弱ってくるとは、老いれば誰もが通らねばならぬ道、何を恥じらう必要があるのでしょう?
それこそ、あなたの身体を支えてくれるソレは「お大師さん」だ、と思うのもイイでしょうね。そうしたら、恥ずかしいとか遠慮なんか無用、かえって心強くすらあるかも。
ついでに【杖】は物ばかりではありません。
【鑑定や祈祷は、転ばぬ先の杖ですよ】とは昔から常々お話ししていることですが・・
しかし古くからの人でも、肝心な時に相談は無く、転んで大怪我をして、それから相談に来る人は未だにいます・・
杖は転ばない為の支えであって、転んだ時に起き上がる為の支えです。信仰とは【杖】たるべきもの。正しき祈りがある人は幸いというのは、ソコです。
願わくは、持ってるだけじゃなく、日頃動かして、しっかり活かされて欲しいと思うんですけれどもね。
困った時ばかり思考で祈りの杖はしまいっ放しで埃まみれや行方知れずでは、御仏も大師もイザの時、杖になってくれるには間に合わない、ことも往々でしょうから。
※5月28日法会の話の整理記載