寺ブログ by副住職
彼岸の話① 金持ち喧嘩せず、のマネ!
施餓鬼五如来のお話①
何故、施餓鬼の五如来か?当山では秋彼岸は特に行事は設けておりませんが、ご希望の信徒さんを対象に彼岸中一週間の施餓鬼を行ない、施主さんにも可能な範囲でご自宅でお勤めをしていただく、簡単ですが仏道行に同行していただく機会としております。
施餓鬼とは、書き出せばもう長くなるので当サイト内の記事をご覧いただくとして、この施餓鬼には独特の仏さん方が餓鬼の救い手として勧請されます。それが五如来です。
施餓鬼の時だけ登場する仏さんなので、坊さんにも普段は全く意識の外とされてしまいがちですが・・
この仏の働きをよく見て考えますと、そこには餓鬼という彷徨える霊魂を救い上げるだけあって、私達が苦を逃れて豊かさを得る術が説かれているように思うのです・・そういう解説には出会ったことがありませんけど。
そこで、当山では在家の方にも仏道行に触れて頂く彼岸に、用いている施餓鬼からお話ししましょう。殊に施餓鬼の施主様には知って頂き、一層の功徳利益ありますように。
☆第一【過去宝勝如来】
施餓鬼五如来とは、金剛界曼荼羅の五仏が餓鬼道を救う為に変じた姿とされています。その筆頭が【過去宝勝如来】。
餓鬼とは、飢渇に悶える死霊と思ってもらっていい。この飢渇はどこまでも絶え間ないから、ひたすらくれ、くれ、の貪欲の塊。
そそ、三毒煩悩ってなんでしたっけ?・・貪、瞋、痴ですね。
貪りは怒りを生み↓
怒りは愚かさを生む↓
ので、貪欲は諸毒の根源。
濁世にがんじがらめの者を救い上げようとしても、境地とは心の反映でもありますから、まず悪趣なる心身の有り様を改善せねば引き上げなど叶わない。
そこで、過去宝勝如来。
この宝部の仏は富貴円満の徳を持ちます。飢え苦しみもがく者に、高尚な話など聞く耳持たずですよね。
先ずは、満てる感覚を与えてやる。
豊かな仏という示唆は、与えることをつかさどる意。
でも、仏教は与えるだけで良し/もらうだけで良し、とはしません。与えられたら次は与える、これがセットになっています。つまり、布施行です。
そもそも人というのは、行きつけば「自分が得るだけで満足」とはならない生き物。満ちる感覚には「他者へのやりがい」も欠かせない。ボランティアなんてのはそこを突いたいい例でしょう。
与えられ与えるというのが、人が満ちる本質。しかし、それは余裕が出来て知る感覚。苦しい欲しいばかりの内には思いなど至りません。だから「行」として課す、目覚めるように。
仏道には、六波羅蜜も四摂も筆頭には布施が配置されます。欲しい欲しいの貪欲を壊すには、手放すことを知らしめる。
そのことで貪欲とそこから生じる物惜しみ心を退治する。すると「諸毒の根源を退治」するのですから、仏への境地が一気に開けてくる、というわけです。
まあ「金持ち喧嘩せず」を真似しろ、ですね(^^;
富貴豊かな仏が布施行をつかさどるという示唆は、快く施せる人ってのは余裕がある意の裏返し。
行為と業はリンクしますから、
逆に、施すことで自身に「余裕がある人」という徳を形成することになる!
金持ちになりたいなら、先ず金持ちの習慣を/行動を真似しろ、と言いますよねww。
救われたいなら先ず仏の真似、仏への第一歩となる布施を能所で行なわせる。それがこの如来。
前にブログに「仏教の一つの捉え方としては、僧侶が自力で片付けてしまうのは「信徒に功徳を積ませる機会を奪ったことになる」のでマズい、という理屈もある」と記しましたが、お一人からだけ反応がありました。「お釈迦さまが托鉢するのに、あえて貧しい村ばかりを歩いていた、とはそういう事なんですね」と。その通り。
苦しむ環境=業を持つ人達にこそ、布施の行ないをさせて、その境地から脱する一助にする、それが釈迦の狙い。布施を得る視点で見れば王族貴族のトコだけ行けば楽なのに、高貴裕福な人には頼まれた時しか行かなかったという・・
行為には業が伴いますから、布施の行動とは僅かながらも仏の業、そして余裕ある富者の業を得ることになるのです。
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そしてまた、布施という視点でつくづく思いますのは「惜しいモノを手放すという行為の強烈さ」です。
節ごとに衣類の整理や部屋の掃除する際、使っていない品でもイザ捨てるとなると、自分に言い訳して躊躇しませんか?
親の終活にゴミ部屋状態を片付けようとして激怒されて手が付けられない、という話も随分多いようです・・
それほど人間にとってモノを手放すというのは「日常を壊されるほどの恐怖」を伴う、ということ。
逆に言えば、その恐怖を乗り越えて手放すことが出来れば、ありきたりの日常を壊し、新しい日常を開く転換を得ること、ではないか!と。
思いますに、釈尊は約束されていた次期国王の座と酒池肉林の生活と妻子の全てを放棄して、山林修行に身を投じました。
弘法大師は、一級の頭脳と家系を持つ者しか入学が許されない都の最高学府の学籍と、約束されていた高級官僚の道を放棄して、山林修行に身を投じました。
約束された安定を捨てて修行に飛び込んだお二人が、古今東西を超えて尊崇される超人になったのはご存じの通り。
惜しいものを手放すエネルギーというのは、私達の想い以上に、新しい日常を切り開く力を持つのです、きっと。
されば、ちょっと前に流行った断捨離。ハマって生き方が変わったという人も結構いたらしいですが、それもゆえ有るコトかなと。
すなわち、布施の本質の部分は「業に流されるままの人生を打ち破るパワーを発揮させる」そんな所にあるのではないか、とも思うのです。仏教で筆頭とされる教えと言うのもそれゆえ・・
・・こんな解説は他で耳にしたことが無いので、私の独りよがりの確信かもですが(^^;
布施の話にまで踏み込んで長くなり過ぎました;まとめましょう。
☆惜しいを手放すというのはなかなか難しいアクションである一方、難しいからこそ、やれた変化は己の殻を打ち破る大きなものとなる。
☆惜しいモノを快く手放すというのは「豊かだから出来る」行ない=それを行なうことで「豊かだから出来た」という業を手にする逆手もある。
もっとも、施す対象が、善意に付け入ろうとするズルい輩とかくだらぬ者とか新興宗教や、自身を蔑ろにして行なう施しでは、ゴミに捨てた方がマシ、ってなりますから、よくよく見極めるのは大切ですけどね。
世の中も仏道も、一方通行ではありません。押してダメなら引いてみる、形から入ってみる、出来ぬ者には真似をさせる、すでに出来ている前提で動いてみる、自分を捨てるのでなく自身の代わりを捨ててみる。出来ないと決めつけず、ものごとを動かすとはそういうこと。
苦しいと言いながらそれに執着する自分をムリヤリにでも手放せ、強く善く豊かな者のマネをしろ・・どん底を打ち破るファーストステップ、それがこの仏の神髄であろうかと。
最後に、私が霊符の伝授を受けた際の阿闍梨さまの言葉「与えなければ、与えてもらえない」「与えずして得たモノは必ず奪われる」「まず、与えることが優先だ」世の中とはそのように出来ている、と。「与えた者は、与えられる」のです。