寺ブログ by副住職
彼岸の話③老いて学べば、死して朽ちず!
③【甘露王如来】
①②の仏の力で心身が安定したなら~人の話を聞ける状態になります!
※こう思うと「人に話を聞かせる」というのは、やはりムズカシイことなんだなァ~;
そこで次は「法を説く」甘露王如来のお出ましです。
成仏への道に引き入れるのには、教えを聴かせることが第一歩。
仏教は「聞法」が始めの一歩、と申します。あらゆるお経群は「如是我聞」、私はこのように釈迦の教えを聞きました、で始まりますね。
まず聞いて、学べ、です。
※どんな教えでも見聞きし学びますが、釈迦当時のインドでは記述する伝統はなく、聞いて口伝えであった、と言いますから、仏教で「聞く」ことが強調されるのはそういう下敷き故かも。
甘露王の甘露とは、あま~い♡飲み物のこと。ですが、ここでは「仏の教え」のこと。大般若経の転読などにも「般若の法味は甘露の如し」と出てきますね。
※画像は本文とはあまり関係ありません・・
ムズカシイ上に厳しそうなコトばっかり説いてるお経が甘露だなんて~⁉ですが、煩悩が苦しみだと認識できたなら、その教えは何よりも我が身を潤す清涼なるもの、らしい(^^;
かくして法を聞き、学んだら、悟りへと向けて修行できる身となる・・餓鬼の来世進学塾の先生がこの仏。
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と記して来て、よくある気にかかる事が。
先日、古くからの信徒さんが続けて亡くなりお悔やみに伺うと・・やっぱり;お二方とも、無い。
仮位牌の祭壇にあるのは、位牌、お骨、供物だけ。
え、何か足りないの?と思ったアナタは、もう一度、この記事を読み直してほしい。
そうです、導き手となる仏=本尊が不在なのです。
成仏への道に向かうには、仏の教えを聴き、修行できる体制を整える必要がある。
そこには「来世進学塾」の指導教師たる仏さまが、必ず必要なのです。
それなのに、近年は葬式が終わるといつまでも骨を家に置くくせに、肝心の本尊は寺から貸し出しもされない。
その骨と仮位牌はただ放置されてるだけ。そんな49日間に何の意味などあるのでしょう?
そういうのは「ホッタラカ死」だ、と以前ブログに書きました。
おそらくそうだろうと、準備していた13仏の回向本尊を差し上げて、49日間を無駄にしないようにしてもらいましたが・・
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死んだら成仏、もう偉いのだ、何もしなくてもいいのだ・・ってバカ言っちゃいけません。
そんなだったら釈尊が【回向の功徳】など説くわけがない。成仏した釈迦にして、その後も「私ほど功徳を求める者はいないだろう」と仏の法に学び修行し続けたのです。死ぬ際まで煩悩に振り回された凡人など、何をかいわんや。
死者とてこの世では100歳だろうと、あの世に行ったら来世1年生の分別のつかぬ赤ん坊です。だから昔は荒魂と言ったでしょ。
成長するには、どんな場でも導き手と教育が必要なのです。何歳になっても、新たな道はいくらでもある。マンネリに歩みを止めたら、命は死んだも同然。
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閑話休題。他の宗祖方が弘法大師の足元にも及ばない一線に、大師の「総合教育への取り組み」があります。
大師は、人が与えられたその生を、社会という中で充実し発展させながら崇高に生きる為には、何よりも教育こそ大切だと喝破し、そればかりか完全身分無差別、語学技術芸術医学宗教の総合教育、無償かつ食配給という当時世界にも類がないらしい、日本初の庶民学校を開きました。
知恵を持つ者が一部だけであっては、その者達が社会を牛耳り、知恵なき者はただ「金を生む労働力」として搾り取られるだけの存在になってしまう。皆が知恵を合わせ力を合わせることが出来れば、皆が豊かに社会そのものが発展できる、と。
読み書き作り楽しむこと、ごく普通にやれていることですが、コレが可能なのは識字率ほぼ100%の国で教育を受けているから。たしかに、読めない書けないでは、読書はおろかゲームすら出来ないわな;
学校教育で育んだ知恵があるから生活が出来、楽しみが増え、進化できるのです。人一人の寿命には限りがありますが、その培われた知恵は更に後世を育むものとなる。死んで終わりではない、繋いで進化するのです。それは霊的な面でも。
密教の伝授の場では、それこそ宗門のトップに位置するような御方も、若い阿闍梨に礼拝して若僧と机を並べて共に学ばれていたりもします。学びに歳など関係ない。
甘露王如来は、どこまでも自身で道を切り開いていく学びという基礎を、導かれるのです。
幾つになろうと新しい門を開け!
その道の善知識=プロたる指導者を仰げば道は近い!
そして、己も善知識となるべく聞き学び歩め!と。
幕末志士に甚大な影響を与えた、幕府学問所(今でいう東大)総長であった佐藤一斎の有名な言葉に、こうあります。
少(わか)くして学べば、壮(40代頃)にして為すことあり
壮にして学べば、老いて衰えず
老いて学べば、死して朽ちず
「真の救いとは、どこまでも聞き学び続ける所に、自ら生み出し往くものだ」と、甘露王の教え。
佐藤一斎は儒学者ですが、真の道を求めて突き詰めていけば、その到達する点は案外似ているのかもしれませんね。