寺ブログ by副住職
至誠動天
後七日の愛染王祈祷、一人黙々と修していて、ふと「そこ、違うだろう」と語りかけられ。
びっくりしつつ、よく考えると、あ゛~確かにそれでは理に適わないわ!と気づき。
ソコを修正して行じると、何か通りが良くなったようなお護摩となりました。
密教の法は、インド由来の儀軌を編集した「お次第」と言う、修法のテキストに基づいて行ないます。このテキストは伝授によって教わるもので、授かった通りに行じ、授かった通りに弟子へ伝える、ということが厳しく定められています。
自分の都合や思惑で勝手にいじることが許されない、そういうもの。
ですが、人間だもの~(^^; 明らかに間違っているよね、という部分もあるのです。それも伝統だからと引き継がれる世界;
江戸時代の傑僧・浄厳律師はそういう在り方を是とせず、あらゆる次第を儀軌と梵字悉曇に照合して間違いを修正するという大事業をなしましたが、結局それは一つの流として扱われるだけ、でした。それほど「受け継がれたこと」自体を重視する伝統があるのです。
たしかに、感得などの口伝である場合もあるので、正規と違うから間違い、とは言えない部分も多々あります。そこが難しい所ですが原則、授かった通り。※私的には、明らかな間違い箇所は他流と照合して修正して行じてますけど
話が逸れましたが、上述の今日示された「違うだろう」とは、お次第に記されているある部分。一瞬、何のことか分からなかったのですが、よくよく考えると確かに記されている様では理が通らないわ、と気づかされたのです。
しかし、私が授かったいくつかの法流に於いても愛染王次第のこの部分は皆、共通している・・;
愛染法は難しい、と言われます。それは、煩悩即菩提が悟りの更に奥の深旨であることや、観想が難儀など思われますが、それだけじゃなかったね~
それじゃ届かないよという部分が、伝統のお次第に、愛染の拝み方として記されてしまっている・・そりゃ難しいワケです。
愛染王から示されたのですから、私的には今後この部分は変えて拝むことにしました。
太元帥明王は私的には頻繁に修していて、折にいろいろお示しをくださる事があります。一方、愛染は密教の最奥の仏。拝んでいて難しいし、そうたやすくはない仏さんだよな、と思っておりましたが・・後七日愛染は、願主祈願も行ないつつの、7座の集中祈祷。
難しい仏であっても、丹誠を凝らして正しく祈る所には、必ず感応を現実に与えてくださるものです。
祈願の願主には「どうか本年の願い、成就を援けてくださるように」でありますが、私的には正月早々から大利益を頂いた気分です。
「至誠天地を動かさん」と我が母校の校歌の文言を思い出しました。至誠動天、は母校の1スローガンでもありました(^^;
ところで、あなたのその祈り/行ないは「丹祈」というに、ふさわしいものでしょうか?
真っ当なる祈りに於いて適っているならば必ず通じ、何かしあなたへの必要を援けてくれる働きがあるものです。