寺ブログ by副住職
成道と地の神
12月8日はお釈迦さまの成道した日、となっている。
それはそうと、信徒さんには何度もお話し申し上げている話だが、釈尊の成道を証明したのは【地天】=地の神であった。
日本では【土地】という場には、その地その地に神(精霊)が宿っている、と考える。だから寺院には鎮守が祀られるし、密教の地鎮祭(土公供)は実際に供物を地面に埋めるという丁寧を尽くすし、密教の伝授にはご法楽として必ず【南無当所(当山)鎮守】とお唱えする。
「日本では」と言ったが、釈尊の故事に鑑みれば、それは日本的思考に限らぬ普遍的な精霊、と言うが正しいのだろう。
またそれは【悟りを証明した神】なのだから、想う以上に大力の尊だ。大地の仏の地蔵ともリンクしてくるが、冥界にも福財にも関わってくる。
日本でいう塔は、釈迦の遺骨埋葬に始まるストゥーパが変化したものだが、このもともとは土饅頭の形であった。塔が【弔い】と【功徳出生】の両義に用いられる意も、何となく察せられよう。
在家の方が意識して拝まれる機会はほとんど無いと思うが、動土や地鎮などの機会には心して接して頂きたい神、と思う。
ちなみに、施餓鬼の対象には【広野鬼神衆】という部類もあり、ここには地神の眷属類も供養対象として含まれている。施餓鬼の功徳力の一端でもある。
ついでに、12月8日は真珠湾攻撃で戦争の火ぶたを切った日でもある。当時は国家神道というカルトのもと、仏教を蔑ろにしていたにしても、尊い日に何ということを・・こちらも忘れてはなるまい。
甘露なり・・!
年納めにはちょっと早い感じですが昨日、盛岡別院の本年の納め法要を行ないました。※といいましても別院居る時は常に護摩焚いていますけれども。
五黄の寅とは言ったものの、想像以上にあらゆることが激しく変わり過ぎる年だった、とお感じの方が多いのではないでしょうか。
無事息災に過ごせた、ということは、それだけでも感謝しなきゃないですね。
それでもこの年に、祈祷されて人生の一大事を成し遂げられたある御人からは【こんなにトラブルが無かった年は記憶にありません、自分の力では為し得ない事ばかりでした、深く感謝しております!】と嬉しいメッセージをいただきました。
酷な世の中でも、仏神の力を頼みつつやるべきをやる人は、荒波ですらもサーフィンしてしまう感です(^^;
一年の報恩にお参りされた皆さまには、お授けした、簡単ながら古来より験を伝える某お経も日用に加えて、残り一か月を息災かつ有利に向くよう、お過ごし頂きたく願います。
そういえば、修法中に【鎫は甘露なり】と響きが・・
そうか、字輪の向き癖で別観にばかり行きがちだったが、そうだよなァ。と、どういうことなんだろう?、と思っていたことまでが一気にほどけた!
【恐ろしい仏】の偏見で見られがちだが、やはり違うんだよね。祈る者に、参拝者に甘露を降らせていたんだ。・・この日は神棚とミニ仏壇の開眼もあったが、この写真にも【その甘露】の一端が見える気がする。こういう加持を受けた神棚や仏壇は【福聚】と成ろう。
太元帥明王は【闘神】のイメージしかないようだが、拙僧は折々に深みを気づかせてもらっている。ご縁を頂いているというのは有り難いことです。
今の流れが・・⁉
信徒さんにはお話ししていることだが、翌年の運気には、どうやらこの【年末近くの流れ】が影響している。
年末と言っても、秋10~11月くらいから年内いっぱい。
この時期がツイているとか忙しいと、翌年もそういう感じに向くものだし、逆にこの時期が苦しいとか落ち込んでくると、翌年も難しかったりしがちなもの。皆さんも振り返ってみられるといい。【そう言われてみれば、】と心当たりは、きっとあるはず。
【今の時期がどういう状況か】は、【来年を占う大きな要因】の一つと考える。
秋から調子が上がって来たゾ、という人は、その流れを大切に育むようにしたら、きっと新年もいい。
逆に、秋から調子が落ちてきたとかツイていない感じのある人は、早めに手を打って、年内に状況改善を図っておきたい所だ。それをせずに、新年になれば何かが変わると対処せずなら、きっと新年も下降線の延長となる。
「今年の汚れ、今年の内に♪」というCMがあったが、今の時期の不調はナメてかかると来年1年、泣く種となる。祓いは新年になってからでは遅い。年越し前に状況改善の努力はしておきたい。払うべきは祓い、供養すべきは供養しておくべきだろう。
またそういう点からも、今の時期は徳を積むにはお得シーズンとも思える。信徒さん向けに今年も始行した年末施餓鬼もその一端だ。
以前にも記したが、釈尊は【私ほど功徳を求める者はいないだろうよ】と申されたという。現代人は、欲は深く、幸せ探しと聞くと余念が無いが、その【私】を構成し取り巻く【縁や運】は功徳力による、その徳力を育む易行の最たるは施行による、とは思いも至らないようだが。
今回の施主様方には、自宅でもお勤めをしてもらう。せわしい時だからこそ、目先にただ流されるだけでない善行と時間で功徳を志す。
釈尊が求めて止まぬと申された功徳力、志ある施主様方には必ずや、その生き様の根っこを洗い、強化してくれる冥護功徳を得られるであろう。
翌年をアゲアゲにするには、12月の今、時の流れのままでなく何をしておくか、今をアゲアゲに向けることも肝心だ。
お見通し(((;゚Д゚))
恐山の本堂裏山には、不動明王が鎮座して奥の院となっている、そうだ。
その不動尊像の前に腰かけたその人は、後ろからやって来る足音に振り返り、女性が来るのを見て、席を動いた。
ところがいつまでも女性は来ない、姿もない。場所柄そういう類か?と祈りを済ませて山を下る。
と、下からさっきの姿の女性がやってきて声をかけてきた。「もしかして行者さんですか?」
戸惑う彼に、彼女はこう語った「さっき、奥の院に近づいたら【今は来るな】と声が響いて。」
「気のせいかと踏み出したら再度【今は来るな、この者と話している】と響きがして、ビックリして」山を駆け下りたと。
だからどうしても行者なのか?と確認しておきたく、声をかけたらしい。
ありがたい話にみえるが、この体験をされた怪談作家さんは、とんでもない恐怖に震えたという。ただ、手を合わせて拝んでいただけなのに仏は【話をしている】と語った。「神仏は何でもお見通し」を如実に思い知った、と。
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以前に読んだこの話を思い出すことがあった。
何年も問題なくやれてきた仕事でトラブルが発生。とんでもない客に関わってしまった、という。そのあおりで誹謗中傷もされて他客まで飛び火して相談。お祓いをされることになったが、ふと思う所があって申し上げた。
・・そういえば、授与した懐中守り、もう何年も祈祷されていませんよね。最低でも1年に一度はお護摩に入ってお加持し直しが必要ですよ、と申し上げたはずですよね?、と。
懐中守りとは、御守りの仏像というか、仏像タイプの御守りのこと。常の御守りは1年で納めてもらうが、こちらは一代守りとして一生の御守りとして持してもらう。
彫りこまれている仏像には、常の仏像同様の開眼を施してお渡しするが、形態としては御守り。なので、家庭で仏像をお祀りするに必須の、年一度の祭礼や厳重な扱いまでは必要ないが、普通の御守り同様のホッタラカシであってもならない。ゆえに、授与は余程の人に限っている。当山では数人のみ。
この人は、その余程の人であった。本人の気質のせいもあったが仕事も家庭も問題だらけ。心身も再起不能や命の際まであった。ご相談されてお祓いや供養などを重ねられ、当山での鑑定アドバイスは全て実行された。ゆえに懐中守りを授けた。そして、提案した鑑定通りに転居し資格を取り再就職し、家庭も円満となり仕事も引き立てを得てトントン拍子【おかげさまで、本当に何も苦が無くやっております!】と口癖のように話をされる。
それは結構だが、人というのは調子が良い時ほど肝心なことを忘れるものだ。いや、手間や金がかかることは忘れた振りをしたい、のかもしれない。
住職からこの話を聞いた時に、パッと脳裏に【全然拝んでねえぞ】の言葉が浮かんだ。私も懐中守りのことはすっかり忘れていたが、この言葉で思い出した。お不動さんからの通告だろう。
皆さんは普段感じることは無いと思うが、御守りは【身代わり】であって、障礙を除けさせながら持した人の業も負う。あまりに強烈な障りや業に耐えなくなると割れたり、腕輪数珠だと切れたりするが、そうならずとも負い続けている。鳴り護摩をやると判る。であるから、御守りは最大でも1年で終わり、切れた数珠は焚き上げ、感謝を込めて納めて新しい守りをお求めを、という。本当は数か月程度で替えるべきと思っている。
常の御守りにしてこの様であるから、半永久的な御守りならば、少なくとも1年に一度は感謝して祈祷し直し、仏の威力を復活させる必要があるのだ。時折には取り出してお供えと読経をするように、と言っているから、その程度はされているだろう。しかし、業を落とし威光を復活するのは俗人には不可能だ。専門の祈祷でなければならない。
ちょっと覚えるとか与えられると自分は特別、とイイ気になるのは人の常。だから余程の人じゃないと、なのだが・・。仏さんも手元に居るし、全てがトントン拍子だし、とりたてて祈祷などせんでもいいだろう、という気持ちがあったのではないか。現にご自身のことは新年祈祷以外はされなくなった。
そうした長年にこの人の業を負い過ぎた「懐中お不動さん」はもう限界、抑え込んできたトラブルが噴き出した、と私は感じた。いや、とっくの昔に約束を破った延長だからこの程度では済まないはずが、参拝だけは欠かさずにされているから、仏さんもそこに免じて耐えて頑張ってこられたのだと、想う。今回お祓いを申し込まれなければ、懐中仏は回収する腹だった。仏さんに申し訳が立たない。本当なら詫びの供養だけで1座行なうべきところだ。
神仏は声や動きで見せることは滅多にない。ゆえに、身近になればなるほど、敬意も謙遜も忘れて気にも留めずとなってしまうのかもしれない。しかし、我が脳裏にひらめき語りかけたように、神仏は見ている。先の怪談作家の話を借りれば、ただ【手を合わせてお参りをしているだけ】のつもりでも、神仏は【アナタと話をしている】というのだ!
意識では知り得ぬが、深層意識=マナ識アラヤ識アンマラ識という、煩悩や業、仏性や輪廻をつかさどる領域と話をしている、のだろう。我々の意識では制御も隠しもできない、あなたの心の奥底に秘めた部分と神仏は会話をしている。だから懴悔/三帰三帰竟/十善戎/発菩提心/三昧耶/を日々に繰り返し、深層意識にそれらを薫習させておくのは、仏と向き合うのに欠かせぬことだ。
そしてこの人はお参りを欠かしていない。違約をしながら何年も好調を持ちえたのは、仏が「参拝は欠かさぬ心」と会話し、仕方ないなァ~と、限界まで耐え下さったに、きっと他ならない。
見えぬから、聞こえぬからと義理を欠いては、それは身に返る。祈祷や相談で本堂に上がりながらも、焼香合掌一つせぬ人もいるが、礼儀知らずの愚の骨頂と常々思っている。そんな有様では、鑑定しても妙手が見えないとか祈祷しても難しい、は当り前。信仰以前のマナー問題だ。
参拝は、そこには【仏から<全てお見通し>の上で、会話を持ち掛けられている】と思うのが、どうやら正解であるようだ。本堂に入って来た地点から、いや、玄関を入った地点から、いや、電話をかけて来た地点から、既に見られているのだろう。
願いを叶え、災いをはらい、死者を導くのは、私ども寺族ではない。私共にキレイごとや泣いたり吠えたりしても、応えるのは貴方の心を見通す本尊以下、当山の仏衆である。
祈祷供養はもとより、鑑定とてそこに応えるのは神仏の意。与えられるのは貴方に見合った応えである。
恐れは必要ないが、畏れは忘れてならない。親しくあってはいいが、礼を欠いてはならない。これらをお読みいただき、力添えを頂くには如何にお参りをされるか、の心得とされたい。
ちなみに【死者もお見通し】らしい。事例はいずれの機会にか紹介する。
【注意喚起】
構うのもバカみたいですし、寺の恥でもありますので躊躇いますが、もう言っておくべきか、と副住職の勝手で書きます。
【遍照院に昔関係していたと語り、坊主/拝み屋/占いをしている者は全て、先代による破門者/絶縁者/あるいは無関係の嘘つきです】
とりあえず、コレは覚えておいてください。
「××さんからこちらと確執があったと聞いたが、それは本当なのか」と先月、朝7時に唐突に隣町から来たという女性。今アナタに答える義務などない、話をしたいなら予約をして来なさい、と返し、音沙汰無し。
かつては当山の弟子/師匠/本家/分家などと称して商売をしている輩が結構いたようです。名を言われても誰それ?な全く見ず知らずの賊らも往々でしたが、中には確かにかつて、先代の時に当山に関わりがあった者たちも。しかし当時幼き私から見ても、よりによって身の程を弁えぬ自己顕示欲の塊みたいな者ばかり。人手がどうしても欲しい時代だったにしても。
そしてそういう者たちが、他所で何を語りやっていたか、と言うと、
自分の哀しい境遇を語り、当山のあること無いこと悪口を言い、自分は偉いんだ凄いんだ拝んでやる占ってやる、花巻なんかに行ってはならない、というのが大方のパターンだったようです。おかしなもので、こういう話は尋ねずとも漏れ聞こえてくるもので笑。呪い潰すの云々と言い放った奴もおりましたね。恩を仇で返すザマ、を多々見聞きしました。
それはそうと、こんな【他のゴシップ話が十八番の寺教会に、信仰を寄せる信者達】の神経自体、イカレてると思うのですが。ゲスってこういう人達なのでは。
現住職は、先代の末っ子にして女性。ただでさえ年功序列男尊女卑の時代に上述の輩の取り巻き、若い女の子が早くから後継指名を受けたのですから、周囲からの誹謗中傷の風当たりは火を見るより明らか。先代に破門された者達も住職が絶縁した者も、執着だけはいつまでも執拗で。
住職就任から数年後、助法のお寺さんが「よく残った、お寺無くなってしまうじゃないかと思った」と言った程の、露骨で過酷な邪魔にも、現住職は寺を護り抜いてきました。
上述のような族らの話が聞こえても住職は「放っておけ、仏さんは見てるから」。知り得たうち一人の末期の姿は正に、天罰か報いか、あるものだなァ、と感じましたが、徐々にそういう問い合わせも少なくなり、大方死に絶えたのだろうと思っていましたが。
そこに冒頭の件。未だにそんなこと語っているバカ居るの?、なさけないにも程があるわ(失笑
寺教会というのは祈りを説き、安心立命を導くところであるはずです。仮にも宗教を生業にしているなら、仏の教えや祈りを通して己が感得した事など、いくらでも話には困らないはず。それを未だ、昔に当山に関わりあるの、可哀そうな身上だの、当山の悪口って・・飲み屋のホステスかよ。嘘はつき続けると自身も本当だと思い込んでしまうと言いますが、そうなのかも。長年仏を祀って宗教家をやってきても何んにも、宗教体験の自負すらも、得るモノはなかったんでしょうね。
そんな者に信仰を寄せる信者の質などゲス、と述べたように案の定、冒頭のような非常識。
住職がずっと黙ってきたのをイイことに、相変わらず言いたい放題・・冒頭の「本当なのか?」って、本当のことを喋られたら、窮地に追い込まれるのはアナタの先生サマですよ。どれ程どんなコトをやっていったのか、その一端は幼少だった私の脳裏にもしっかり焼き付いていますから、本人も忘れたはずはあるまい。
当山に居れなくなった=ウチのお不動さんに睨まれて居られなくなった、が正解。破門にされたワケを考えてみたら?ですね。
というわけで、未だに「昔当山に関わっていた/弟子/師匠/本家/分家等と称して、拝み屋/坊主/占いをしている者は、破門者か無関係のホラふき」です!
もし、出会ったりしましたら【破門かホラふき】と認知して、お気を付けください。
雄弁にモノを語る奴ほど、その真はいかがなものか。私たちは政治という場でサンザン懲りてきたはず、ですけれどもね。