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遍照院 へんじょういん 
お護摩と占い鑑定【公式】

寺ブログ by副住職

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2022-11-11 21:13:00

無など無い!

こんな記事を目にした。

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このJ尼に関しては、去年訃報ついでに個人ブログに書いたが、記事を読んでやっぱり腑に落ちないモノがあるので一言物申しておきたい。

 

記事中に彼女の言葉として

「いざ死んだら、怖さも懐かしさも無になると私は思います。もちろん、まだ一度も死んでいないから、本当のところはわかりませんが、死んだら無という気がしますね」 

という。

 

どう思うかは個人の自由だが、少なくとも仏教を奉じ行じた者には、こんな言葉は出てくるはずが無い。

端的に言えば、「死んで無になるなら、釈尊は仏教など説かなかったはず」だ。

 

以下、語弊を承知で簡単に述べる。

仏教の根本理念とでも言うべきものに三法印がある。無常&無我&涅槃だが、忘れてならないのは一切皆苦であり、コレを加えた四法印が正解だと思っている。

 

で、これらの言葉から仏教は「空しい儚い教え」と捉えられ、どうやら坊さんにもそんな理解が少なくないようだ。

 

だが、無常は読んで字の如し、常なるは無い=一切のモノは絶え間なく変化し続ける存在である、に過ぎない。自分に引き寄せて体一つとっても、日々に細胞が入れ替わり変化し続けるもので、昔の自分と今の自分は同じようで別物。

 

その変化し続ける自分は、歳喰いたくないと思っても老けるし、病気したくなくても病気になる。自分の事なのに望むように出来ないコトばかり=コントロール不能=意のままたる不変の「我」など存在しない=無我。

 

そして、インドでは「行為には潜在する作用力が伴い、形がなくなってもソレは作用する」と考えるのが普通らしい。これが業力だ。これを信じるか否かの問題はあろうが、釈迦は悟りにおいて是を語っている。少なくとも仏教者には事実である※1。行為による業力に引かれてまた存在が形成され、そのまた行いで業力が生じる。つまり、際限がないループ。我なくして輪廻とはこういうこと。存在とは「業が形を纏ったもの」というのが正しいのかもしれない。

 

※1 生前キリスト教信者だった人や神官さんだった故人も鎮めた経験から、個人的には業力とは普遍な真実であると思う。

 

仏教で語られる「苦」とは、本来の意味だと「不満足」と訳されるが正解らしい。変化し続けるということは一時、満足を満たしても、そのまま満ち足りが続くことはない。満腹でもまた腹は減り、素敵な家も高級車もイケメンも美女も老朽化し崩壊する。コントロール不能な我の欲するまま、際限なく変化が繰り返されるだけの世界の中で、その時その時を満たそうと追い続ける所、どこまでいっても「完全満足維持で完了」など、ない

 

果てしなく繰り返される変化の環境に、我欲の赴くまま渇愛を追い続け、そこで作った業力でまた輪廻して、命もつ境界では生老病死の苦しみを永劫に繰り返す

 

この苦しみから解き放たれる道、として説かれたのが仏教だ。

 

生を苦しみとするか?のインド中国日本での背景思想の差異等の視点はくどくなるので止めるが、釈迦は【生を何度も繰り返すのは苦しいことだ】と語っていることは、知っておいて欲しい。

 

つまり、私らを含むあらゆる存在は、終わりなき変化の中で、形を変えながら生滅を繰り返し続ける存在である、というのが釈尊の悟りの見立てではないか。

確かに物理的にも、微細なる数限りない素粒子が様々な縁力で結合離散し、生成消滅を繰り返し、あらゆる存在を作り上げているではないか。

形として滅したように見える物も、分子レベルでは分解されただけで、それらはまた別のモノを構成する要素となるのは、今は常識的な話。分子素粒子レベルで完全消滅ということは、無い。

 

長くなってしまった、ここらで。

すなわち、

存在とは永遠に「無」にはなり得ない業力と縁によって形を変えながら、どこまでも生成消滅を繰り返し続ける

いわゆる無機物だって然り、だから、命を持つ存在には絶え間なき再生によって、完璧満足などない苦しみが繰り返される。

仏教を学び、行をしてきた者ならば、この認識は得て然るべき、と思うのである。

 

死んだ者のことを今更とやかく言うつもりは無いし、彼女のような影響力の微塵もない田舎坊主の分際で、と思われるかもだが・・記事には「Jさんの生前の言葉に学び、これからを前向きに生きるヒントにしたいものですね」とあり、こんな仏教に非ざる言葉を【前向きに生きるヒント】なんて、仏教としてたまったもんじゃない、と書いた次第。

 

先日、「テレビではこういうの見た事あったけど、まさか自分が目の当たりにすることになると思わなかった」と同伴の方がショックを受けられた、激しい供養があった。死者の念が強烈すぎるとこういうこともある。そうでなくとも、当山で供養して事態が変化する方は少なくない。多かれ少なかれ、死んでも想念は残る、これは事実。コレの宜しくない執着→悪しき境涯への輪廻を戒めるのが、大乗の教えの概要だろう。無になるなどありえない。

 

もっとも、南伝仏教では【灰身滅智】を理想とすると聞くが、これは正に再生しない【無】を目指すもの。目指して修行して解脱しなければ到達出来ないのが【無】なのだ。

 

私が霊符を授かったY僧正は「祈祷の出来ぬ坊さんに、真の供養など出来ませんよ」と仰った。祈祷という「実際にコトを動かす祈りの現場」に関わらない坊さんには、釈尊が説いた存在の微細さなど、知る由もないのかもだが・・やはり、あくまで作家さんだったのね、である。

 

いや、悟ったから軽々しく「無」と言えたのだったら、批判は撤回せねばなりませんね。まあ、それは彼女が所属の天台宗=大乗仏教の目指し、得る所じゃない筈ですけれども。

 

2022-11-04 22:22:00

ピカールとミョウガ⁉

お釈迦さまに周利槃特(チューラパンタカ)という、お弟子さんがいた。

 

ところが、あまりに物覚えが悪すぎる。いや、自分の名前すらも憶えていられぬ有り様、修行仲間からも蔑まれ、悲嘆にくれる毎日。

 

そんなパンタカを見かねた釈尊は、「塵、垢を除け、と手でこの布を撫で続けなさい」と一枚の布を与えた。

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どうなりますか・・キレイだった布は、だんだん汚れてきます

 

「仏陀が繰り返し説かれていた無常とは、こういうことか!

 

それを契機に、今まで全く理解できなかった説法がほどける様になり、それを見た釈尊は更に「心の垢、塵を除くことが大切」と教え、最終的にパンタカは阿羅漢果を獲た、という。

 

この周利槃特の話、仏教に親しい人にはおなじみですが、アレ?と思う人もおられるかと。

 

そう、箒を与えて「塵を払い、垢を払え」というのが有名ver.ですよね。また、布で靴を磨かせた、という話でもあったりします。

 

が、私が読んだ本では「布で手を撫でさせた」のがメインで、箒や靴磨きは別の伝扱いでした。

 

2500年間の伝言ゲームじゃ、話が統一していないのは自然ですけれど;「無常を認識した」視点からはこの「布を与えた」のが実際なのかな、と思ったりします。

 

そう思うと、今日もした「真鍮磨き」は、原始仏教の教えの一部門でもあるのかも笑

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真鍮はひと月も経つと酸化してクスんで来ます。密教は法具がとても多い&護摩壇磨きまで入れて「2時間、あ゛~;」と思いますが、日々に用いるもの。磨かざるを得ません(^^;

 

ピカールつけて磨くとすぐ真っ黒になりますので、いちいち「無常・・」とは感じませんが、くすんだ法具がピカピカなるに「磨いたら光る!」の「無常」とは向き合っているかも!そして復た、くすんで行く、という「無常」とも;パンタカとはちょっと視点が違いますけどね。

 

そう思うと、真鍮磨きは「無常」から、図らずも「如来蔵」に気づく、修行なのかもです。

 

他寺さんはご奉仕の名のもと檀家さんにさせたりするそうですが、ウチでは信徒さんにさせることは無い・・やれるコトは何でも自分でやってしまうのが拙寺のサガですが、上述を思うと基本信徒には頼まない、ってのは教化的にはダメなのかも・・

 

ところで、薬味になる「ミョウガ」風味がイイですよね~で、これ、上述のパンタカさん由来⁉

 

なんでもパンタカの墓に生えた、得体不明の植物であった、らしい。

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彼は自分の名前すら忘れる有り様で、見かねたお釈迦さまが名を書いた幟を背負わせて、名を尋ねられたら幟を見よ、とさせたら、釈尊の書いた字に惹かれて来る人々からパンタカは托鉢に多量の布施を頂いたという。名を背負った=茗荷、というワケ。

 

ミョウガを食べるとバカになる、という一部の俗説もそんな理由~。でも、パンタカは最終的に「阿羅漢」になりましたから、むしろ有り難がるべきじゃない?

 

人は変わるもの。過去を引き合いにバカになるって言いは、周利槃特にもミョウガにも名誉棄損だよねェ、と思うのです笑

 

 

2022-11-01 21:13:00

もう⁉ですね~

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気がつけば今年も早、残り2か月。しかし、日々に追われていますと「今年は何をやったゾ」と思い出せない~;

 

皆さんはパッと答えられます?ハッキリと記憶に残るような今年の成果、あと二か月の内にどうにか作りたいものです(^^;

 

とりあえずここ続けて、難儀な祈祷していた数人から成就報告が入っているのは有り難いことです。

 

本日は月初の祈祷。長日祈祷の方々は祈祷されておりますのでご安心頂くと共に、ご自身も感応を心がけてお祈りとアクションをお忘れなく。

 

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昨日の岩手山。晩秋は空気が澄んでキレイですね。所用がてら一寸足を延ばした甲斐がありました。

 

皆様も、高い視点の中に足を運ばれて大空大地の氣をいただき、11月を張り切っていきましょう!

2022-10-20 23:25:00

自然に還さぬ顛末

「本当に後々の事まで考えてるのかなァ?こんなもの建てやがって!と後世の住職から恨まれるような気がしますけどねエ・・」と何年か前に他寺様と話をしましたが、コトはその懸念を先取りした問題もあるようで。

 

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納骨堂。ここ10~20年くらいやたらと増えているようです。最近は、カードをかざすと骨を収納棚からエレベータ方式で運んでくる近未来型も普及しているらしく、いわゆるお墓の持っていた陰気な概念や空気を打ち破るような存在感で建設されているみたい。まあ、寺も檀家もそれで納得ならいいのでしょう。

 

ただ、どうしても私的には【違和感】をぬぐい切れないものがあります。それは【土に返さないで、いつまで残しておくつもりなの⁉】

 

遺骨はいつまでも現世に晒しておくべきではない。この辺りの論考は書き出すと長くなるので端折りますが、日本においては伝統的にも、拙寺の霊的経験的にもそれは言えます。速やかに埋葬、自然に還されるべきと。まあ、そういう踏み込んだ視点はひとまず横に置いておくとしても、

 

【建物は必ず老朽化し、取り壊さなければならない時期が来るのです】

 

「永代供養で預かります」という触れ込みで、受け入れ時には大金を頂き、年間の管理料も入るから、運営には困らない、と考えるのでしょう。

 

しかし、如何に大金な納骨料とて膨大な建設費の前にはみな消えてしまうでしょうし、微々たる管理費など建物の修繕維持で利益にならないはず。毎年の火災保険料だけだってバカにならないでしょう。運営という立場の方々からしたら常識的なことですが、人や物が集う建物を維持するには、外からは見え難いですが大変なお金がかかります。それは年数が経過すればするほどに。

 

でも「その時お金を出せば後は管理費のみ」というような、広告をいくつも見ました。未来を想定していないのかなあ、と。

 

建物がもう持ちません、要解体となった時、どうするんだろう。

永代と言った手前、引き続き預かるのは当然として、改めて納骨料は請求できないでしょ。でも、ソレないと再建などできないよね。

身寄りのない人達のは死人に口なしで墓に合祀してしまう手はあるか。しかし道義としてどうよ?

檀家に頭を下げて引き取ってもらうのか。信用は憎しみになるだろうし、先祖代々の遺骨を多量に引き取れと渡されても檀家はパニックになるわ。

そして大金を投じたはずの祖霊は、居場所を喪失。

 

ついでに、建物を建てる時に忘れられがちですが、昔と違って解体にもかなりの費用がかかります。今後も高騰していくでしょう。寺に解体するだけの予算が残っているならまだ幸い、なければ大借金か手放すか朽ちるにまかせるか。供養どころかお寺の存亡にまでなりかねない

 

で、檀家とその祖霊を路頭に迷わすだけでなく、冒頭の、後世のお寺の後継者にとんでもないツケを負わせることになるのではないか、という話。

 

しかし、このニュースの納骨堂は「建物の耐久年数」以前に、運営法人が借金のカタに手放したそうで・・将来の維持以前に建築費すら払えなかったと。ココを買い取った法人に「持って帰れ」といわれたお骨も遺族もサンザンですが、【土に還すべき】という日本の死生観に適ったごく自然な感覚を忘れたツケと言えば、そうなのかもしれません。

 

しかし、その状況は今回のニュース当事者だけではなく、今後数十年かけて全国で溢れ出して来るのではないかと、懸念するわけです。

 

死生観も地域や時代と共に変化していくのは自然なことでしょうけれど、【お骨の扱い】という非日常は、ぶっ飛んだ今時思考の扱い方にしてしまっては、寺も祖霊も檀家も後悔する三方損になるような気がします。人ごとではありません。皆さんも今一度冷静にお考えされてみては。

 

2022-09-21 23:04:00

布施一想

お彼岸ですので、仏教の修行徳目について徒然に。

 

お釈迦さまの十大弟子に阿那律尊者という人がいる。涅槃絵解きにお参りされた人は聞き覚えがあると思う。そう、雲に乗って釈尊の母(マーヤ婦人)をお連れする坊さんだ。

 

ある時、尊者は「誰か、功徳を求めようとする人は、この針に糸を通してくだされ」と訴えた。

 

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 ほころびた衣体を縫おうにも、目が見えない。というのは、釈尊の説法中に居眠りしてしまい、それを咎められ深く悔いて「不眠不臥」の誓いを立て、猛修行に励んだ。「それでは体を壊してしまう」という釈尊や医師の制止も聞かず、ついに失明。(それでも修行の功徳で天眼を獲得)

 

「私がさせてもらおう」、尊者のこの呼びかけに応じたのは、お釈迦さまだった。焦る尊者「恐れ多くも全ての善と功徳を身につけられた仏陀、これ以上の善は必要ないのではありませぬか」。

 

対して釈尊は「世の中で、私以上に功徳を求めることを心がける者はいないであろうよ」と言い、糸を通されたという。

 

いつも信徒祈願ばかりなので先日、それを交えずに寺と家族の事だけで某尊の護摩を修した。行じていると、ふと思い浮かんできた。「そういえばT大僧正からはいつも護摩木を貰ったなァ」「易の某師からは築地の色々なモノを頂いたなァ」そして、唐突に上述の阿那律尊者の話も。

 

一体何の脈絡?と思いながら行法していて、ハッ!と気づいた。単に贈り物じゃなくて、私への布施だったんだ!と。

 

私(副住職)が風呂敷護摩を授かったT大僧正は、頻繁に護摩木をお送りくださった。高級和紙の杉原紙を作っている檀家さんが「和尚の毎日の護摩に使って欲しい」と奉納された、和紙製造で出るキレイに剥けた木。それを私にもお届けされた。易の大家であられた某師は、東京のど真ん中にお住まいで、時々に築地の幸をお送りくださった。

 

どちらも私が学ばせてもらっている立場なのに、申し訳ないなァ、ありがたく頂戴します、と思ってきた。が、いきなり浮かんできた阿那律尊者の話。

 

T大僧正は法を授けた私に、未熟ながら毎日その法を行じる私に護摩木という布施を通じて、ご自身も功徳を積まれようとしておられたのだ。易の某師も私が僧侶であるのは存じておられた。私への励ましとされながら、どこか功徳積みを期待されておられたのかもしれない。と、涙があふれてきた。

 

成仏に至るに必ず修さねばならない「六波羅蜜」という修行の筆頭に「布施」がある。喜捨。修行僧に施しを行なうことだ。執着を捨て、善を積む行。

 

釈尊はその功徳を至る所で強調されている。地獄に堕ちているお母さんを救う方法を示し給えという弟子に【夏安居に多くの修行僧に多くの食事を施しなさい】と言った話はご存じ、盂蘭盆の由来。町に現れた餓鬼を救う方法を問われるに【修行僧に布施して、餓鬼の名を指名せよ】と申された話は施餓鬼の根拠。坊さんのつける袈裟が田んぼをモチーフに作られているのは、それを身につける修行僧は福田であり、そこに施した者が功徳という収穫を得る、と示されたのも釈尊。

 

労働厳禁であった僧侶には生活し修行を続ける糧を得、在家にはその修行の功徳をおすそ分け頂く権利を得る。出した側も出された側もウインウインというのがその性質。それが制度化されたのが檀家。布施はつぶさには「ダーナ、檀波羅蜜」という。檀家の檀は「布施」。夫の「旦那」もこれに由来すると云々。

 

そうして寺に出入りして修行僧の生活を支え、功徳を積んだ人に与えられた名号を信士/信女という。いまでは安戒名として扱われているが、本来からするとこの戒名号すら「おこがましい」人が、ほとんどだろう。ちなみにお釈迦さまが示される功徳対象は、仏と「修行する」僧、である。少量の布施しか出来ない人は、自ら坊さんを選んで布施したという。制度化された檀家では、寺も僧侶も選べませんけどね・・

 

話が脱線した、戻る。

 

今時の人は「功徳」と言っても何だそれ?であろう。スピリチュアルな人がカルマだの言えば意識するのかもね。我らが生きる中に出会い負う、因縁や業を浄めて、より善き境涯へ向かうための善業力。悟りを得た釈尊ですら、尚も求めてやまないものだと申された。苦しみの境地を転換するに、退転なき喜楽を獲得するために、何としても必要な力用。それを手っ取り早く得るとして示された方法が、修行する僧侶への「布施」。

 

功徳なんてそんな目に見えぬもの、と思うかも。だが、空いた所に流れ込むのはエネルギーの法則。新たなるものを手に入れるには、手元の何かを捨てねばならない。廻らない人はこのことを忘れている、とは往々に感じる。自身の事にすら出し惜しむ者に、誰が手を差し伸べるというのか。

 

T大僧正が、取り立てて何もない拙僧如きにせっせと護摩木をお送りくださったのは、若輩ながら護摩行に勤しむ私への布施にして、釈尊が弟子阿那律にされて求められたのと同じこと、と気づかされた衝撃。名刹の住職にして、地位も名声も人望も弟子もお金も全てを手にされておられる御人にして、かくの如し。釈尊に然り、功徳の力用を真に知る御人はそうされるのだろう。得るばかり求めて施すを知らずんば、苦の娑婆の底は想う以上に深いぞ、と言われているようですらある。

 

その恩に報いる功徳となるほどの行を私が為し得たかは不明だが、故人となられたこのお二方は盆彼岸には卒塔婆を建てて(自分の寺ですがもちろん回向料を出して)回向している。ささやかであるが、それが布施していただいた私から、今度は冥界でも活躍されておられるであろうお二方へのお布施である。