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中道って真ん中じゃない!?

2024 / 09 / 19  18:29
中道って真ん中じゃない!?

お彼岸。

秋分の日は昼と夜の長さが等しくなる、という事から、コレは仏教の中道の教えにふさわしい!

というのと、

太陽が真西に沈む時・・日本で流行った西方浄土=極楽信仰と結びついたところから、

 

秋分の日を中心に前後3日間を加えて、仏道にふさわしい神聖なるシーズン!と相成った、とか(^^

 kamakura_daibutsu.png

彼岸=生死流転の川を渡った向こう岸の悟りの地。

 

ところでなぜ7日間?・・3、7、21などの区切りに用いられる数字には様々な意味合いが考察されていますがそれは省くとして、秋分の日だけ、にならなかったのは・・?

 

ローマは一日にして成らず、まして修行だよね?とは尤もですが・・7日間というには六波羅蜜という、仏道修行には絶対に欠かせない階梯がなぞらえられているんですね。6波羅蜜に先祖供養をプラス1=7日ってこと。

 

盆を終わったばかりの秋彼岸、そこにまた先祖供養ってのは~と思うかもしれません。じゃあ、盆と彼岸と何が違うのよ?といいますと・・

 

・盆は専ら、亡霊のもてなし、という側面が大きい。

・彼岸は上述のように、修行という観点が大きい。

 

彼岸の先祖供養というのは、単純に一方的に供養というよりは、拝まれる霊も施主と一緒に仏道修行に励ましめる、という感じかな、と思っております。

 taki_syugyou.png

さて、六波羅蜜については何度も話をしておりますのでスルーとして、ここでは彼岸のキーワードになります「中道」について一言。

 

ちょうど真ん中から秋分そして中道解釈から彼岸へと展開したわけで、ここに中道は「左右にぶれない真ん中/バランスの良い地点」との理解が見えます。

 

必然、仏教の中道もそういう解釈がほとんどのよう。

確かにそれも間違いではないのですが、釈尊の説いた中道は、厳密にはそういうことじゃない、んです。

 

【その人その人にとって、悟りへ向かうのに適切な在り方】を中道という、のだと。

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ご存じのように、仏教には「正しい在り方」とは盛んに説かれていても、何が正しいのかは明言されていません。八正道などその最たるものですね。

 

キリスト教やイスラム教に見られるような【神が指示した正解】など、存在しない。

 

それはなぜか。答えは、釈尊の説法の在り方にあります。

 

釈迦のソレは、ひたすらに対機説法でした。相手によって相手に応じてその都度、変幻自在に適切な対処を繰り出していく。

 

確かに、人は思考も生き様も抱えているモノも千差万別ですから、全ての人に共通して適切なる【絶対正解などありえない】

 

その人にとっての「適切な導き」それこそが「その人には正解」。

 

絶対的な「こうでなきゃ、」なんて無い。

 

その人を覚りへと導く、その人に見合った適切な向上修練の在り様を「中道」という、のだと。

 

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「中道」と漢字で書かれると「平均」みたいな意味に取ってしまいますが、近年進んでいるインド原典の研究からは、上述のように理解するのが正解らしい。

 

もっとも、釈迦説法が経によって矛盾を来す内容であったりするのも、この視点に立てば何ら矛盾ではなく、仏典が8万4千の法門と言われるほどに多種多様に展開したのも、人の数だけ適切は異なるのが自然なこと、というスタンスが根底にあったから、でしょう。

 

 ※ちなみにこの中道思想は、理論として最終的に大日経の三句法門の「方便を以って究竟とす」に結実した、と私的には思ってます。  マンダラ.jpg

 

【怠けるのでない、ムリを超えてやるのでもない、己にとって程よく、かつ確実に己を磨き上げていく在り方・生き様を心得よ】

 

お釈迦さまが申された肝心な歩み/中道とは、決して世間の価値の中間なんかじゃない貴方が覚りへと向上するに程よき努力の道、のことに他ならない。

 

自由と言いながら、ネットや誰かの意図で構築された絶対正義や疑義すら許さぬような権利義務福祉の名の下の横暴や体裁で、息苦しい空気が漂うこの国。釈迦が教える心得るべきは、そんな世情の中間を言うのではありません貴方自身がダラケず、ヘタレず、潰れず、己を見失わず、心地よく闘い行ける在り様こそ、心すべき、と言うのです。

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当山では彼岸に施餓鬼同行で仏道修練に参加される方々もおられ、それはまことに殊勝な心掛けでしょう。今年は盛岡別院での風呂敷護摩修行もあり、彼岸に見合うような仏道経験も提供できそうです。

 

一方、仏道修練が叶わないとか関心がない人も多分でしょう。ですがこういう機会ですので、上述の中道の教えに照らして、己の有り様/生き様を自省し改善へシフトするだけでも、彼岸という時期は有意義になる、のでは。

 

長年そういうモノだ、として暦の中に培われて来た時節には、それなりの氣の流れがあるものです。そういう時流を取り込むのも、コトをスマートに進め、そして成長する一手ですよ。

 

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 追記① こういう視点からすると、未だに日本仏教で信奉されてるらしい五時八教論争など、ほんと見当違いというか・・(※お経は全て釈迦滅後に長い時間をかけて編纂された史実は判明しているので、それだけでも論争の前提自体が間違っていた、という話なのに;)

 

その論争に乗ることなく「如来の説法に欠けてるトコなんかあるわけない/人の資質に応じて深くも浅くも言うも言わないもあるだけ/教えの受け手の問題でしかない」と一人言い切っていた弘法大師だけが、真実を見抜いていた・・ようです(◎o◎;)

 

 追記② かくも近年の仏典の原典研究からは、自宗だけが釈迦の真実だのこの経以外では救われないだの自宗以外は悪魔だのと主張してきた自称仏教教団ってのは、釈尊の意に全く添わぬ噴飯モノだった、とバレてしまってますww